マヌエル・プラド・イ・ウガルテチェ
マヌエル・プラド・イ・ウガルテチェ | |
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1961年9月、ペルーを訪れる米大統領ジョン・F・ケネディを迎えるプラド・イ・ウガルテチェ | |
第50、54代ペルー大統領 | |
任期 1956年7月28日 – 1962年7月18日 | |
副大統領 | ルイス・ガジョ・ポーラス カルロス・モレイラ・イ・パス・ソルダーン |
前任者 | マヌエル・アルトゥロ・オドリーア |
後任者 | リカルド・ペレス・ゴドイ |
任期 1939年12月8日 – 1945年7月28日 | |
副大統領 | ラファエル・ラルコ・エレーラ カルロス・ディエゴ・ヒブソン |
前任者 | オスカル・ライムンド・ベナビデス |
後任者 | ホセ・ブスタマンテ・イ・リベロ |
個人情報 | |
生誕 | 1889年4月21日 ペルー、リマ[1] |
死没 | 1967年8月15日 (78歳没) フランス、パリ |
政党 | プラディスタ民主運動 |
配偶者 | エンリケタ・ガルランド・イッギンソン クロリンダ・マラガ・デ・プラド |
親 | マリアーノ・イグナシオ・プラド マリア・マグダレナ・ウガルテチェ・グティエレス・デ・コシオ |
専業 | 銀行家 |
マヌエル・カルロス・プラド・イ・ウガルテチェ(スペイン語: Manuel Carlos Prado y Ugarteche、1889年4月21日 - 1967年8月15日)は、ペルーの銀行家、政治家。元ペルー大統領マリアーノ・イグナシオ・プラドの息子としてリマで生まれ、第50代(任期:1939年 - 1945年)および第54代(任期:1956年 - 1962年)ペルー大統領を務めた。36歳年上の兄レオンシオ・プラド・グティエレスがいるが、グティエレスはウガルテチェが生まれる6年前の1883年に太平洋戦争のウアマチュコの戦いで戦死した。
生涯
[編集]プラド・イ・ウガルテチェは青年軍人として1914年にペルー大統領ギジェルモ・ビジングルストを失脚させたクーデターで大きな役割を果たした。1934年にはペルー中央準備銀行総裁に就任した。
1939年、保守派でありながら左派政党アメリカ革命人民同盟(APRA)の助力を借りてペルー大統領に当選した。プラドは「就任したら、最初にやることは政治恩赦を宣言して政党の追放に終わりを告げることです」と宣言した。1941年にはエクアドルとの国境紛争でペルーに有利な結果をもたらした[1]。
2度目の大統領期(1956年 - 1962年)において、大規模な弾圧を受けた政党はAPRAだけであったが、APRAは先代大統領マヌエル・アルトゥロ・オドリーアによって1948年に違法を宣言されていた。プラドは新しく選出された議会にAPRAの合法化法案を提出すると宣言、法案は議会を無事通過してAPRAの結党者の1人であるビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレが追放先から帰国した。
外交政策では米国を支持しており、第二次世界大戦中の1942年には南米ではじめて枢軸国との外交関係を断絶した。また、日系ペルー人を米国に追放することを強く支持したが、一部の歴史家は民族浄化が本当の目的であると指摘した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “プラド・イ・ウガルテチェ”. コトバンク. 2019年4月14日閲覧。
- ^ Varner, Natasha (2019-01-13). “The plight of Japanese Peruvians in America” (英語). The Week (The Week Publications, Inc.) .
公職 | ||
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先代 オスカル・ライムンド・ベナビデス |
ペルー大統領 1939年 - 1945年 |
次代 ホセ・ブスタマンテ・イ・リベロ |
先代 マヌエル・アルトゥロ・オドリーア |
ペルー大統領 1956年 - 1962年 |
次代 リカルド・ペレス・ゴドイ |