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ノーマン・W・ウォーカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ノーマン・W・ウォーカー(英語:Norman W. Walker、1886年1月4日 - 1985年6月6日)は、イギリスのビジネスマンで、野菜ジュースによる栄養・健康の分野における先駆者であった。ウォーカーは、生野菜や果物のジュースを飲むことで、健康を維持回復できると主唱した。彼の設計に基づいてノーウォーク式液圧ジューサーが開発された。このジューサーは現在でも製造販売されている。ウォーカーは、保健や栄養に関する書籍を複数執筆した。

ウォーカーは1937年から1978年までの間に少なくとも6冊の著書を刊行した。彼は生鮮食品やジュースの摂取、ベジタリアン運動の先駆者であり、今日製造されるジューサーを発明した。

複数の公的な情報源や[1][2][3]、アメリカ合衆国社会保険死亡登録簿英語版[4]および墓碑銘[5]はすべて、彼が99歳まで生きたことを示している[6]。こうした証拠にもかかわらず、アメリカ合衆国で出版される書籍の中にはウォーカーが110歳以上の長寿だったと記すものがある[7]

生涯

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ウォーカーは、1886年1月4日にイタリアジェノヴァで、スコットランド出身のバプティスト派牧師であるロバート・ウォーカーとリンダ・モー・ウォーカーの間に生まれた。夫妻は成人した子供を6人もうけ、ウォーカーはその2人目だった。青年時代に、フランスの地方にある農家で弱った体を回復した際に、野菜ジュースの効能を発見した。台所で女性がニンジンの皮をむくのを見て、皮の裏側にある水分に気づく[8]。ウォーカーは皮を挽くことを決め、初めてニンジンジュースを作った[8]

ウォーカーは1910年に、アメリカ合衆国に住む両親や兄弟の後を追う形で、客船ルシタニアに乗ってイングランドを離れ、10月にニューヨークに到着して[2]、さまざまな職(入国審査官には「画家」と答えていた)に就いた。ウォーカーは公式の連邦国勢調査には名前を見いだせないが、ニューヨーク州による1915年と1925年の暫定州勢調査には妻のマーガレットとともに記載されている。その中では出身地を「イタリア」、職業はそれぞれ「管理人」「不動産業」としている。

ノーマン・W・ウォーカーは1913年6月11日に、ニューヨーク市でニューヨーク出身のマーガレット・ブルース・オルコットと結婚した(ニューヨーク州のオンライン結婚インデックスによると、結婚証明書No.13485)。マーガレット・ウォーカーは1970年11月に死去(ニューヨーク・タイムズの死亡記事と社会保険死亡登録簿による)した。ノーマンとマーガレットがいつどこで離婚したかは不明であるが、1943年1月18日の夕刊紙リノ(ネバダ州)にはサンフランシスコのノーマン・ウォーカーとカーソンシティのヘレン・ルース・ケルビーの結婚許可証が報じられている。ウォーカーはいずれの結婚でも子供をもうけた形跡はない。

1918年11月22日に、ウォーカーは合衆国市民権をニューヨーク州裁判所で取得した[3]

1933年5月6日にニューヨーク・タイムズは「昨日、一般管轄裁判所でアレン判事は、N.ウォーカー(47歳)に対して3年以内の期間を定めない懲役刑を申し渡した」と報じた。これは1932年以来、同紙のこの事件に関する5つ目の記事だった。原因となった罪は、ウォーカーがニューヨーク市にあるブロートン真栄養学研究所の常務としてニューヨーク・タイムズへの広告掲載に関与したことで、伝えられるところでは6週間の研修ののちにその学校での就職を約束していた。しかし、授業料150ドルの返済も就職もおこなわれなかった。裁判で証言した保護観察官によると、30人の卒業生は合計4,500ドル(消費者物価指数換算で2015年時点の80,000ドル相当)を失った。ウォーカーが実際にどの程度服役したかは現時点では不明である。

後にウォーカーはカリフォルニア州ロングビーチに転居した[7][8]。医師とともにジュースバーを開き、宅配も提供した[7][8]。1930年までに特異性のある病状に対応した何十ものジュースの調製法を考案した[8]。ウォーカーは、新鮮なジュースによる大腸の浄化が健康の鍵だと信じていた[8]。ウォーカーは自らジューサー「ノーウォーク」を設計した[9]。これはゆっくりと野菜を砕くグラインダーとジュースを抽出するプレス機の二つの部位からなる[8]。サンフランシスコ保健所がウォーカーのような非殺菌野菜ジュースを禁止したときに、カリフォルニア州アナハイムでジューサーの製造を始めた[8]。第二次世界大戦中の金属不足下でも、ウォーカーは工場の操業を続けた[8]

1940年代後半に、ウォーカーはユタ州セントジョージに転居した[8]。そこで、ジュース工場にとって理想的な環境となる古い綿工場を見つける[8]。しかし、再び地元の保健所規則により妨げられた。ウォーカーはビジネスパートナーに工場の出資分を売却し、自身の健康雑誌"The New Health Movement Review"を創刊した[8]。数年間、アリゾナ州で健康牧場を運営した。結局、執筆に専念するため牧場は手放した。

ウォーカーは死ぬまで、新鮮な生のジュースによる生鮮食ダイエットを守った。「アリゾナ州ヤヴァパイ郡コットンウッド英語版の自宅で眠っている間に安らかに死去するその日まで、身体的にも精神的にも健康で活発だった[7]」という主張がなされたが、そのような主張の「公的な」裏付け(たとえばアリゾナ州の死亡診断書)はこれまでに見つかっていない。

著書

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  • Raw Vegetable Juices: What's Missing in Your Body? (1936年)
    • 1978年にFresh Vegetable and Fruit Juices: What's Missing in Your Body?のタイトルで再刊された。
  • Diet & Salad Suggestions, for use in connection with vegetable and fruit juices (1940年。増補改訂版は1947年)
    • 1971年に The Vegetarian Guide to Diet and Saladのタイトルで新訂版が刊行された。
  • Become Younger (1949年)
  • Are You Slipping? (1961年)
  • The Natural Way to Vibrant Health (1972年)
  • Water Can Undermine Your Health (1974年)
  • Back to the Land ... for Self Preservation: a freedom, life-style, and nutritional commentary (1977年)
  • Colon Health: the Key to a Vibrant Life (1979年)
  • Pure & Simple Natural Weight Control (1981年)
  • Wall charts: Endocrine Chart – Foot Relaxation Chart – Colon Therapy Chart

日本語訳

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  • 『生野菜汁療法』(樫尾太郎訳)実業之日本社、1961年
    • 『生野菜汁療法 毎日の一杯が難病をなおす』(樫尾太郎訳)実業之日本社<実日新書>、1976年
  • 『自然の恵み健康法 野菜とフルーツの自然食』(弓場隆訳)春秋社、1998年
  • 『酸素を摂れば、元気な身体がよみがえる』(船瀬俊介・酒井美保子監修)徳間書店<100歳まで長生きレシピ>、2011年
  • 『大腸をきれいにすれば、病気にならない』(船瀬俊介監修、山田美明訳)徳間書店<100歳まで長生きレシピ>、2011年
  • 『飲み水にこだわれば、健康に生きられる』(船瀬俊介監修)徳間書店<100歳まで長生きレシピ>、2011年
  • 『食事を正しくすれば、老化は防げる』(船瀬俊介監修)徳間書店<100歳まで長生きレシピ>、2011年

脚注

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  1. ^ 1901年のイギリスの国勢調査では、ノーマンの年齢は「15歳」と記され、職業は「事務職」で、国籍はイギリスだが出生地はイタリアと記載されている。
  2. ^ a b エリス島(アメリカ合衆国移民局)の記録では、ノーマン・W・ウォーカーは1910年10月に、RMSルシタニアの19番目の乗客としてリヴァプールからニューヨーク港に到着したことが確認できる。年齢は「25歳」、国籍は「イギリス」、出生地は「イタリア」と答えている。
  3. ^ a b [1]ノーマン・ワルドー・ウォーカーは1918年8月6日付で帰化申請書を提出した。その中でウォーカーは (1)ニューヨーク市のグローブストリート94番地に居住 (2)職業は飛行家 (3)イタリアのジェノヴァで1886年1月4日に英国民として生まれた (4)1888年7月26日にアメリカ合衆国で生まれたマーガレット・オルコットと結婚した。彼女は「現在ニューヨークのファーミングデールに住み」、ウォーカーには子供はいない、と述べている。[2] 1918年11月22日にノーマン・ワルドー・ウォーカーは合衆国に対する忠誠の誓いをおこない、ニューヨーク郡裁判所により帰化No.920727として市民権を認められた
  4. ^ ノーマン・ウォーカーは合衆国社会保険番号528-50-4312を保持し、そこには1886年1月4日に生まれ、1985年6月に死去したと記載されている。記録では社会保険番号はユタ州で発行され、最後の居住地はヤヴァパライ郡コットンウッドであったとある。社会保険死去インデックス[1] Archived 23 March 2008 at the Wayback Machine.も参照。
  5. ^ コットンウッドの墓碑銘は「WALKER NORMAN W. 1886 – 1985 & HELEN R. 1905 – 1993" 」と記されている。ヘレン・ルースは彼の妻である。アリゾナ州デジタル墓碑銘[2]で画像が確認できる。
  6. ^ 日本の国立国会図書館サーチの「著者標目」では「1876年 - 」という記載になっている(参考外部リンク自然の恵み健康法 : 野菜とフルーツの自然食 )。
  7. ^ a b c d Bailey 2007, p. 31.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l Richards 1992, pp. 10–11.
  9. ^ Bailey 2007, p. 32.

参考文献

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