ミハイ・アントネスク
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ミハイ・アントネスク Mihai Antonescu | |
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生年月日 | 1907年11月18日 |
出生地 | ルーマニア王国 イイラヴァ |
没年月日 | 1946年6月1日(38歳没) |
死没地 | ルーマニア王国 イルフォヴ県ジラヴァ |
出身校 |
聖サヴァ国立大学 ブカレスト大学 |
前職 | 大学教授 |
ルーマニア王国副首相 | |
内閣 | イオン・アントネスク内閣 |
在任期間 | 1941年6月29日 - 1944年8月23日 |
国王 | ミハイ1世 |
ルーマニア王国外務大臣 | |
内閣 | イオン・アントネスク内閣 |
在任期間 | 1941年6月29日 - 1944年8月23日 |
国王 | ミハイ1世 |
ミハイ・アントネスク(Mihai Antonescu, 1907年11月18日 - 1946年6月1日)は、ルーマニア王国の政治家、教授。第二次世界大戦中の副首相兼外務大臣。
生涯
[編集]イイラヴァ出身。1940年9月、イオン・アントネスク政権樹立後、宣伝大臣に任命された。1941年6月、外務相に任命され、1942年から1944年まで副首相を兼任した。イオンの不在(1941年の軍視察等)時には、国家指導者を代行した。
ドイツの圧力により、反ユダヤ人法を採択し、ユダヤ人を逮捕した。一方で、ドイツとの協力に上限線を定めようと努め、交渉のため再三ドイツを訪問した。スターリングラード攻防戦でのルーマニア軍撃破後、西側との単独和平の構想に傾き、イオンの委任により、ルーマニア、イタリア、ハンガリー3カ国の戦線離脱の可能性をイタリアに打診し始めた。ベニート・ムッソリーニからは肯定的な反応が得られたが、その後の進展はなかった。1943年2月には、駐スイス、ポルトガル、スペイン大使館を通して連合国と接触を図った。同年4月、アドルフ・ヒトラーは、ミハイの罷免をイオン・アントネスクに要求したが、これは拒否された。
1944年8月23日、イオンと共に逮捕され、ソ連に移送された。戦後、ルーマニア共産政権に引き渡される。1946年5月17日、死刑を言い渡され、銃殺された。