ヤン・パトチカ
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1971年 | |
人物情報 | |
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生誕 |
1907年6月1日 チェコリベレツ州ボヘミアトゥルノフ |
死没 | 1977年3月13日 (69歳没) |
出身校 | カレル大学・ソルボンヌ大学 |
学問 | |
研究分野 | 哲学 |
研究機関 | カレル大学 |
ヤン・パトチカ[1](チェコ語: Jan Patočka, 1907年6月1日 - 1977年3月13日)は、チェコの哲学者。
経歴
[編集]1907年、東ボヘミアのトゥルノフ(Turnov)に生まれる。1928年、パリのソルボンヌ大学に留学。1932年、カレル大学を卒業。ベルリンとフライブルクに留学し、フッサールやハイデッガーに学ぶ。1936年、カレル大学に提出した教授資格請求論文『哲学的問題としての自然的世界』を出版。1939年、ナチスのチェコスロバキア侵攻によって大学が閉鎖され、解職される。
戦後の1945年、大学に復帰するが、1948年のチェコスロバキア共産党のクーデターによって再び解職。1950年からプラハのマサリク研究所司書。1968年の「プラハの春」によって大学に再復帰するが、ソ連の軍事介入によって再び解職。
1977年、ヴァーツラフ・ハヴェルらとともに、グスタフ・フサーク政権の人権侵害に抗議する反体制運動「憲章77」の発起人となる。そのため逮捕され、当局の取調べ中に心臓発作で死去。
弟子にナショナリズム研究で高名なアーネスト・ゲルナーがいる。
研究内容・業績
[編集]- 主著は『歴史哲学についての異端的論考』で、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を継承し、前歴史的な生命の世界としての自然的世界から、技術と戦争の時代としての20世紀およびヨーロッパの運命についての思索を展開する。エルンスト・ユンガーやティヤール・ド・シャルダンを引きながら、ニヒリズムの超克を主張。モデルをプラトンの「魂への気遣い」にとった。
- フランスでは翻訳が多数出版されており、『歴史哲学についての異端的論考』にはポール・リクールの序文とロマン・ヤコブソンの解説が付けられている。
著作
[編集]参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ 「ヤン・パトチュカ」と日本語表記される