フランツ・ファン・バルコム
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Frans van Balkom | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | オランダ | |||||
生年月日 | 1939年10月23日 | |||||
出身地 | リンブルフ州 ケルクラーデ | |||||
没年月日 | 2015年9月2日(75歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
ラピドJC | ||||||
監督歴 | ||||||
1973-1975 | 読売クラブ | |||||
1976-1977 | 香港代表 | |||||
1978 | シャフバズ | |||||
1979-1980 | NIACミトラ | |||||
1979 | インドネシア代表 | |||||
1984 | アル・ナフダ | |||||
1995-1997 | アルビレオ新潟FC / アルビレックス新潟 | |||||
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フランツ・ファン・バルコム(オランダ語: Frans van Balkom、1939年10月23日 - 2015年9月2日)は、オランダのサッカー選手・サッカー指導者。
来歴
[編集]1939年10月29日、オランダリンブルフ州ケルクラーデで生まれる。現役時代はローダJCの前身ラピドJCでディフェンダーとしてプレー。[1] 引退後はドイツサッカー連盟でデットマール・クラマーの師事のもと指導者となり[2]、1972年から1975年まで読売サッカークラブの監督に就任。読売時代は当時高校1年生のGKだった松木安太郎をDFにコンバートしトップチームに昇格させた。
1976年には香港代表監督に就任[3]。1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選で最終予選に進むが、5戦全敗で敗退[4]。1978年退任。その後イランのペルセポリス、インドネシア代表、香港の東昇、菱電の監督を務めた。
1993年、松木安太郎が監督に就任したヴェルディ川崎のヘッドコーチに就任し、V川崎のJリーグ初代王者に貢献。1994年に新潟県の外国人スポーツ指導者招待事業で来県。現在のアルビレックス新潟の前身となる新潟イレブンSCヘッドコーチに就任し、1995年のアルビレオ新潟FC監督、1997年のアルビレックス新潟監督を歴任。
新潟時代には全国社会人サッカー選手権大会準優勝、北信越サッカーリーグ2連覇、全国地域リーグ決勝大会準優勝でクラブをJFL昇格に導いた。
1998年に新潟の監督を退任。その後はベルギー、イギリス、オランダのクラブで監督を歴任した。
2015年9月2日、かねてより前立腺がんの病気療養中だったがスキン・オプ・フールにて死去。享年74[5][6]。同年12月19日、かつてバルコムの指導を受けた新潟の元選手が中心となり、当時のスタッフや関係者等を集めた「バルコムさんを偲ぶ会」が新潟市内のホテルにて行われた。
参考文献
[編集]- ^ Frans van Balkom
- ^ 相川亮一さんの逝去を悼む - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
- ^ 前荷蘭國家隊領隊教過港隊
- ^ 鍾楚維寄語新掌舵人要夠膽
- ^ 『元監督 フランツ・ファン・バルコム氏 ご逝去のお知らせ』(プレスリリース)東京ヴェルディ1969、2015年9月3日 。2021年9月2日閲覧。
- ^ Overlijdensbericht Frans van Balkom De Limburger/ Limburgs Dagblad d.d. 3 september 2015 op Mensenlinq.nl
外部リンク
[編集]- フランツ・ファン・バルコム - Transfermarkt.comによる選手データ
- フランツ・ファン・バルコム - Transfermarkt.comによる指導者データ