フランソワ=コンスタン・ジレル
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フランソワ=コンスタン・ジレル | |
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生誕 |
Constant Marie Girel 1873年12月25日 フランス・アン県セセル |
死没 |
1952年2月14日(78歳没) フランス・アン県セセル[1] |
国籍 | フランス |
フランソワ=コンスタン・ジレル(François-Constant Girel、1873年 - 1952年)は、フランスの映画技師。
ルイ・リュミエールに雇用され、アレクサンドル・プロミオにわずかに先んじて、各地に派遣される最初期の技師のひとりとなった。
「ドイツに派遣されたフランソワ=コンスタン・ジレルは、移動の便宜のために小船を借り、その船上で撮影もして、眼前を過ぎてゆくライン川の河岸の様子を捉えた。リヨンの新聞は<これはまったく新しい効果をもった眺めであり、ケルンへ向かう小船から撮影されたもので、有名なライン川の河岸を壮大なパノラマとして観ることができる>と記した。[2]」
ジレルは、映画の撮影や普及のために世界各地を旅行したが、とりわけロシアや日本に出向いたことが特筆される。
オーギュスト・リュミエールとリヨンの理工学校で同級生であった稲畑勝太郎は、リュミエール社からシネマトグラフの装置2台とフィルムを買い入れ、日本における興行権を取得するとともに、技師としてジレルを伴って、1897年に帰国し、日本で最初の映画の上映を実現した[3]。ジレルは日本で映画の撮影もおこない、その多くは現像に不備があって失われたものの、18本の作品がリュミエール社のカタログに記載された[4]。
脚注
[編集]- ^ Relevé généalogique sur Filae
- ^ Briselance, Marie-France; Morin, Jean-Claude (2010) (フランス語). Grammaire du cinéma. Paris: Nouveau Monde. p. 44. ISBN 978-2-84736-458-3
- ^ 鴇明浩・水口薫 (1996年9月17日). “京都の初期映画事情(1896-1912)シネマトグラフと稲畑勝太郎”. シネマガジネット!/京都大学. 2022年9月18日閲覧。
- ^ 長谷憲一郎「日本における稲畑勝太郎のシネマトグラフ事業再考——新資料「稲畑勝太郎のリュミエール兄弟宛て書簡 4 通(1897 年)」 を中心に」(PDF)『映像学』第104号、2020年、51-72頁、2022年9月18日閲覧。