中井三郎兵衛 (4代)
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なかいさぶろべえ (よんだい) 中井三郎兵衛 (4代) | |
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生誕 |
1851年12月25日 日本 |
死没 | 1932年3月27日(80歳没) |
住居 | 東京、京都 |
国籍 | 日本 |
別名 | 中井慈眼 |
民族 | 日本人 |
職業 | 実業家、政治家 |
活動期間 | 19世紀 - 20世紀 |
団体 | 三井家(別家) |
著名な実績 | 京都紙商組合創設 |
影響を受けたもの | 三井家 |
影響を与えたもの | 京都紙商組合 |
活動拠点 | 京都、東京 |
純資産 | 素封家 |
肩書き |
京都四天王(田中源太郎・内貴清兵衛らと共に) 京都府会議員 京都織物役員 東京印刷役員 京津電気軌道役員 王子製紙役員、 |
子供 | 中井誠三郎 |
親 | 中井三郎兵衛 (3代) |
親戚 | |
補足 | |
中井 三郎兵衛 (4代)(なかい さぶろべえ、嘉永4年12月3日(1851年12月25日)[1] - 昭和7年(1932年)3月27日[2])は、明治から昭和時代前期の実業家。田中源太郎、内貴清兵衛らとともに、京都四天王と呼ばれた。中井家は、三井家別家の家系。
略歴
[編集]3代目中井三郎兵衛に子がなかったため、1853年(嘉永6年)、3歳の時に河内国北河内郡の小原家から中井家へ養子に入った。1863年(文久3年)、13歳で三井家京本店に奉公し始め、1866年(慶応2年)に辞している。三井での奉公後、家業である「越三商店」を3代目とともに盛り立て、合名会社、株式会社へと改組、取扱商品を和紙から洋紙へと広げ、経営の近代化に努めた。1870年(明治3年)、三郎兵衛の名跡を相続した。和洋紙問屋・中井商店(現・日本紙パルプ商事)の社長を務めつつ、1884年に京都紙商組合を作り、京都織物・東京印刷・京津電気軌道・王子製紙などの役員、京都府会議員(明治14年5月からの2年間と同21年からの3年間[3])及びを京都市会議員(明治34年[3])を歴任した。慈眼には、東京府(東京市)日本橋区に居所[4]、京都に居然亭(現在は一部のみ残存)と呼ばれる広大な別荘[5]があり、さらに居然亭の南東側に新別荘を設けた[5]。この新別荘の庭園は後年、京都市指定・登録文化財(名勝)[5]となった。
系譜
[編集]- 養父 - 中井三郎兵衛 (3代) (三井家別家当主。世界1位の紙卸専門商社日本紙パルプ商事創業者。世界2位の国際紙パルプ商事も、中井三郎兵衛の興した事業がもとになっている。第8代三井八郎右衛門の要請で三井家大元方 (三井全事業統括機関) 総元締に就任、三井銀行・三井物産の設立に深く関与する。
- 子 - 中井三之助 (1875-1942)
- 同妻 - つる (芝原作兵衛娘二女)
- 子 - 中井巳次郎 (1878-1961、その名古屋別邸、名古屋市東区白壁の豪邸街にあり、盛田家屋敷(盛田昭夫)・岡谷家屋敷(岡谷惣助)と通り沿いに並んで立っていた。後に老舗料亭「か茂免」となる。当時からの白壁は美しい。時として、同邸・玄関前の砂利敷のスペースには、皇族・華族・軍部上層部・政財界上層部に愛用された優美な高級車・パッカードが見かけられた。)
脚注
[編集]- ^ 『紺綬褒章名鑑 大正8年~昭和16年』総理府賞勲局、1986年、p.3。
- ^ “中井三郎兵衛 (4代)”. https://kotobank.jp. 2019年1月22日閲覧。
- ^ a b 今江秀史「京都市指定名勝中井家の庭の築造過程と地割構造の解明」京都市文化財保護課研究紀要 第3号(2020年3月)
- ^ “時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家 (東京府(東京市)の二十九(人員通計三百二十七名) 日本橋区の七(人員十二名通計八十五名))”. www.lib.kobe-u.ac.jp. 2019年1月22日閲覧。
- ^ a b c “新指定・登録文化財 第32回京都市文化財”. www.city.kyoto.lg.jp. 2021年7月31日閲覧。
- ^ 今江秀史「京都市指定名勝中井家の庭の築造過程と地割構造の解明」京都市文化財保護課研究紀要 第3号155頁註20(2020年3月)
- ^ 人事興信録 第13版下 2018年10月08日閲覧。
- ^ 多田哲久、「三井の別家に見る株的性格 日本家族企業の先行条件」 ソシオロジ 2000年 45巻 1号 p.55-71, doi:10.14959/soshioroji.45.1_55