ロバート・ケイツビー
ロバート・ケイツビー Robert Catesby | |
---|---|
ロバート・ケイツビー(1794年、作者不明) | |
生誕 |
1572年3月3日かそれより後 ウォリックシャーのブッシュウッド・ホール(Bushwood Hall) |
死没 |
(32-33歳) スタッフォードシャーのホルベッチ・ハウス |
死因 | 射殺 |
別名 | ミスター・ロバート、ロビン・ケイツビー |
刑罰 | 遺体に対する斬首 |
配偶者 | Catherine Leigh |
子供 | William and Robert |
親 | William and Anne (née Throckmorton) Catesby |
動機 | ジェームズ1世及び側近らの暗殺(火薬陰謀事件) |
ロバート・ケイツビー(Robert Catesby、1572年3月3日頃 - 1605年11月8日)は、イングランド史において、プロテスタントのイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件の首謀者。
イングランドのウォリックシャーにて、リチャード3世時代以来の名門かつ熱心なカトリック教徒であるケイツビー家の三男として生まれる。その後、未だカトリックの影響が強かったオックスフォードのグロスター・ホールで高等教育を受けるも、おそらくイングランド王室への忠誠を誓わせる至上権承認の宣誓を嫌って、学校を中退した。1593年に裕福なプロテスタントの女性と結婚し、2人の子供を授かってプロテスタントの洗礼を受けさせるなど、一時は穏健派となるが、1598年に妻が亡くなると、過激派に回帰する。1601年にはエセックス伯の反乱に加担し、助命されるも多額の罰金を科され、チャスルトンの地所を売却した。しかし、諦めることはなく、カトリックの旗手である大国スペインの援助を求めたり(スペイン反逆事件)、イングランド国内で密かに活動するイエズス会神父たちの支援を行っていた。
1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人であるケイツビーは貴族院(ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。 1604年初頭には、トマス・ウィンター、ジョン・ライト、ガイ・フォークス、トマス・パーシーといった有力な同志たちを集め、計画準備を進めていった。
しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。 フォークス逮捕の連絡を受けたケイツビーは、ロンドンを脱出した仲間と共にもう一つの反乱計画があるミッドランズに向かい、最後の抵抗を試みようとした。ところが、ロンドンの情報が広がったことによってもはやケイツビーらを支持したり協力を申し出る者はおらず、計画は頓挫した。11月8日の早朝に、滞在していたスタッフォードシャーのホルベッチ・ハウスを、ウスターの州長官率いる200人の部隊に襲撃され、その戦闘の中でケイツビーは射殺された。 その遺体は一度は埋葬されるが、後に掘り起こされ、大逆罪の罪人として斬首されて、議会の外に晒し首にされた。
前半生
[編集]出自
[編集]1572年3月3日にウォリックシャーのラップワースのサー・ウィリアム・ケイツビーの三男として生まれた。母は同州コートン・コートのサー・ロバート・スロックモートン(1513年頃 - 1581年、KG)の娘アン・スロックモートン[1]。ケイツビー家は、リチャード3世の有力な参謀でボズワースの戦いで捕らえられて処刑されたサー・ウィリアム・ケイツビー(1450年 - 1485年)の直系子孫の家柄であった[2]。
父ウィリアムと母アンは有名な国教忌避カトリック教徒であり、父は信仰のために何年も投獄され[1][3]、1581年にはイエズス会神父エドマンド・キャンピオンを匿っていたとして、第3代ハローデン男爵ウィリアム・ヴォークスとその義理の兄弟サー・トマス・トレシャムと共に星室庁裁判にかけられたこともあった[4]。
母の実家スロックモートン家の当主サー・トマス・スロックモートンも、国教忌避の罪で罰金を科せられ、長年捕囚の身であった。もう一人の親族サー・フランシス・スロックモートンは、スコットランド女王メアリーの脱獄計画に関与していたとして1584年に処刑されていた[5]。
学生時代
[編集]1586年にケイツビーはオックスフォード大学のカトリック教徒が多いことで有名なグロスター・ホール(ウスター・カレッジの前身)で教育を受けた[1]。当時、大学で勉学を行う者、また公職に就きたい者は「至上権承認の宣誓」(イングランド国王が最高統治者であることを認める宣誓)を行う必要があり[6]、おそらくこれはケイツビーのカトリック信仰を危うくするものであった。そのため、学位を取得せずに退学し、ドゥエーの神学校に通ったものと思われる[7]。
1588年には、ロバートはフランシス・トレシャムと共にウィズビーチ城に投獄された[8]。
成人後
[編集]1593年にウォリックシャーのストーンリー・アビーのサー・トマス・リーの孫娘であるキャサリン・リーと結婚した[注釈 2]。彼女はプロテスタントの裕福な家の出身であったために2,000ポンドの持参金をもたらしただけでなく、ケイツビーを国教忌避法の対象外にすることもできた。翌年、祖母の死によりオックスフォードシャーのチャスルトンの地所を相続した。妻との間にできた長男ウィリアムは乳児期に死亡したが、次男ロバートは1595年11月11日にチャスルトンのプロテスタントの教会で洗礼を受けた [注釈 3]。 1598年に父ウィリアムが亡くなるとアシュビー・セント・レジャーズの財産は妻に委ねられ、ケイツビーとその家族はチャスルトンに残った。この頃のケイツビーは教会の教皇派であることに満足していたようだが[注釈 4]、同年末に妻が亡くなると過激になり、狂信的なカトリックに戻った[1][7][10]。
1601年、ケイツビーはトレシャムと共にエセックス伯の反乱に関与した。エセックス伯の目的はカトリックの利益ではなく、自身の利益追求だったかもしれないが、ケイツビーはこの反乱が成功すればカトリックの君主に戻るかもしれないと期待していた[6]。しかし、反乱は失敗に終わり、負傷したケイツビーは捕らわれ、ウッド・ストリート・カウンターに投獄された[11]。そしてエリザベス女王より4,000マーク(2008年現在の価値で600万ポンド以上[注釈 5])の罰金が科せられた[12]。これに対しトレシャムの父の手助けを受け[13]、ケイツビー自身もチャルストンの地所を売却することとなった[14][15]。 エリザベス女王の健康悪化に際して、ケイツビーがとった行動についてはいくつかの説がある。 一説に主要な教皇派として公然と反旗を翻すことを危惧して政府に投獄されていたという説もあるし[16][17]、あるいは1603年3月にクリストファー・ライトを使者としてスペイン王室に派遣し、エリザベス死後もフェリペ3世がイングランドのカトリック勢力を支援してくれるか確認させていたというものもある[注釈 6]。 ケイツビーは、イエズス会の神父たちに活動資金を提供し[19]、彼らと会う際にはミスター・ロバーツという偽名を使うこともあった[1]。
火薬陰謀事件
[編集]背景
[編集]1603年、エリザベス女王が亡くなるとスコットランド王のジェームズ1世がイングランド国王に即位した。ジェームズの母でスコットランド女王であったメアリーは敬虔なカトリック教徒かつ、そのために1587年に反逆罪で処刑されたことで知られ、そのためカトリック教徒たちはエリザベス時代の迫害が終わることを期待していた。実際、即位直後のジェームズのカトリック教徒に対する態度は穏健で寛容なものであった。しかし、16世紀後半のヨーロッパでは、プロテスタントの為政者が暗殺される、あるいは未遂の出来事が何件もあり、また1620年代までイングランドのカトリック教徒の中には暴君を権力の座から引きずり下ろし、摂政を立てることは正当化されうると考える者もいた[20]。 ジェームズの政治的著作の多くは、このような問題や「『信仰は異端者と共に守る必要はない』という(カトリックの)主張に対する反論」を主題としたものであった[21]。 そんな中でルター派に育てられ、イングランド王の戴冠式でイングランド国教会の聖公会を棄権した妻アンが、教皇クレメンス8世からロザリオを贈られたことが発覚し、即座にジェームズはすべてのイエズス会、カトリック司祭の追放命令を出し、国教忌避者に対する罰金を再開した[22]。 このため、ケイツビーはすぐに新たな王に対する忍耐を失った[23]。
イギリスの作家で歴史家のアントニア・フレイザーは、ケイツビーの精神性を「精神的な価値観のためには剣を手に取ることも躊躇しない十字軍のような者」と表現している[17]。 後に一連の出来事を叙述したテシモンド神父は、友人・ケイツビーに好意的であった。「彼の顔は非常に高貴であり表情に富む(中略)彼の会話と態度は独特の魅力がある堂々としたものであり、その人格の威厳は、彼と関わる人々の心中に抗い難い影響を及ぼした」。計画の同志であったアンブローズ・ルックウッドは死の直前に「彼(ケイツビー)のことを自分の命のように敬愛している」と語り[24]、また友人のジョン・ジェラード神父は、彼が「剣士や行動派と呼ばれる人々の集まりで尊敬されていた」とし、「彼以前に支持されうる主張をする者はほぼおらず、彼は知人や友人を増やしていった」と述べている[25]。 著述家のマーク・ニコルズは、「エセックス伯の計画が失敗したことへの苦い思い出が、既に研ぎ澄まされていた神経症をさらに鋭くした」と指摘している[1]。
計画の始動
[編集]後に「火薬陰謀事件」と呼ばれる事件の関係者として、現代においてガイ・フォークスの名前がよく知られているが、計画を立案した首謀者はケイツビーであったことはほとんど忘れられている[26]。 彼が計画を志した正確な日時は不明だが、1604年初頭には既に考えていたと推定されている[1]。 その前年の6月頃、ケイツビーの元を友人のトマス・パーシーが訪ねてきた。彼は第4代ノーサンバーランド伯の曾孫にあたり、血縁にあたる第9代ノーサンバーランド伯に仕え、カトリック教徒となる前には「荒々しい青年時代」を過ごしたと伝えられていた。エリザベス女王の晩年には主君の命令を受けて、当時のスコットランド王のジェームズとの密使も務め、イングランドのカトリック教徒を代表して、彼が王位に就いた後の宗教政策についても嘆願していた[27]。 パーシーは今やジェームズの裏切りと見える行為に不満を鳴らし、暗殺も辞さない態度を見せた。ケイツビーは「いやいや、トム。君が小さな目的のために危険を冒すようなことはないと思うが、もし反逆者になろうとするならば何か大きな利益を見出すべきだ」と答え、さらにケイツビーは「俺はもっと確実な方法を考えているから、すぐに君に知らせる」と続けた。 10月31日の万聖節の期間に、ケイツビーは従兄弟のトマス・ウィンターに声を掛けた。彼は兄ロバートと共にウスター近郊のハディントン・コートに住んでいた。トマスは弁護士として教育を受け、イングランドのために低地地方で戦ったこともあったが、1600年にカトリックに改宗した。エセックス伯の反乱が失敗すると、スペインに赴き、イングランドのカトリック教徒への支援を募ったという男だった。この時のケイツビーの招待は断られてしまったものの[28]、翌年2月にケイツビーは再びトマスに声を掛けた[29][30]。
1604年2月、ケイツビーのランデスの自宅をトマス・ウィンターが訪問し、この場には剣士ジョン・ライトもいた。ここでケイツビーはウィンターに対し、国王も参席する貴族院での議会開会式において、議場を大量の火薬で爆破し、国王以下、政府要人を暗殺する計画を打ち明けた。最初ウィンターは反対の意を示したが、ケイツビーは「病気の性質上、非常に痛烈な(sharp)治療が必要だ」と彼を説得した[31]。 この頃、カトリックのスペインはイングランドと外交的融和に動いていたにもかかわらず[32]、ケイツビーは海外勢力からの支援とそれによる平和的解決の希望を抱いていた。このため、ウィンターは大陸に渡り、愛想は良かったスペインの要人フリアス公[注釈 7]を説得して、近々行われる和平交渉にてイングランドのカトリック教徒に有利な条件を提示するように依頼したが、これは失敗に終わった。そこで次に、元イングランドの司令官でスペインに寝返った[33]ウィリアム・スタンリーとウェールズ出身の亡命スパイであるヒュー・オーウェン(Hugh Owen)と会合を持ったが、2人はスペインが支援してくれる望みは薄いと答えた。その代わりオーウェンは、ウィンターに、前もってケイツビーが「忠実な同志になるだろう紳士」と見当をつけていたガイ・フォークスを紹介してくれた。フォークスは元はイングランド出身の敬虔なカトリック教徒であり、オランダ独立戦争においてスペインのために戦うため、大陸に渡ったという男であった。 ウィンターはフォークスに「スペインによる戦争が我らの癒しにならないのであれば、イングランドで事を起こすことを決めている」と、計画を伝え、1604年4月に2人はイングランドに戻った[34]。 戻ってきたウィンターはケイツビーに、スペインは前向きな反応を示したが、実際には「行動で示されることはないのではないか」という懸念を伝えた。これについてニコルズは、それ以上の期待は抱いていなかったケイツビーにとっては何も驚くようなことではなかったのではいかと推測している[注釈 8][1][35]。
1604年5月20日、おそらくトマス・ウィンターがロンドンに滞在する際の常宿であったストランドのすぐ近くにある「ダック・アンド・ドレイク」にて、最初の会合が開かれた。参加者はケイツビーとウィンター以下、ジョン・ライト、トマス・パーシー、ガイ・フォークスの5人だった[34]。 パーシーはウィンターとフォークスがイングランドに帰国してから数週間後に、今回の計画を打ち明けられた[36][37]。 外部から隔離された個室において、5人は祈祷書に秘密の誓いを立てた。偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀を知らないジョン・ジェラード神父が別室で聖餐(ミサ)を行っており、その後、5人は聖体を拝領した[38]。
その後、1604年10月に新たな仲間ロバート・キーズが加わり[39]、火薬などの物資を保管するケイツビーのランベスの家の管理を任された。12月には[注釈 9]、偶然計画を知ってしまったケイツビーの使用人トマス・ベイツを仲間に引き入れた[39][40]。翌1605年3月までにトマス・ウィンターの弟ロバート、その義理の弟ジョン・グラント、ジョン・ライトの兄クリストファーも仲間に加わった[29][41][42][43]。
さらに同志を募る
[編集]当初、議会の開会式は1605年2月に予定されていたが、ペストの影響で10月3日まで延期されることが公布された。後の当局の説明によれば、計画者たちは1604年12月までに議場まで続くトンネルを掘る作業を行っていたとされるが、これについては証拠はなく、トンネルの痕跡も見つかっていない。また事実だとしても、貴族院の地下室の借地権が得られたことによってこの作業は不要になったと考えられる[44][45]。
1605年6月初旬にケイツビーは、イングランド国内におけるイエズス会の要人ヘンリー・ガーネット神父とテムズ・ストリートで会った。ケイツビーはフランドル地方での戦争の話題という形で「罪のない人を殺す」ことの道徳性について質問した[46]。これに関してガーネットは、こうした行為はしばしば許されることがある、と答えたとされるが、7月に再会した際には反乱を禁じた教皇からの手紙を見せたという。これに対してケイツビーは「私が何をしようとも、もしそれを教皇が知ったところで一般的な国益のために目をつむってくださるだろう」と答えた。ガーネットが非難すると、「私は教皇の考えをあなたから聞く義務はない」と答えた[47]。 その直後にガーネットはテシモンド神父より、ケイツビーが告白[注釈 10]して陰謀を知ったことを報告された。7月24日にガーネットはケイツビーの裕福な親戚であるアン・ヴォークスの家で、多くのイエズス会司祭を匿っていたエンフィールド・チェイスのホワイト・ウェッブズでケイツビーと3度目の会談をもった[49]。この時、ガーネットは自分は陰謀のことは知らないという形[注釈 11]で、ケイツビーの計画をやめさせようと無駄な努力を払うことになった[50]。
1605年7月20日までに火薬樽36本を地下室に運び入れたが、ペストの問題は去らず、今度は1605年11月5日まで再度、議会の開会が延期されることが公布された[51]。 ここまでケイツビーは計画のために多額の出資をしており、資金が枯渇し始めていた[52]。 計画が着々と進んでいく中、ケイツビー、パーシー、トマス・ウィンターが集まった8月のバースでの密会において、「仲間はまだ少ない」ため「最適と思われる者に声を掛ける」ことを許可することが決められた。ケイツビーは即座にアンブローズ・ルックウッドを一味に引き入れた。ルックウッドは若く裕福な男だったが、特に重要だったのは彼がコールダムで馬屋を経営する熱心なカトリック教徒であることであった。そして計画上、ルックウッドと彼の馬たちは他の仲間たちの近くにいる必要があったため、ケイツビーは彼にストラトフォード=アポン=エイヴォンのクロプトン・ハウスを借りるように説得した。
フランシス・トレシャムが陰謀に加担したのは10月14日のことであった[53]。トレシャムはケイツビーの従兄弟にあたり[注釈 12][54]、幼少時は2人でしばしばホワイトウェッブスを訪れる仲だった[49]。 この時のケイツビーの誘い文句は、後に逮捕されたトレシャムが告白しているが(ただし、捕らえられた時、トレシャムは仲間ではないと否認したため、自分に有利なように脚色されている可能性がある)、トレシャムは「王が殺された後、カトリック教徒への支援はどうなるのか」と尋ねたところ、ケイツビーは「カトリック教徒にとって必要なことは、それをなさねばならないことだ」というものであった。フレイザーは、ケイツビーは少なくとも1604年初頭にトマス・ウィンターと会話した時から、この問題に対する揺るぎない見解を有していたと捉えている。 10月21日のハローデンでの会合で、最後の加入者となるエバラード・ディグビーがやってきた。ケイツビーは延期された「聖ルカの祝日」にてディグビーに計画を打ち明けた。ルックウッドと同じくディグビーは若く裕福で馬屋を所有していた。ケイツビーは彼にアルセスター近くのコートン・コートを借りるように言った。これはエリザベス王女を誘拐する上での好地であった[53]。
トレシャムを採用した翌日、ケイツビーはロンドンでフォークスの元雇い主であるモンタギュー卿と挨拶を交わし、「議会に閣下は出席されるのですか?」と尋ねた。モンタギューは親戚に会いに来たが数週間後の議会にも出席するだろうと答えた。それに対しケイツビーは「閣下は出席したくないように見える」と述べた。これはかつての反カトリック法の成立に際してモンタギューは議会で反対意見を述べたことで投獄された過去があり、このため、彼は今議会でも同種の法が多く可決される見通しの間は出席を見合わせるつもりであることを認めた[55]。 後に暗殺計画が失敗した後、モンタギューは容疑者として当局に逮捕されることになったが、激しいロビー活動を展開し、数か月後に釈放された[56]。
ルックウッド、トレシャム、ディグビーの採用はロンドン市内の様々な酒場で行われた一連の打ち合わせの中で都度行われ、同時に計画の詰めが検討された。実行予定日、フォークスは導火線に火を着けた後、テムズ川を船で渡って逃げること、ミッドランズで蜂起を起こしエリザベス王女の身柄を確保すること、その後フォークスは大陸に渡りイングランドの状況をカトリック勢に説明することと決まった[55]。
モンティーグルの手紙
[編集]仲間内に爆発に巻き込まれるであろうカトリック教徒の知人を心配する声が挙がった[57]。 例えばパーシーは自分の庇護者であるノーサンバーランド伯を心配し、また若きアランデル伯爵の名前を持ち出した。ケイツビーは、軽傷を負えば当日は出席できないのではないかと提案した。しかし、ピーターバラ伯爵(モーダント卿)に警告したいというキーズの提案には、ケイツビーはこれを嘲笑した[58]。 10月26日、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー(トレシャムの義兄)は、ホクストンの自宅にいる時に匿名の手紙を受け取った。そこには「この議会で彼らはひどい打撃(blow)を受けるだろうが、誰が彼らを傷つけるのかはわからないだろう」という予言と、議会出席を見合わせるように警告が記されていた[55]。 モンティーグル男爵は手紙の意味がわからないまま、それをすぐに国王秘書長官ロバート・セシル(初代ソールズベリー伯爵)に届け出た[59]。 この時、ケイツビーはジェームズの狩りに同行する予定であったが、モンティーグルの使用人から裏切りがあったことを伝えられた。すぐにケイツビーはトレシャムを疑い、トマス・ウィンターも同じ見解を示した。2人はトレシャムを詰問し、「お前を吊るしてやる」とも脅した。しかし、トレシャムは手紙の差出人は自分ではないと弁明して納得させ、さらに翌日には計画の放棄を勧めた[60]。
ケイツビーはパーシーが北部から戻るのを待ってから決断を下した[61]。 彼は手紙の中身が不明瞭すぎて計画を脅かす恐れはないと判断し、このまま計画を進めるというものであった。フォークスが火薬の最終確認を行っている頃、他の仲間たちはミッドランズ地方に集まっていた。 一方のセシルは、実は手紙を受け取る以前から策謀の匂いを嗅ぎ取っていたが、具体的な内容や誰が関与しているのかといったことはわかっていなかった。そのため、事態の進展を見定めようと待つ方針を取っていた[62]。 11月3日、ケイツビーはロンドンでウィンター、パーシーと会った。この時の会話の内容は不明だが、後にパーシーがヨーク公の下宿で王女の動向を探っていたという目撃談があったことを踏まえて、フレイザーはエリザベス王女誘拐計画に何らかの軌道修正が入ったのではないかと推測している[63]。 ニコルズによれば、その1週間前の10月26日(モンティーグルが手紙を受け取った同日)、ケイツビーはフォークスと一緒にホワイト・ウェッブズにいて、エリザベス王女ではなくヘンリー王子の誘拐について話し合っていたという[注釈 13][64]。
計画の露見と死
[編集]議会開会の前夜である11月4日の深夜、ケイツビー、ジョン・ライト、ベイツの3人は、蜂起が計画されているミッドランズへと向かった。ところが同夜、モンティーグルの手紙に基づいて議場周辺が探索され、そこでフォークスが貴族院地下室で火薬を守っていたところを発見され、拘束された。翌日、フォークス逮捕の報がロンドン市中に広がるとここに残っていた仲間たちのほとんどは急いで街を脱出した。一方、そのようなロンドンの出来事を知らないケイツビー一行は馬の蹄鉄が外れたことで道中のダンススタンブルに一時的にとどまっていた。そこにロンドンから逃げてきたルックウッドが追いつき、フォークスが逮捕されたことを伝えた。ルックウッド以外のロンドンのメンバーも合流する中で、ケイツビーはルックウッド、ケイツビー、ベイツ、ライト兄弟、パーシーと共に、ディグビー率いる狩猟隊が待つダンチャーチに向かって馬を走らせた。その日の午後6時頃にはアシュビー・セント・レジャーズの実家に到着した。ここには母親とロバート・ウィンターが滞在していたが、ケイツビーは母に知られないように、ウィンターに街はずれで会うようメッセージを送った。そしてダンチャーチに到着するとディグビー率いる狩猟隊と合流し、彼らには王とセシルは亡くなったと嘘の報告を行うことで計画を続行させた[65]。
11月6日、彼らはウォリック城を襲撃して物資を調達した後、ノーブルックに移動してジョン・グラントが用意していた武器を回収した。そこからハディントンへと向かい、その道中でケイツビーはコートン・コートにいるガーネット神父や他の神父たちに、事の次第を伝え、カトリックの支持が強いとされるウェールズでの挙兵に協力することを要請する手紙を書いてベイツに届けさせた。手紙を読んだガーネットは、ケイツビーの思惑に反して、彼とその仲間たちに「邪悪な行為」を止め、教皇の説教に耳を傾けるよう懇願した。そして即座に逃亡生活に入り、これは結果としてガーネットらイエズス会の神父らが当局の捜査から数か月逃れられることに繋がった。 午後2時頃、ハディントンに到着したケイツビーらをトマス・ウィンターが出迎えた。陰謀への加担を疑われたくない家族や元友人たちは、彼らに同情を示さなかった[66]。
一方、ロンドンにおいて、捕まったフォークスは連日拷問を受けて計画や仲間についての供述をし始めていた。11月7日には当局はケイツビー以下、主だった者たちの指名手配を布告した。この日の早朝にはハディントンでは残った無法者たちが告解を行い、聖餐式に臨んでいた。フレイザーによれば、これは彼らの誰もが先が長くないことを覚悟してのものであった。謀略の主要メンバーと支援者、そしてディグビー率いる狩猟隊を含めた一味の数は、この時点で36名にまで数を減らしていた[67]。 降り止まぬ雨の中で彼らはヘウェル・グランジにあるウィンザー卿の空き家で武器や弾薬、資金を手に入れた。未だ彼らが期待していた大規模な反乱の目論見は、地元民の反応によって打ち砕かれた。彼らは、反乱者たちの「神と国」のためという意見に対し、「神と国だけではなくジェームズ王も支持している」と答えた。 午後10時頃、一行はスタフォードシャーとの州境にあるホルベッチ・ハウスに到着した。疲労困憊の彼らはヘウェル・グランジで奪った火薬を乾かすため火の前に広げたが、ここに火の粉が掛かり、火柱が上がった。この炎にケイツビー、ルックウッド、グラント、そして狩猟隊の一人が飲み込まれた[66]。
ケイツビーは重い火傷を負ったが生きていた。ディグビーとジョン・ウィンターは、表向き自首すると言って去った。トマス・ベイツはロバート・ウィンターと共に逃亡した。残ったのは(「まあまあ良い(reasonably well)」と表現される)ケイツビー、ルックウッド、ライト兄弟、パーシー、そして炎で失明という重傷を負ったジョン・グラントであった。彼らはこのままアジトに留まり、王の部下たちを待つことに決めた。ケイツビーは死期が近いことを確信しており、首にかけていた金の十字架に口づけすると「十字架の名誉」のため、すべてを捧げると言った。また、生きて捕まる気はなく、そのためには「自分の身は自分の剣で守るしかない」とも言った[68]。
11月8日の午前11時頃、ウスターシャーの州長官リチャード・ウォルシュ率いる200人の部隊がホルベッチ・ハウスを包囲し、襲撃した。トマス・ウィンターは中庭を横切っていたところを肩を撃たれた。ジョン・ライトも撃たれ、続けて彼の弟、そしてルックウッドも撃たれた。ケイツビーとパーシーはドア近くに立っていたというが、ラッキーショットによって二人ともに1発で仕留められたという。ケイツビーはかろうじて家の中に這い込んだものの、後に聖母マリアの絵を握りしめた遺体の状態で発見された。この絵と金の十字架はロンドンに送られ、「迷信的でありふれた偶像」が計画者たちを鼓舞したものと見なされた[68]。 生存者は生け捕りにされ、死者はホルベッチ近くに埋葬された。しかし、後にノーサンプトン伯爵の命令によってケイツビーとパーシーの遺体は掘り起こされ[69]、斬首された。ジョン・ハリントン(第2代エクストン男爵)は、ロンドンに向かう途中でこれら頭部を検分し、後に「これほど恐ろしい表情を見たことはない」と語っている[70]。 ケイツビーの首は議会堂の脇に晒され、「自分たちの失敗を直視させられる盲目の観衆(sightless spectators of their own failure)」の1人となった[71]。
著名な血縁者
[編集]現代の俳優であり、プロデューサーでもあるキット・ハリントンは、ケイツビーの傍系子孫にあたる。ローナン・ベネットとダニエル・ウェストと共に、火薬陰謀事件を犯人たち目線で扱ったBBCの3部構成ドラマ『ガンパウダー』の共同制作にあたり、さらにハリントン自身がロバート・ケイツビーを演じた[72]。
祖先
[編集]以下の図表はロバート・ケイツビーの先祖を血統図(Ahnentafel)のルールに従い、番号付けしたものである。
Ancestors of Robert Catesby | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ パサント(passant)とは、動物が左向かって歩行する様子の図案のこと。
- ^ この結婚証明の日付は3月2日付であり、当時はまだ21歳でなかったことが記述されている[1]。
- ^ このロバートは、後にアシュビー・セント・レジャーズに預けられ、トマス・パーシーの娘と結婚したという[1]。
- ^ 教皇派とは、表向きはプロテスタントの規則に従うものの、密かにカトリックを信仰していた者たちの通称[9]。
- ^ 1601年と2008年の3000ポンドの貨幣価値の比より計算。
- ^ この時、ライトはアンソニー・ダットソン(Anthony Dutton)の偽名を用いていた可能性がある[18]。
- ^ 後のポルトガル王ジョアン4世の母方の祖父にあたり、コンスタブル・オブ・カスティーリャ(Constable of Castile)の名誉称号も持つ。
- ^ 実際、1604年8月にスペイン王フェリペ3世は、イングランドと和平を結んでいる[1]。
- ^ ベイツ本人の告白による。
- ^ Haynesは、テシモンドが受けた告白はトマス・ベイツからとしている[48]。
- ^ 告解の守秘義務により、上司と言えど部下の司祭が告解で聞いた内容を知ることは問題があった
- ^ ケイツビーの母アン・スロックモートンは、トレシャムの母メリエル・スロックモートンの姉妹であった[54]。
- ^ ケイツビーは、ウィンターからヘンリー王子が議会開会式には出席しないと聞いていた[64]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k Nicholls, Mark (2008) [2004]. "Catesby, Robert (b. in or after 1572, d. 1605)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4883. 2010年5月27日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) (要購読契約)
- ^ Horrox, Rosemary (2008) [2004]. "Catesby, William (b. in or before 1446, d. 1485)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4884. 2010年7月13日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) (要購読契約)
- ^ Fraser 2005, p. 110
- ^ Levy, Leonard W. (1969), “The Right Against Self-Incrimination: History and Judicial History”, Political Science Quarterly, No. 1 (The Academy of Political Science, hosted at jstor.org) 84 (1): p. 5, JSTOR 2147044 (要購読契約)
- ^ Fraser 2005, p. 195
- ^ a b Fraser 2005, pp. 58–59
- ^ a b Fraser 2005, pp. 111–112
- ^ George Anniss. A History of Wisbech Castle. E A R O
- ^ Walsham, Alexandra (1993), Church Papists, Boydell Press, ISBN 0-86193-225-0, オリジナルの30 June 2012時点におけるアーカイブ。 15 July 2010閲覧。
- ^ Sharpe 2005, p. 30
- ^ Bengsten 2005, p. 25
- ^ Officer, Lawrence H. (2009), Purchasing Power of British Pounds from 1264 to Present, measuringworth.com, オリジナルの24 November 2009時点におけるアーカイブ。 3 December 2009閲覧。
- ^ Fraser 2005, p. xxiv.
- ^ Haynes 2005, p. 47
- ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 44–46
- ^ Fraser 2005, pp. xxv–xxvi
- ^ a b Fraser 2005, p. 112
- ^ Nicholls, Mark (2008) [2004]. "Wright, John (bap. 1568, d. 1605)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/30028. 2010年7月16日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) (要購読契約)
- ^ Haynes 2005, p. 49
- ^ Marshall 2006, p. 227
- ^ Marshall 2006, p. 228
- ^ Fraser 2005, pp. 41–42
- ^ Haynes, Alan (5 November 2009), The Enduring Memory of the Gunpowder Plot, bbc.co.uk 14 July 2010閲覧。
- ^ Spinks Jr 2005, pp. 24–25
- ^ Haynes 2005, p. 48
- ^ Sharpe 2005, p. 31
- ^ Fraser 2005, pp. 48–50
- ^ Haynes 2005, pp. 49–50
- ^ a b Fraser 2005, pp. 59–61
- ^ Fraser 2005, p. 93
- ^ Wormald, Jenny (1985), “Gunpowder, Treason, and Scots”, The Journal of British Studies, No. 2 (The University of Chicago Press, hosted at jstor.org) 24 (2): pp. 141–168, JSTOR 175701 (要購読契約)
- ^ Fraser 2005, p. 88
- ^ Fraser 2005, p. 87
- ^ a b Fraser 2005, pp. 117–119
- ^ Nicholls 1991, p. 39
- ^ Nicholls, Mark (2004). "Winter, Thomas (c. 1571–1606)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/29767. ISBN 0-19-865212-7. 2009年11月16日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) (要購読契約)
- ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 46–47
- ^ Fraser 2005, p. 120
- ^ a b Northcote Parkinson 1976, p. 96
- ^ Fraser 2005, pp. 130–132
- ^ Fraser 2005, pp. 56–57
- ^ Nelthorpe, Sutton (November–December 1935), Twigmore and the Gunpowder Plot, 8, Lincolnshire Magazine, p. 229
- ^ Fraser 2005, pp. 136–137
- ^ Haynes 2005, pp. 55–59
- ^ Fraser 2005, pp. 133–134
- ^ Fraser 2005, p. 154
- ^ Gardiner 1883, pp. 274–275
- ^ Haynes 2005, p. 62
- ^ a b Fraser 2005, pp. 42–43
- ^ Haynes 2005, pp. 65–67
- ^ Fraser 2005, pp. 146, 159
- ^ Nicholls 1991, p. 41
- ^ a b Fraser 2005, pp. 170–176
- ^ a b Nicholls, Mark (2004). "Tresham, Francis (1567?–1605)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/27708. 2009年11月16日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) (要購読契約)
- ^ a b c Fraser 2005, pp. 178–179
- ^ Haynes 2005, pp. 125–126
- ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 62–63
- ^ Haynes 2005, p. 82
- ^ Haynes 2005, p. 89
- ^ Fraser 2005, pp. 180–182
- ^ Nicholls 1991, p. 43
- ^ Fraser 2005, pp. 187–189
- ^ Fraser 2005, pp. 197–198
- ^ a b Nicholls 1991, p. 42
- ^ Fraser 2005, pp. 200, 202–205
- ^ a b Fraser 2005, pp. 218–222
- ^ Fraser 2005, pp. 205–206
- ^ a b Fraser 2005, pp. 222–225
- ^ Dixon 1869, p. 190
- ^ Fraser 2005, p. 235
- ^ Haynes 2005, p. 104
- ^ “Kit Harington: My ancestor tried to blow up parliament”. bbc.co.uk (19 October 2017). 27 October 2018閲覧。
- ^ a b History of Parliament: Sir Richard Catesby, accessed May 2020.
参考文献
[編集]- Bengsten, Fiona (2005), Sir William Waad, Lieutenant of the Tower, and the Gunpowder Plot (illustrated ed.), Trafford Publishing, ISBN 1-4120-5541-5
- Dixon, William Hepworth (2009), Her Majesty's Tower, 2, Charleston, South Carolina: BiblioBazaar, LLC, ISBN 978-1-103-08639-9
- Fraser, Antonia (2005), The Gunpowder Plot, London: Phoenix, ISBN 0-7538-1401-3
- Gardiner, Samuel Rawson (1883), “The Oath of Allegiance”, History of England from the accession of James I. to the outbreak of the civil war 1603-1642 (London: Longmans, Green) 1
- Haynes, Alan (2005), The Gunpowder Plot: Faith in Rebellion, Sparkford, England: Hayes and Sutton, ISBN 0-7509-4215-0
- Marshall, John (2006), John Locke, Toleration and Early Enlightenment Culture, Cambridge: Cambridge University Press, ISBN 978-0-521-65114-1
- Nicholls, Mark (1991), Investigating Gunpowder plot, Manchester: Manchester University Press, ISBN 0-7190-3225-3
- Northcote Parkinson, C. (1976), Gunpowder Treason and Plot, London: Weidenfeld and Nicolson, ISBN 0-297-77224-4
- Sharpe, J. A. (2005), Remember, remember: a cultural history of Guy Fawkes Day, London: Harvard University Press, ISBN 0-674-01935-0
- Spinks Jr, Henry Hawkes (2005), The Gunpowder Plot and Lord Mounteagle's Letter, Whitefish, Montana: Kessinger Publishing, ISBN 1-4179-3083-7