ノート:大坂の陣
この「大坂の陣」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2008年1月31日 | 査読依頼 | |
2. | 2008年4月25日 | 秀逸な記事の選考 | 不通過 |
*出典検索?: "大坂冬の陣" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · ジャパンサーチ · dlib.jp · ウィキペディア図書館 |
記事名について
[編集]「大坂の役」でとりあえず記事にしましたが、「大坂の陣」とどちらの方がより適切でしょうか?ご意見お願いします。mameneko 08:19 2003年10月21日 (UTC)
- 「大坂冬の陣」「大阪夏の陣」は定番ですが、まとめて「大坂の**」、という言い方で定番はピンと来ませんね……。
- なお、いくさについて「**戦争」「**の役」「**の戦い」「**の陣」等々と表現する場合は、別にウィキペディア内で統一する必要はなくそれぞれの「より一般的な呼称」で記事を作ればいいのでは、と言う議論は、どこかのノートで行われたように記憶しています。
- - Gombe 09:09 2003年10月21日 (UTC)
- お返事ありがとうございます。とりあえず、どちらの名称も使われていることからどっちを選んでもいいのではと判断します。
- 「大坂の陣」のほうが「大坂○の陣」のイメージがわきやすいと思うので、とりあえず移動します。不都合があれば、その時対応することに。mameneko 01:12 2003年10月22日 (UTC)
- 陣と役の呼び方については歴史用語としてちゃんとした規定があったはずです。確か個別の戦を「陣」と呼び、陣の集合体を「役」と呼ぶはずです。ですから冬の陣・夏の陣をまとめて語る場合は「大阪の役」になる筈です。
- 国史大事典か日本史用語辞典にその旨記載があったはずですが、本来はちゃんと確認してから書くべきだとは思いますが、今ちょっと確認できる環境にないのでどなたか確認できるかたいませんでしょうかKamakura 03:10 2003年10月22日 (UTC)
- む、そう言う論点(というか前提)もありましたか。盲点でした。ご指摘ありがとうございます。
- どなたか詳しい方のコメントをお待ちしております。
- - Gombe 03:23 2003年10月22日 (UTC)
- ご教授ありがとうございます。ただ、あっちこっち動かすのは問題なので、結論めいたことが出るまで記事の移動は待ちたいと思っております。
- 私の方も詳しい方のコメントをお待ちしております。mameneko 03:51 2003年10月22日 (UTC)
以前に、この話題はるがこむさんのTalkページで出てますね。Safkan 05:26 2003年10月22日 (UTC)
- なるほど、この場合、個々の戦いは「陣」で関連した戦いをまとめたものが「役」ということですね。
- 数日待って、特に反対がなければ「大坂の陣」→「大坂の役」に移動させたいと思います。たびたび変更して皆様にはご迷惑をおかけしています。mameneko 02:32 2003年10月23日 (UTC)
上の話題とはまったく関係ないのですが、真田幸村の軍令は資料上で確認できるものなのでしょうか?--tomino 2004年11月19日 (金) 04:31 (UTC)
真田幸村の活躍はちょっと詳述過ぎるような気もします、個人に関係する諸説まで記述しているのは本筋から離れていますし。そもそも合戦記事ですので、ここでは戦況を中心に、幸村個人の詳細な記述は真田信繁の方へ移してはどうでしょう。--でここ 2005年5月21日 (土) 23:44 (UTC)
- 「役」について私なりに検索して調べたのですが、どうやら「役」とはその国にとって対外的な戦いを意味するもので、文禄・慶長の役は条件を満たしていますが、関ヶ原の役や大坂の役は本来の意味においては、それぞれ用法を間違えていると言えそうです。検索したところ、この論争は2ちゃんねるでも行われているようで出てきました(もちろん結論は出てませんが間違った使い方に対しての愚痴が。)が、ウィキ上ではどうしたら良いものか悩みますね。--R2d2 2006年7月25日 (火) 10:05 (UTC)
夏の陣
[編集]冬の陣の絵はあるのに夏の陣がないのは変なので作れる人は作ってください。--kkk2006年10月29日(日)7:45(UTC
- 夏の陣布陣図も入れました。Jmho 2006年11月1日 (水) 13:42 (UTC)
分割提案
[編集]本ページの、天王寺口・岡山口の合戦の部分を分割することを提案します。理由は以下の通りです。
- 個別の局地戦のページを現在私が作成しており、それにあわせて当該戦闘のページを作成したいと考えています。
- 本ページ内での当該戦闘の記述が他の戦闘のものに比べてかなり多く、バランスを欠いていると思います。
みなさんのご意見をお待ちします。--Blowback 2007年12月9日 (日) 13:14 (UTC)
別に問題は無いと思いますが、次の二点に留意すべきでしょう。
- 画像の処理(夏の陣のだけ抜くと、偏りが生じる。本戦という位置付けとして、残すのも一つの選択肢)
- 移動後の本稿の書き方(どこからどこまでを抜くか。大坂城炎上までか、豊臣親子自刃までか)
--HI 2007年12月10日 (月) 12:46 (UTC)
- ご忠告ありがとうございます。本稿には、戦闘の詳細(部隊ごとの兵力・配置や戦闘の途中経過)などを抜く程度、“抜く”と言うよりも、他の戦闘の記述とおなじレベルにすればよいかと考えています。大坂城炎上以降は天王寺・岡山の戦いという局地戦には含まれないと考えていますので、抜くつもりはありません。画像については分割先にもつかいたいと思っていますが、本稿にも残すつもりで考えていました(このページから抜くのはもったいない出来ですしね)。--Blowback 2007年12月10日 (月) 13:27 (UTC)
了解しました。--HI 2007年12月12日 (水) 08:11 (UTC)
それではこれより分割します--Blowback 2007年12月16日 (日) 14:15 (UTC)
- 分割しました。なんだかもっとすっきりできるような気がしますが、とりあえず。--Blowback 2007年12月16日 (日) 15:11 (UTC)
移動提案
[編集]上でも話題になっていますが、大坂の陣への移動を提案します。「大坂の役」など聞いた事がありません、一般的には大坂の陣で通っていますからそうすべきです。--Satoshin 2007年12月19日 (水) 22:02 (UTC)
「役」は現在、政府機関が戦国期の戦史について編纂した唯一の公刊史料である旧参謀本部の「日本戦史」を基にしています。小牧・長久手の戦いも当初は「役」でしたが、特に節を設けて解説を行っています。個人的にはどちらでも良いとは思いますが、移動に際してはこの点を念頭に置く必要はあるかと思います。--HI 2007年12月20日 (木) 00:39 (UTC)
- 私もHIさんのコメントに留意すれば個人的にはどっちでもいいと思います。ちなみに、昔は「大坂の役」という呼び名もそれなりに使われていたようです(ちょっとすぐにはソースを出せませんが)。--Blowback 2007年12月20日 (木) 13:53 (UTC)
- 旧参謀本部の戦史シリーズはですね、現在はすでに学術研究レベルにおいて信頼できる情報源とは考えられてないようですので、項目名の根拠たり得ないように思われます。ただ、「大坂の陣」という用語が本項の名称として適切かはまた別の話でして、学術研究レベルでどのような用語・概念でとらえられているかをまず整理する必要があるだろうと思います。--shimoxx 2008年1月14日 (月) 06:43 (UTC)
- ということは、やはり学術・研究に携わっている方にでてきてもらって助言をいただかないといけないって言うことですかね? 市井に出回る書物レベルで「役」か「陣」かについて言及したものはないんじゃないかなあ、と思ったりします(事典でも作るのでなければそんなに重要なことじゃないので)。
- (すこし話はかわります)ちょっとググってみたところ、史料っぽいもので、書物名あるいは内容に、
- 「役」とかかれているもの
- 華族諸家伝、甲斐国志、大坂御役録、大阪府全志
- 「陣」とかかれているもの
- 大坂陣繪圖、大坂陣山口休庵咄、水野勝成大坂陣人数覚、二天記、大坂陣始末記、大坂陣覚書、渡ヶ嶋百姓大坂陣軍役銭皆済証文、金澤古蹟志巻十六巻、成瀬正居日記、阿陽旧跡記
- 両方あるもの
- 寛政重修諸家譜
- 「役」とかかれているもの
- こんなかんじになってます(なんか独自研究みたいになってきてますが)。なお、わたしはこの分野の学術研究にたずさわったことはないので↑の史料らしきものそれぞれの信頼性については現時点ではわかりません。で、これだけをみれば「どっちでもいいんじゃない」と思ってしまいますね(これだけだと「陣」のほうが多数派ですが)。
- 旧参謀本部の日本戦史ですが、その内容に信頼できないとしても、HIさんがおっしゃっている“政府機関が戦国期の戦史について編纂した唯一の公刊史料”で決めた名前、というところで記事名決定のひとつの根拠にはなるとは思います。もちろん、専門レベルで明確な指針があれば話は別ですが。--Blowback 2008年1月14日 (月) 14:41 (UTC)
- あ、ええとですね、ウィキペディアでは史料(一次資料)を論拠とするのはやっぱりまずくてですね、信頼できる研究者による論考を根拠とする必要があるってことになってますんで、教授や准教授や学術雑誌に論文が掲載されてる人の論文を調べてみるのがまずはよさそうです。県立クラスの図書館で1日も調べればそこそこ信頼できる結果が得られるんじゃないでしょうか。でもって、もし「大坂の陣」ばっかりで「大坂の役」が全く見つからない(orほとんど皆無)とかであれば、改名すべきだろうと思います。
- あと旧参謀本部の本なんですけれども、政府機関といえども学術研究の方法に則った記述をしてないことは多々あるわけでして、この本もその類とされているようです(典拠を今すぐ示せるとよいのですが、にわかに思い出せませんので後で調べておきますね)。なので根拠とするのはちょっとなあ・・・、という感じです。--shimoxx 2008年1月14日 (月) 15:28 (UTC)
- 史料に関しては失礼しました。個人的に気になって調べたものでして。旧参謀本部の件に関しても了解しました。内容に関しては疑問符がつくことは知ってましたので、学術研究の点からその範疇に含み難いということですね。ということで、そもそもの記事移動ですが、こういう流れになると、図書館で調べてくるまで合意形成がなされないということになるんでしょうかね? わたしは言い出しっぺでもないしどっちでもいい派なのでわざわざ図書館にこもって調べようという熱意はないんですが・・・--Blowback 2008年1月14日 (月) 16:26 (UTC)
- 史料に関しては失礼しました。<こちらこそすいませんでした。
- ところで項目の改名についてですけれども、改名すべきと考える方が客観的な根拠を明示されれば足りるだろうと考えています。このまま改名すべき根拠が示されないままなのであれば、一定期間の後にこの議論を閉じることになると思います。
- 話は変わって『日本中世史研究事典』(東京堂出版、1995)を読んでおりましたら「歴史用語と歴史教育」(武田忠利)という項目に高校日本史Bの教科書で使われている歴史呼称の一覧が示されてまして、「大坂の役」もその中にありました。割と一般的な用語だと言うことができるのかも知れません。--shimoxx 2008年1月15日 (火) 18:32 (UTC)
関連があるかどうかわかりませんが「役」という漢字はもともと「国境警備」という意味で「政府から課せられた義務」というニュアンスを濃厚に含みます。特定の戦争をさして「役」という言葉を使った場合、政府の立場から叛乱軍を討伐する、あるいは国家として侵略者を撃退する、というニュアンスを含んだものになります。どうしてもそういうことになります。政府機関が命名した名称としてはそれでいいのかもしれませんが、歴史学としてどうなのかはまた別の問題です。--呆庵入道 2009年10月25日 (日) 13:02 (UTC)
秀逸な記事の選考
[編集]以下、別ページ
賛成/条件付賛成/保留/反対 1/1/1/1 この項目の選考期間は、2008年7月25日 (金) 06:24 (UTC)(2008年7月25日 (金) 06:24 (JST))までです。
(ノート) 《推薦理由》主投稿者の一人として自薦しました。他の国のウィキぺディアの記事には戦闘・戦役についての秀逸な記事がいくつかありますが、日本語版にはありません。軍事史に疎いという現在の日本の状況に一石を投じる一助になると思い、推薦しました。 HI 2008年4月25日 (金) 06:24 (UTC)
- (賛成)--Julius Caesar 2008年4月25日 (金) 10:28 (UTC)
- (反対)通俗読み物(歴史群像)が参考文献として挙げられているという点で質に疑問。また、脚注にて、大日本史料が参照されているが、一次史料の解釈を投稿者が行っているのだとすれば適切性に疑問が残り、悪くすれば独自研究の疑いを払拭できない。史料解釈は専門家としてcertificationされた人物によるべきではないか。--ikedat76 2008年4月25日 (金) 18:04 (UTC)
- (コメント)「歴史群像」を参考文献とした記事は主に「日本戦史」を元にしており、参考文献から削除するだけで解決します。また、大日本史料の引用はWikipedia:独自研究は載せない#資料で「なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。」とあり独自研究には当たらないと考えております。--HI 2008年4月30日 (水) 00:32 (UTC)
- (コメント)Wikipedia:査読依頼/大坂の役 20080131でのやりとりが繰返されているように思います。Ikedat76さんが指摘しているのは、せめて
笠谷和比古『関が原合戦と大坂の陣』吉川弘文館<戦争の日本史17>、2007年、ISBN 978-4642063272
ぐらいの典拠を挙げてくれ、ということなのではないかと思いますがいかがでしょう。-- 赤い飛行船 2008年5月3日 (土) 12:39 (UTC)
- (コメント)笠谷氏の『関ヶ原合戦と大坂の陣』は開戦に至る経緯について、家康が豊臣氏と江戸幕府を同列に置いたという二重政権論を書いておりますが、これについては一般的な説とは言えず、また戦況については笠谷氏本人が述べている通り、「日本戦史」を基にしており、是のみを典拠とすることには躊躇いを感じます。よって他者(小和田氏や二木氏)の作品等を現在、参考文献に追加することを検討しています(これとは別に笠谷氏については備についての勘違いも躊躇させる一因ですが、それは関ヶ原の項についてなので考慮の内には入れていません)。--HI 2008年5月6日 (火) 03:37 (UTC)
- (コメント)同じようなことを何度も言わされるのはかなわないわけですが。
- 現行の記事は、Wikipedia:秀逸な記事の選考#秀逸な記事の目安の6項「「出典」または「参考文献」が挙げられている」に該当しない。例えば政治史的記述にろくに注も文献もついていない状態であり、この点について全く改善がない。
- 大坂の陣に関して(戦史研究であるないにかかわらず)多数存在するはずの先行研究や既存学説がきちんと把握され、検討された形跡が示されていない。すなわち、文献がきわめて少数しか挙げられていないだけでなく、本文の記述に対する裏づけ(文献参照)が致命的に欠けている。そのため、同じく1項「百科事典において必ず説明されるべきことが全て説明されている」に該当しない(もしくは、該当しているか否かの判断ができない)。この点は、出来れば文献を挙げるだけでなく、できれば学説史の記述によって解決されるのが最善である。特に先行研究や既存学説への批判という方向性によって記事を充実させようとするのであれば、なおのことこの点をクリアする必要性は高いはずである。
- 上述の点に伴い、4項「内容が充実している」に該当しない(もしくは、該当しているか否かを判断することができない)。したがって、6項すべてを充足していないため、「秀逸の目安」に達していない。
- 本記事はあくまで百科事典記事である。したがって、記事には、記述対象に対する総合性が要求されてしかるべきである。もちろん記事の充実は歓迎するべきだが、戦史という特定の観点からの記述のみがいくら突出して「充実」したとしても、それは百科事典記事の評価という観点からは充実とは言えない。本選考における推薦には、選考の基準が、あくまで百科事典記事に対するそれである、という観点が欠けている。
- 本選考に先立つ査読依頼にて推薦者が、「「大坂役」に史料的に問題のある箇所を、原典史料を編年史で収録している「大日本史料」で修正という方針で編集」すると述べているが、参謀本部編の『大坂役』に史料的な問題があるという指摘および具体的な箇所の挙示をしたのが誰なのか、本選考に至るまでの間に明示されていない。そのため、先行研究(『大坂役』)に対する批判という方向性で行われている加筆全体が独自研究に該当するおそれがある。独自研究ではないことを立証するためには、“『大坂役』の史料的問題”を検証可能なかたちで挙示する必要がある。
- 上記に関連して、『大坂役』に史料的問題があるという命題が正しいと仮定した場合、『大坂役』の問題を修正するために史料の特定箇所を引用する仕方や史料解釈の妥当性は、何(どんな文献)によって確保されているのかを示す必要がある。
- 推薦に当たって「軍事史に疎いという現在の日本の状況に一石を投じる」ことを意図しているとあるが、百科事典は問題提起をする場所ではない。
以上の問題が改善されない限り、少なくとも反対票を撤回することは不可能である。--ikedat76 2008年5月9日 (金) 17:33 (UTC)
- (コメント)趣旨は理解しました。出典については個々にコメントアウトでなく、ページの末尾の「参考文献」での記述で十分とあります。その他については改善を試みてみますが、不可能ならこのままペンディングさせてもらい、選考期間打ち切りを持って終了させていただきます。--HI 2008年5月10日 (土) 10:54 (UTC)
- (條件付賛成)ちょっと豊臣側から見た内容にかたよってるのじゃないですかbyشيوعية 2008年5月15日 (木) 12:38 (UTC)
- (保留)内容が豊臣側からの視点になっており、とてもかたよっています。また、出典も明記されておらず、内容も総合性が足りないような気がしてなりません。--ベルゼブブ 2008年5月19日 (月) 12:55 (UTC)
- (コメント)個人的には興味深い記述なのですが、堀埋立のような重要なポイントで「通説は俗説」と進行するのは問題かと思います。事典は論文ではありませんので、あくまで通説を軸とし、少数派説は傍論に留めるべきではないでしょうか。--Extrahitz 2008年9月15日 (月) 16:52 (UTC)
- それは「通説」が何を意味するのかによるでしょう。「通説」というのが“単に人口に膾炙した説”という程度の意味であれば、非専門家にとっては常識でも専門家にとってはただの誤謬でしかない、という例は多々ありますし、そうした場合に「通説は誤り」と書く事は(出典さえきちんと示せれば)なんら問題ではありません。むしろ、ただ単に通説であるという理由で、専門的には誤謬となった説を記述するほうが問題とも思えます。もっとも、今回の推薦者・兼・主要加筆者の方はそれを示すようにという要請にまったく応える意思がないようですが…。--ikedat76 2008年9月16日 (火) 11:52 (UTC)
ここまで別ページ
査読依頼
[編集]以下、別ページ
比較的史料が充実している出来事なので、かなり充実したものになました。中立性がとれているか、構成・経過に問題がある等、ご意見があればお願いします。各戦闘の記事についても査読をお願いします。--HI 2008年1月31日 (木) 01:34 (UTC)
- 【査読】 ──専門家の方による審査結果。
- 【検証】 ──参考文献などと照合しつつ正確性を評価頂いた結果。
- 【書評】 ──専門外の方による評価および助言。
- 【感想】 ──専門外の方による感想。
- 専門外ながら通読してみました。記事の内容を云々する以前に、記事を書く手続きに問題があるのではないでしょうか。
- (1) まず、本文中の記述にほとんど注が付けられていないのが気になります。歴史学の書物を読むのはあくまで趣味で、歴史学の専門分野のスタイルはよくは知らないのですが、記述に対して裏付けを与える仕方はもっと厳密にするものではないでしょうか。
- (2) 「史料が充実している」とのことですが、そうだとすると参考文献が質量とも不足ではないでしょうか。記事中の記述にきちんと根拠を与えることができていないのも、これが理由なのかもしれません。
- (3) 「史料が充実している」のであれば、先行研究や研究史についても知りたいものですが、記述が皆無です。
- (4) 「別冊歴史読本」や「歴史群像」のような通俗読物と史実に基づく歴史研究との境界線が曖昧で、内容に疑問符がつくものが「文献」として挙げられています。こうした文献の選定の仕方は、非常に記事の質を疑わしくさせます。少なくとも百科事典記事に相応する信頼性の確保に資するものではないと思えます。
- (5) (4)で指摘した2点を除けば、大坂の役という戦役に関する文献が池上裕子『織豊政権と江戸幕府』と旧陸軍参謀本部の戦史しかありません。しかし、前者は『日本の歴史』という概説シリーズの一部であって専門書と呼べるかどうか微妙です。専門文献があるなら、きちんと挙げられているべきだし、当然にその文献に基づいて記事が編集されるべきです。
- (6) 参考文献リストに挙げられているすべての書籍について言えますが、書誌事項がきちんと整備されておらず、文献を特定するのに不十分です。これでは参考文献リストの要をなしません。
- 主として文献の扱いに関する指摘ですが、満足のいかない記事のように見受けられます。Wikipedia:検証可能性やWikipedia:出典を明記するといった方針文書やスタイルガイドと照らし合わせても充実しているというのは難しいと思われます。百科事典記事としての充実という観点からすれば、もっと専門的・学術的な裏付けがあることが明示される必要があるように思います。--ikedat76 2008年2月17日 (日) 04:48 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。複数人による編集ですので、文章の引用がどこからについては私にも不透明な点があります。しかし大抵の場合は大坂の役に関する史料はその大半が参謀本部編纂の「大坂役」を典拠としています。特に合戦経過については歴史群像・歴史読本ともにこれを殆ど引用しています。
- 私はその中で「大坂役」に史料的に問題のある箇所を、原典史料を編年史で収録している「大日本史料」で修正という方針で編集しています。一つ一つの史料原典を記載するのは煩雑すぎる面があると思いますので、この点を冒頭に記載することで注釈の代わりとしたいと思っています。いかがでしょうか?--HI 2008年2月18日 (月) 01:36 (UTC)
- 穏やかに言えば「複数人」、悪く言えば“馬の骨”が寄ってたかって百科事典を作ろうというプロジェクトの性質上、記事の信頼性の確保のために文献・出典の明示は厳格に行われなければなりません。「複数人」だから出典は曖昧でよいとか曖昧でも仕方ないとかいう姿勢で記事の充実は決して望めないでしょう。ただ単に量が多ければよいというものではないのです。私の書き方が分かりにくかったのかもしれませんが、充実した記事にするための方向性が示されたとは到底いえないreplyです。
- (1)「大抵の場合は」と言っておられますが、これも失礼ながらHIさんの推測だけではないのでしょうか(逆に裏付けが何かあるのでしょうか)。また、「歴史群像」「歴史読本」について改めて指摘すると、学術的な評価が得られた文献でもなんでもなく、信頼するに値する情報源とは認められません。もっと簡単に言えばダメな文献だ、と申し上げたはずです。
- (2)また、参謀本部の「大坂役」ですが、これは一次史料ではありません。参謀本部で戦史編纂にあたったスタッフたちの取捨選択と解釈がまじえられた研究成果であって、そのようなものだけを元にして歴史学者たちが大坂の役を研究しているわけはありませんし、そのようなことをしている研究者がいたら、歴史学者失格と言われても仕方がありません。失礼ながら歴史学の研究の手続きについて何か誤解・不理解があるように見受けられます。
- (3)「「大坂役」に史料的に問題のある箇所を(中略)「大日本史料」で修正という方針で」とも言っておられますが、この「史料的に問題のある(ない)」というのを判断しているのは誰なのでしょうか。HIさんならばそれは独自研究に該当します。問題があるという指摘(記述)を記事中でするにしても、それには信頼するに足る出典が必要です。
- 歴史上の事件についての百科事典記事に必要なのは何かもう少しよく考えていただく必要があるようです。充実を目指すにあたって必要なのは、歴史学の専門分野において認められた専門文献を参照して記事を再構成しなおすことです。今のままの記事は量は多いかもしれませんが、質について言う限り裏付けがほとんど皆無であって、充実などという言葉は間違っても使えるようなものではないと考えています。--ikedat76 2008年2月18日 (月) 16:17 (UTC)
- お答えします。
- 大坂の役について、特に合戦の経過(つまり布陣や戦闘の経過)を記した文献資料は漏れなく参考資料として「大坂役」を挙げております。合戦背景や政治的駆け引き(例:方広寺鐘楼問題や堀の埋め立ての経過)などには「大坂役」の間違いを史料で指摘するという流れで修正が行われていますが、戦闘についての戦術的な考察は殆どなされていません。
- つまり政治的事件としての「大坂の役」としての研究はなされていても、戦史研究は「大坂役」以上の研究は学術的にはされていないのが現状です。近刊での笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦と大坂の陣 戦争の日本史17」でも戦闘経過は特に問題はみられないと言う事でそのままで記載されています。よって、鐘楼問題や堀の埋め立てについては注釈は出せますが、戦闘経過については専門家と同じように「大坂役」を参考文献とするしかないのが現状と私は考えます。
- 後、「大日本史料」を基にした私の修正箇所に付きましては、可能な限り原典の出典を記述する事にいたします。ただし、真面目に出典を挙げるとその量は膨大になる(「冬の陣」の「攻囲戦」だけで記載するべき項目は30程になります)のでその辺り、短絡しなければなりません。とりあえず、「攻囲戦」にのみ「大日本史料」の出典元を記載しました。
- 「大日本史料」に記載されている「大坂の役」に関する史料はそれ程、豊富なのです。--HI 2008年2月19日 (火) 00:34 (UTC)
ここまで別ページ
独自研究?
[編集]上記の査読依頼および秀逸選考に当記事を提出されたHIさんですが、
「 | 大坂の役について、特に合戦の経過(つまり布陣や戦闘の経過)を記した文献資料は漏れなく参考資料として「大坂役」を挙げております。合戦背景や政治的駆け引き(例:方広寺鐘楼問題や堀の埋め立ての経過)などには「大坂役」の間違いを史料で指摘するという流れで修正が行われていますが、戦闘についての戦術的な考察は殆どなされていません。 | 」 |
と発言しておられます。このことを私は“既存学説(参謀本部編纂の『大坂役』)の誤りを史料でHIさんが指摘し修正する”という仕方で編集が行われたと理解しました。
この理解が正しければ、HIさんによる編集は信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの、すなわち独自研究に該当する恐れがあります。「記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないものだけです」というWP:NORの記述に従えば、HIさんが(もしくは他の誰かが)信頼できる情報源に、既存学説の誤りを発表しており、その内容に沿った編集が行われているというのでもない限り、HIさんの編集はWikipediaの記事に含められるべきでないものを含めたものと判断せざるを得ません。また、もしそうした既存学説批判が信頼できる情報源のなかに存在し、それに従って記事の編集や出典の明示が可能なのであれば、そうするべきと考えます。
こうした懸念について、査読依頼および秀逸選考において既存学説批判の根拠が何なのか再三質問をしましたが、明確な回答は得られませんでした。懸念が当たっており根拠がない場合は、HIさんの編集部分を精査し、系統的に除去することも考えなければならないかとも思われます。コメントをお願いします。--ikedat76 2008年12月31日 (水) 06:57 (UTC)下線部追記。--ikedat76 2008年12月31日 (水) 07:02 (UTC)
- 勿論、構いません。精査して問題あればどんどん編集をお願いします。--HI 2008年12月31日 (水) 09:44 (UTC)
- ではお伺いしますが、
- 私の理解は正しいでしょうか
- 私の理解が正しくない(既存学説批判には出典がある)場合、具体的にその出典を示してください
- この2点にお答えください。よろしくお願いします。--ikedat76 2008年12月31日 (水) 09:48 (UTC)
- 既存学説批判については引っ込ませてもらいます。個人的には大日本史料の内容を整理して書くのは問題かに絞って判断をしてもらいたいです。
- それ以外の指摘さらには「大日本史料の内容を整理」が既存学説と異なる場合も注釈の上で編集してもそれで良いと愚考します。--HI 2008年12月31日 (水) 11:58 (UTC)
- 確認したいのですが、私の質問の1つ目へのお答えはyes、2番目への答えはNoということでよろしいのでしょうか? つまり、既存学説批判の趣旨でHIさんの判断により史料を引用し・記事を編集した、ということでよろしいのでしょうか。まず、そこを確認していただけないとここからの議論の前提が定まりません。--ikedat76 2008年12月31日 (水) 12:03 (UTC)下線部追記--ikedat76 2008年12月31日 (水) 12:06 (UTC)
- 既存学説批判については軍事的過程の詳述が経過だって書かれていないとの判断はしましたがそれが執筆の主因ではなく、一次資料を基に経過を整理したかったのが主な理由です。--HI 2008年12月31日 (水) 12:14 (UTC)
- 確認したいのですが、私の質問の1つ目へのお答えはyes、2番目への答えはNoということでよろしいのでしょうか? つまり、既存学説批判の趣旨でHIさんの判断により史料を引用し・記事を編集した、ということでよろしいのでしょうか。まず、そこを確認していただけないとここからの議論の前提が定まりません。--ikedat76 2008年12月31日 (水) 12:03 (UTC)下線部追記--ikedat76 2008年12月31日 (水) 12:06 (UTC)
明確なお答えを頂きたいのですが、yes/noを言うことがそれほど難しいのでしょうか。「一次史料を基に経過を整理する」にしても、その整理に出典はあるのでしょうか。それとも、HIさんご自身の判断のみに基づくのでしょうか。--ikedat76 2008年12月31日 (水) 12:22 (UTC)
- 整理に出典はありません。「現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査」として行いました。--HI 2009年1月1日 (木) 00:27 (UTC)
- 申し訳ないのですが、まず私の質問にyes/noでお答えください。お答えできる形式の質問しかしていないはずです。noである場合にご説明いただくのはもちろん歓迎しますが、前提が明らかでないままでは、議論を進められません。
- さらにもう1点。2008年12月31日 (水) 11:58 (UTC)付のご発言の2文目「それ以外の指摘さらには「大日本史料の内容を整理」が既存学説と異なる場合も注釈の上で編集してもそれで良いと愚考します」、文意をとりかねました。ご説明いただけませんでしょうか。--ikedat76 2009年1月2日 (金) 14:02 (UTC)
- 一つめyes,二つ目はNoです。
- 私が「大日本史料の内容を整理」した内容が既存学説と異なった場合、前者を優先させたという意味です。これは後者を優先するべきでしたね。--HI 2009年1月3日 (土) 00:59 (UTC)
お答えありがとうございます。既存学説と異なるかたちで、2次資料なしに「大日本史料の内容を整理」した結果がHIさんの編集ということですね。「これは後者〔既存学説〕を優先するべきでしたね」と仰っておられることから、HIさんの編集を基礎にして成立している版の内容を何とかする必要があるというところまでは合意していただけたかと思います。
HIさんの「整理」がまったく含まれない段階まで差し戻すこともできますが、乱暴かつ安直な案に過ぎかも知れません。最後の手段としてはありかもしれませんが、どうすればよいか他のアイディアはございますでしょうか。--ikedat76 2009年1月4日 (日) 13:27 (UTC)
- 個人的には私の編集箇所と既存学説が異なる点を、後者を優先させた上でなお且つその文献を出典として表記するのが良いと考えます。--HI 2009年1月5日 (月) 08:32 (UTC)
記事改称について
[編集]過去に議論あったようですが、大坂の陣・もしくは大坂冬の陣・夏の陣といった名称が多いので「大坂の陣」へ改称してはいかがでしょうか?--貫鉄 2010年12月4日 (土) 05:44 (UTC)
(報告) 8日ほど立ちましたが、反対の声も出なかったため、移動依頼に提出しました。--貫鉄 2010年12月12日 (日) 06:09 (UTC)
改名を提案する場合は、Wikipedia:改名提案への周知をお願いします。--Chokorin 2010年12月12日 (日) 08:32 (UTC)
Wikipedia:移動依頼#依頼できないもの,Wikipedia:移動依頼#依頼の前にをまず読んでください。なにが報告ですか--彩華1226 2010年12月12日 (日) 08:55 (UTC)
(コメント) すいません、必要な処理を忘れていました。これらを済ませましたので、あと一週間を目処に様子見したいとおもいます。--貫鉄 2010年12月18日 (土) 05:40 (UTC)
- (コメント)反対はしません。--彩華1226 2010年12月19日 (日) 16:31 (UTC)
- (コメント)「大坂の役」で不都合はないと思います。「大坂の陣」の方がよいとする理由をお示しくだされば幸いです。--Chokorin 2010年12月21日 (火) 13:52 (UTC)
- (コメント)心情的には賛成したいところですが、やはり理由(根拠)はきちっと提示していただいた方が良いかと思います。--トホホ川 2010年12月26日 (日) 01:36 (UTC)
- (コメント) 以下のような本は一例ですが、近年出版されている歴史読本では「大坂の陣」(または「大坂夏の陣・冬の陣」)というタイトルが多いようです。
- 大坂の陣 : 日本史ドキュメント(檜山良昭 2001年 廣済堂出版)
- 週刊新説戦乱の日本史 4巻「大坂の陣」 (井沢元彦 2008年 小学館)
- 関ヶ原合戦と大坂の陣(笠谷和比古 2007年 吉川弘文館)
- 戦況図録大坂の陣(歴史読本シリーズ 2003年 新人物往来社)
- 「大坂の役」というタイトルは日本戦史関連の本以外では使われていないようなので、「大坂の陣」という項目名が適切だと思います。また、過去の議論を参照したところ『陣の集合体を「役」という』といった意見も見られましたが、現状の本のタイトル等を見るとかなり疑問です。もし私の調べた書籍に偏りなどがあると思われればそれはそれで指摘して頂いてかまわないのです。あらためて、みなさんはどう思いますか?--貫鉄 2011年1月3日 (月) 08:50 (UTC)
- 角川日本史辞典では見出し語として「大坂の陣」ですね。--Horlicks 2011年1月3日 (月) 16:50 (UTC)
- (コメント) 私なりの意見というか改名の理由は開陳したつもりですが、ご意見は他にありますか?なければ再度移動依頼したいと考えております。--貫鉄 2011年1月8日 (土) 03:51 (UTC)
- 申し訳ないんですが、「大坂の役」というタイトルは日本戦史関連の本以外では使われていないというのは本当ではないんじゃないでしょうか。たとえば、高校の日本史教科書では、実教出版のものが「大坂の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)」という表記でした。総じて「大坂の陣」の方が頻度が多い印象はありますが、自分としては「大坂の役」に全然違和感がありませんし、よく見聞きする名称ではあります。意味としては、ニュアンスの違いはあるものの両者ほぼ同義ですので、どちらでもいいような気もしますが、どちらでもいいものなら何も急いで改名しなくてもよいと感じます。改名するならするで、もっと網羅的な検証なり積極的な理由なりが欲しいところです。--Chokorin 2011年1月8日 (土) 04:35 (UTC)
- 「大坂の役」が一部の教科書にも使用されているということで、それは私の知らない範囲の情報でしたので、ご報告ありがたいです。私も急いでいるわけではありませんが、過去に提起された未だに解決されない議事だと思うので、提案した次第です。「大坂の陣」という呼称・名称で呼ばれることが多いというのはChokorinさんにも共通して持っていただいている事ですので、改名に支障は無いと思います。しかし、Chokorinさんはその上で、検討を要するような、なんというのでしょうか、網羅的な検証が必要ということは、何らかの懸念を抱かれているということでしょうか?それは具体的にどのような点でしょうか?--貫鉄 2011年1月15日 (土) 06:09 (UTC)
- 返信ありがとうございます。ちなみに山川出版社の『詳説 日本史B』でも「大坂の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)」という表記でした。日本史教科書としては一番シェアの高い教科書でも「大坂の役」という表現であるのなら、現状のままでもよいのではないのかなとも思います。ニュアンスとしては「陣」だと「戦闘(Battle)」、「役」だと「戦争(War)」ということでしょうか。本記事の内容もしくは加筆の方向性にとってどちらがヨリ適切かということも考えてよいと思います。改名に積極的になれないのは、改名にともなってリンクの変更などもあるからです。ぶっちゃけ面倒でしょう? --Chokorin 2011年1月15日 (土) 07:01 (UTC)
- 現状では「大坂の陣」は「大坂の役」へのリダイレクトになっていて、「大坂の役は、江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした戦いである大坂冬の陣と大坂夏の陣をまとめた呼称。一般には『大坂の陣』とも呼ばれる」と冒頭文での説明があります。検索の上でも、本文上でも「大坂の陣」に対してちゃんとフォローされているので、現状維持でも一向に問題ないと思うのですが、いかがでしょうか。--Chokorin 2011年1月28日 (金) 22:14 (UTC)
- 遅くなってすいません。山川出版社では「大坂の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)」という表記なんですね、だとすると一般書籍や事典と、教科書の違いが気になります。総合的に判断するのが一番ですが、場合によっては新しい指標が必要なのかもしれません。Chokorinさんはニュアンスについて言及されておりますが、たとえば日本の合戦一覧では『「役」は対外戦争』として位置づけられております。これが全面的に正しいとは思いませんが、「陣」だと「戦闘(Battle)」、「役」だと「戦争(War)」というお考えも、ニュアンス面での根拠としてはちょっと弱いかな?と思っています。最後に、Wikipediaで新しいページやカテゴリー、ページの名前を変えたりすることに関して、ある程度の面倒であるということは承知で、やらせて頂いています。『陣の集合体を「役」という』解釈については主流ではないという気がしますので、現状維持よりは改称したほうが良いと思っています。--貫鉄 2011年1月29日 (土) 05:45 (UTC)
- 「大坂の役」が一部の教科書にも使用されているということで、それは私の知らない範囲の情報でしたので、ご報告ありがたいです。私も急いでいるわけではありませんが、過去に提起された未だに解決されない議事だと思うので、提案した次第です。「大坂の陣」という呼称・名称で呼ばれることが多いというのはChokorinさんにも共通して持っていただいている事ですので、改名に支障は無いと思います。しかし、Chokorinさんはその上で、検討を要するような、なんというのでしょうか、網羅的な検証が必要ということは、何らかの懸念を抱かれているということでしょうか?それは具体的にどのような点でしょうか?--貫鉄 2011年1月15日 (土) 06:09 (UTC)
- なるほど。わたしは二者択一でいうと「大坂の役」の方がどちらかと言えばマシだというふうに考えています。というのも、「冬の陣」をたたんでから「夏の陣」をひらくまでの戦間期の加筆の可能性を考えるからです。「日本の合戦一覧」の説明はおそらく間違っていて、この説明がおそらくは正しいものと考えます(出典もあります。安田元久先生監修の『日本史小百科18 戦乱』です)。「陣の集合体を「役」と呼ぶ」という決まりは確かにありませんが、単に「陣」といえばニュアンスとして一回性が強調されてしまうのも確かじゃないでしょうか。--Chokorin 2011年1月29日 (土) 06:14 (UTC)
議論が白熱する前に念のため。「私はこういうことだろうと思う」とか「私がいろんな本を読んだ結果、こう考えた」は「独自研究」になることにくれぐれもご注意ください。その点を念頭においての議論をお願いしたいです。--Horlicks 2011年1月29日 (土) 10:06 (UTC)
- (コメント)「大坂の役」という名称の正当性の典拠や、刊行物における数的な優位がなく、わざわざ「一般的には」と注釈を付けなければ閲覧者の理解を得にくいと思われる状況があるのならば、改名した方がいいと思います。むしろ、「大坂の役」のまま改名しない方が適当であるのならば、その典拠を併記の山川出版社の教科書以外に示していただいた方が良いのではないでしょうか?そして提案者がご自身でその労をとると発言していらっしゃることですし、手続きや手間の煩雑さは、「改名してはならない、ふさわしくない」理由としてガイドラインにあるわけでもありません。--ジャムリン 2011年1月29日 (土) 17:15 (UTC)
- 確かにジャムリンさんのおっしゃることには一理も二理もございますね。「大坂の陣」に改名したうえで「両陣をあわせて『大坂の役』と称することもある」とした方がスッキリするかもしれません。一般書では「大坂の陣」が多い印象です。ただ、山川・実教の教科書や『日本戦史』以外でも「大坂の役」の表現には今まで何度か遭遇した記憶があります。ですから、決して「間違った表現」ということではないので、そのへんの誤解は読者にあたえないよう注意してもらいたいです。いったん改名に合意します。--Chokorin 2011年1月29日 (土) 23:33 (UTC)
Chokorinさんが改名に同意なされたようなので、あらためて移動依頼を出すことにします。また、両陣をあわせて『大坂の役』と称することもあるといったただし書きについては、改名後に加えたいと思います。みなさん、議論にご協力ありがとうございmした。--貫鉄 2011年2月3日 (木) 08:24 (UTC)
- 報告 Wikipedia:移動依頼での依頼に基づき、大坂の役から大坂の陣へ移動しました。--Penn Station 2011年2月8日 (火) 13:20 (UTC)
- ありがとうございました。--貫鉄 2011年2月23日 (水) 05:29 (UTC)
読み仮名
[編集]同時代的には「おおざか―」が正しいのかもしれませんが、現代の呼称は「おおさか―」ではないでしょうか。平凡社世界大百科事典も「おおさか―」で立項されています。現代用いられている日本語に則るべきと思います。--Extrahitz(会話) 2012年8月31日 (金) 01:14 (UTC)
- 異論がないため改訂しました。--Extrahitz(会話) 2012年10月28日 (日) 00:30 (UTC)
犯罪的といった表現について
[編集]方広寺鐘銘事件の項目にて「当時の諱に関する常識から鑑みれば、こうした行為は犯罪的であり、呪詛を疑われても仕方のないものであった」とありますが、出典付きとはいえこれは独自研究の類ではないでしょうか。まずは当時のどういった法に違反した上で犯罪的とするのか定かにされるべきではありませんか。現に鐘の現物が残っている以上、幕府側は呪詛ではないと認識しているが、呪詛という事にして口実にした=いいがかりと判断せざるを得ないんですが。これに関しては的確な反論がなければ書き換えますのでご了承下さい。 --スワンベース(会話) 2013年6月19日 (水) 16:31 (UTC)
- 「軽率」と表現したことは「思慮が足りずに、ものを知らない」(渡邊大門著作)、犯罪的としたことは笠谷氏の著作にあって出典にあるのですから、独自研究ではありません。尚、「軽率」は笠谷氏の出典にも「犯罪」と重ねて記述されています。出典を掲示しているのですから、お読みになって確認して下さい。論評としては双方の出典の方が辛辣な表現だと思いますよ。--ジャムリン(会話) 2013年6月19日 (水) 16:53 (UTC)
- わかりました。それならば出典先の著者が「犯罪的」と称していると書くべきではありませんか?そのまま何の記載もなく犯罪と称されるのは誤解を招くと思いますが。犯罪的な仕打ちをされたなら被害回復に動くのが普通でしょう。今世まで実物の鐘が残っている事と無理やりつなげているようですが明らかに不自然ですが。--スワンベース(会話) 2013年6月19日 (水) 17:01 (UTC)
- なぜ独自研究と疑ったかと言うと、「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」にあたるのではないかと考えたからです。出典があっても犯罪というような明らかな間違いを投稿するのはどうかと思いますけどね。この点だけは要出典タグをつけておきます。ちなみに片桐且元が家康の家臣云々も資料的な根拠を挙げるべきでしょう。--スワンベース(会話) 2013年6月19日 (水) 17:22 (UTC)
- 当時の感覚としては犯罪的という研究の上での文脈です。また質問された五山の住職の返答や、それを受けての著者の論評です。一々誰それが言っていることを確認するための出典ではないのですか?「当時の常識に鑑みれば」にしても、この点がこういう風に当時としては非常識、本来こうすべきだったところをこうしてしまったのは呪詛や犯罪と思われてもやむを得ない、と出典に一々一々あげつらうが如く指摘していた部分を要約したものです。どちらの出典も現在、新刊でも古本でも容易く入手が可能で、図書館にも多く置いてあるものですよ。それぞれ別に書かれているので情報の合成なのではなく、そのものずばりの文脈です。
- きちんとルールにしたがって、出典掲示に上で編集したことを、これ以上ご自身で根拠なく出典にあたることもなく、勝手に独自研究や情報の合成として決めつけられうようでしたら、個人攻撃として報告したいくらいですし、コメント依頼したいと思います。--ジャムリン(会話) 2013年6月19日 (水) 17:29 (UTC)
- こちらの趣旨としては犯罪の被害を受けておきながら、鐘が今世まで残っているという文章に違和感を覚えるわけです。学者の**氏はこれを犯罪と称している、と書くのならまだしも、当時の武将や公家などの日記や手紙にそういったくだりがないのにあるかのごとく書くのはおかしくないですか?(あればそれを出典になさればいい)出典先の出典が確認できるとは限らないんですから、通説の如く書くのは諌めただけです。たしかにルールに抵触しない範囲内でなら特定の観点を推進するのも残念ながらアリでしょう。より良い記事を書かれるおつもりがなく、ルールの範囲内で情報戦をなさりたいのならもはや何もいう事はありません。なおよりよい記事をと考えただけで個人攻撃の意図はありません。どうぞご自由に。--スワンベース(会話) 2013年6月19日 (水) 17:49 (UTC)
- 出典先の出典は確約されているわけではなく、史学に限らず、あらゆる学問の学者著者の論評を形式上は出典にできる事からこういった問題がでるのだとは思いますが、犯罪というのだけは確実に間違いである事は指摘しておきます。--スワンベース(会話) 2013年6月19日 (水) 18:00 (UTC)
- 犯罪被害を発端として戦になったわけですから、事を起こした正当な理由を世に知らしめるために、被害の証拠として「こういう被害を受けたのだから」と残すことは自然なことだと思います。本人が呪詛を気にしていなかったのかは判りませんが、例えばある誹謗中傷を受けて本人が気にしなくても、世間や周囲に対する示しのために、被害そのものを証拠物件として告訴することは現代でもありますし、告訴すれば報道されて残るわけです。原爆ドームだって戦争被害のモニュメントとして残っていますよ。
- 呪詛は律令時代から犯罪とされていましたし、笠谷氏は掲示した出典の中で、当時の諱に対する罪の名をあげて「その罪は免れない」し、呪詛容疑をかけられてもやむを得ない軽挙であったとしています。--ジャムリン(会話) 2013年6月19日 (水) 18:10 (UTC)
- そういった理屈を掲げていると、すぐに二重基準をひき起こすと思いますけどね。言ってしまえば学者が犯罪と称している、あるいは且元は家康の家臣であったとしているだけで、そこに一次資料はないわけです。でも学者の権威でだまってしまう。この危険性は歴史ファンにより我田引水の典型例としてよく使われる手ですが(そこまでやられるのであれば豊臣秀頼は徳川家康に逆らう犯罪者とでも書けばもっとすっきりされるのでは?)たしかにルールの範囲なら何してもOKなのがここなので、もう私は何も言うつもりはありません。ご勝手に。--スワンベース(会話) 2013年6月19日 (水) 18:25 (UTC)
インデント戻します)私が加筆した部分は、一次史料を比定検討して専門研究家が出した見解(二次資料)としての研究結果によるものです。一次史料や二次資料による出典脚注が提示され、それを元に研究された公刊を出典にしています。むしろwikipediaでは参照でなしに、一次史料(一次資料)だけを元にした編集者の見解こそが独自研究とされています。「謀反」が「犯罪」とされ、ノート:謀反で私が記したように第一義に「当時の施政者に逆らうこと」と辞書にあることからすれば、大坂の陣直前の秀頼の状況は犯罪者といえるかも知れませんが、そう書かれた信頼できる情報源の二次・三次資料としての公刊研究文献がない限りは致しません。「Wikipedia:信頼できる情報源」には「また一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。」とされています。--ジャムリン(会話) 2013年6月19日 (水) 19:01 (UTC)
- 記事を書き換えられているようで、大幅に改善しているものと思われますが、依然として検証に乏しい表現が見受けられるようです。呪詛を疑われても仕方がないとの主張は渡邊大門氏以外にあるのでしょうか?本当にそうなのであれば、五山の僧らもそのように主張してしかるべきだと思いますが、史実ではそうではない以上、渡邊大門氏の独りよがりと解釈せざるを得ません。渡邊氏の主張と断りをつけて記述されるのであれば異論はありません(腐っても出典がある以上は消す気はありませんが)が、不十分でしょう。もう一つ家康の強引なこじ付けではない、という主張も不可解です。仮に弁明のしようがないような状況なら他者に救援を求める事ができたのでしょうか?一般的に弁明を聞き入れず、執拗に追求する姿勢は難癖と表現すると思いますが。--スワンベース(会話) 2013年6月20日 (木) 01:59 (UTC)
- 報告 そこまでおっしゃるのでしたら、第三者に判断していただくしかないでしょう。申し訳ありませんが、テンプレートの乱用としてWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックに報告いたしました。--ジャムリン(会話) 2013年6月20日 (木) 02:10 (UTC)
- コメント対話拒否の姿勢は極めて残念です。渡邊氏の主張が一般的に受け入れられているものか、という観点で話をしていたのですが。削除は考えていませんが、珍論を乗せるならより強い根拠が要るでしょう。荒れるのは意図するところではないので差し戻しはしていません。これは穏便に話をしたいからです。--スワンベース(会話) 2013年6月20日 (木) 02:35 (UTC)
- 返信 当事者だけで対話しても平行線のままになっていますし、さらにスワンベースさんの行為がガイドラインに抵触する段階に入ったと判断したため、第三者の判断を求めたもので、対話拒否ではありません。珍論も何もおふたりとも近年における該当時代西国の、笠谷氏は豊臣氏専門分野の代表的な歴史学者としての見解ですし、呪詛についての見解は、笠谷・渡邊両氏ともほぼ一致しており、笠谷氏の方が「軽率」「仕方がない」としていることは出典掲示の具合を見れば判ることですが、ご覧になってないのでしょうか?これを珍論と判断するのなら、珍論とする根拠出典を出していただきたいものです。スワンベースさんは先の私との議論においても、「出典は記述を求める方がするもの」として、終ぞご自身の論拠となる出典を掲示なされることはありまでんでしたが、議題については私が記述を求めたことに対して出典を出したわけではありません。むしろ私は「記載すべきではない」ことに対する論拠を出したもので、条件としてはスワンベースさんと同じでしたが、私は出典を出しています。--ジャムリン(会話) 2013年6月20日 (木) 02:41 (UTC)
- コメント誤解なされているようですが、二人の歴史学者としての見解を記載される事に反対した事はありません。これは私の譲歩とお受け取り頂けなかったのは残念ですが、通説と違う事を書くのであれば、あくまで歴史学者の見解と断って書くべきだと指摘したまでです。事実、書き換え後の文章を読んでも歴史学者の見解が正しいのであれば、なぜ五山の僧侶らはそこまで言及しなかったのか、また大坂方の弁明という事が行われたのか(見解が正しければ弁明の余地なしという事ですし)疑問が生じます。崇伝が家康と組んで謀略を組んだという通説を否定するのは事実の主張でまだ理解できますが、事件の解釈まで学者の権威を以って通説の如く書くのは誤解の元ではありませんか。おそらくは私が評論家気取りで不愉快とお怒りになっているのだと察しますが、今一度落ち着いていただけるようお願いします。--スワンベース(会話) 2013年6月20日 (木) 02:57 (UTC)
- コメント 既に「通説(俗説)では~だが、」とあって、それを受けて専門家出典を掲示しているのです。スワンベースさんの主張によれば、「笠谷和比古と渡邊大門の近年研究によれば」と一言付け加えればいいのでしょうか?笠谷氏のリンク先を見れば尚のこと明らかですが、二重公儀説などでは渡邊氏他から批判もなされていますが、博士でいらっしゃるのですが。出典の明記のガイドラインによれば、分野専門家による出典の掲示があれば、スワンベースさんの求める形式でなくても良いはずです。スワンベースさんの出典掲示要求のために出典にも参考文献にも充分にリンクされているわけですが。逆に言えば、その「通説」の出典も必要なのではないですか?先に案内しました「Wikipedia:信頼できる情報源」の歴史分野に対するアドバイスでは、K-12水準の教科書レベルの参照は避けるべきとされており、ましてや出典のない「通説」なら除去されても文句もいえないところです。
- 投稿前に確認したところ、スワンベースさんは、スクレイピー(会話)さんのブロック破りとして、ブロックされていました。--ジャムリン(会話) 2013年6月20日 (木) 03:33 (UTC)
口語訳を
[編集]方広寺鐘銘事件の引用部分の口語訳をお願いいたします。--219.35.22.28 2015年5月13日 (水) 11:39 (UTC)
おおさか、について
[編集]文章の中には、大坂〜と「坂」の字が使われています。もちろん、歴史書や参考書などにも、というしに名前自体がそうだと思うのですが、私は、「阪」を使うべきだと考えます。理由は、現代ではおおさかは「大阪」と書きます。それと小説、漫画等(学習シリーズ)も阪が使われています。そしてなによりもぱっと見、大坂だと違和感が少しあります。(私だけかもしれませんが)賛成意見、反対意見お願い致します。なければ一週間で全て大阪にしようと思います。--トリプルぽ(会話) 2021年8月14日 (土) 07:08 (UTC)トリプルぽ
- すみません。いろんな記事を見てみましたが、全て大坂になっているので全て編集するとなるときりがないのでやめておきます。正式名称としての大坂の坂を使うことにします。
- それと、ほかに本来は阪なのに、坂だ、又はその逆のパターン等ありましたらご連絡くだされば、幸いです。トリプルぽ(会話) 2021年8月15日 (日) 10:51 (UTC)
方広寺鐘銘事件について
[編集]大坂の陣の記事から本筋のずれる、方広寺鐘銘事件について、文が長くなってきているので(私が方広寺大仏再建の経緯を追記したためというのもあるのですが)、記事を分けてみましたがいかがでしょうか。--Kyoto history(会話) 2023年1月19日 (木) 07:59 (UTC)
方広寺鐘銘事件の記述の分割(転記)提案
[編集]方広寺鐘銘事件の記述を、方広寺鐘銘事件の記事へ分割(転記)することを提案をいたします。理由は以下によります。
・方広寺鐘銘事件の、昨今の研究(徳川氏の言い掛かりか否か)についての記述が長くなっていること。
・(以下は私の私的な理由でもあるのですが)何故かあまり知られていませんが、京の大仏再建によって生じた事件であるので、大仏が何故、どのような経緯で再建され、それが何故徳川氏と豊臣氏の紛争に繋がったかについて記述する必要があると考えていますが、現状ですと「大坂の陣」の記事の中の一項目ですので、大仏について加筆すると、「本筋からずれている」として削除されてしまうため。
なお、「大坂の陣」の記事の、方広寺鐘銘事件について言及した部分は削除せず、当該部分を「方広寺鐘銘事件」の記事に、コピーペースト(履歴継承)するのみということでも支障ありません。(現在方広寺鐘銘事件の記事は、私の加筆分のみで歯抜けになっているため)
--Kyoto history(会話) 2023年1月20日 (金) 20:18 (UTC)
- 分割は賛成ですが、京の大仏で詳説しているので、分割先でも大仏自体の説明は可能な限り概略に留めるべきと考えます。具体的には詳述するのは2代目、それも豊臣と徳川双方に関係する部分のみとか。--HI(会話) 2023年1月20日 (金) 23:56 (UTC)
- HI様
- コメントいただきありがとうございます。
- 御指摘の件に付きまして、承知いたしました。大仏についての詳述は避けることにします。
- ※私が新参者で疎いのですが、転記作業自体は提案から一週間ほど経過し、反対意見がなければ
- 行っても良いのでしょうか。(履歴を見た限りでは、方広寺鐘銘事件の部分はHI様しか加筆していない
- ように見えますが、HI様の同意があれば、(大坂の陣の記事はとりあえずコメントアウトせず)方広寺鐘銘事件の記事へもう転記作業を私が行っても良いのでしょうか?)--Kyoto history(会話) 2023年1月21日 (土) 00:03 (UTC)
- 反対がない、というより提案者以外に賛成があれば行われていると思います。それとは別に「履歴不継承」で「Wikipedia:削除依頼/方広寺鐘銘事件」されています。転記版の編集要約欄に元記事へのリンクと版時間がないと「履歴不継承」になります。--ジャムリン(会話) 2023年1月21日 (土) 00:29 (UTC)
- ジャムリン様
- 御指摘の件に付きまして、現在削除依頼となっている版は、ノートに提起する前に私が一度転記を試みたものです。
- 2日前に私が転記をした際に、(私の知識不足で)手順を踏まなかったので、履歴不継承となりました。支障がないようであれば、本日手順を踏んだうえで、再度転記しようと考えております。--Kyoto history(会話) 2023年1月21日 (土) 00:34 (UTC)
- 当該記事を拝見させていただきましたが、提案から1日での転記は早計に過ぎるのではないでしょうか。せめてもの1週間とか、第三者の意見にもよりますが期間を置いてから行動に移すべきかと。Wikipedia:ページの分割と統合をご一読された方が良いかと思います。--Mt.Asahidake(会話) 2023年1月21日 (土) 10:27 (UTC)
- 反対がない、というより提案者以外に賛成があれば行われていると思います。それとは別に「履歴不継承」で「Wikipedia:削除依頼/方広寺鐘銘事件」されています。転記版の編集要約欄に元記事へのリンクと版時間がないと「履歴不継承」になります。--ジャムリン(会話) 2023年1月21日 (土) 00:29 (UTC)
「方広寺鐘銘事件」と重複する部分をコメントアウトしました。当該部分を「大坂の陣」の記事にも残した方が良いとお考えの方がいましたら、戻していただければと思います。
色々とお騒がせをして、失礼いたしました。
--Kyoto history(会話) 2023年1月30日 (金) 20:18 (UTC)
河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』の記述について
[編集]Kyoto history と申します。
私は方広寺大仏(京の大仏)に関する事柄を加筆しています。方広寺大仏を研究している河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』という本が刊行されたので、それを底本にして加筆しています。
上記書籍ですが、以下のスタンスで書かれています。
1、方広寺大仏・大仏殿の変遷を中心に、豊臣と徳川の関係を考察する。
2、一次史料に準拠するが、それがない場合は注記書きの上で、二次史料も使用する。
3、なるべく武家の史料は避け、公家・僧侶の残した史料に基づいて検討する。
当該書籍の方広寺鐘銘事件について扱った部分では、現行のwikipedia版とは全く正反対の内容が記述されています(読み方によってはそもそも鐘銘事件はなかったとも読める内容になっています)。私は方広寺鐘銘事件の政治史的側面について疎いので、河内氏の記述が正しいのか否かよく分かりませんが、上記につきまして、お詳しい方がいましたら、加筆・修正していただけますと幸いです。
なお河内氏の論考は以下の通りです。
※凡例
〇:一次史料名(本のページ)
<考察>:河内氏の考察(本のページ)
<鐘銘事件>
<考察>:『本光国師日記』によれば、鐘銘文に長々と長文を書き連ねたことと、自身の諱を入れられたことを問題視した(p.158)。 一次史料の『本光国師日記』には、通説で言われるような、諱を割いたことについての言及はない(p.159)。棟札については、家康の派遣した中井正清の名が記されていないことを問題視した(p.158)。
ただし家康がそれらの問題について言及したのは、落慶供養の延期を仰せ出した後であることは留意が必要である(p.158)。落慶供養での天台宗と真言宗の席座を巡るトラブルが生じたので、「開眼供養」と「堂供養」を別日にし、「堂供養」を8月18日に行うのはどうかという内意を家康は示した。しかし片桐且元と板倉勝重は家康の案を渋り、再度、同日案を家康に提示してきた。『義演准后日記』7月29日条には「上棟・開眼・堂供養、大御所(家康)上洛まで御延引」とあり、最終的に家康は、自身が上洛するまで各種落慶供養を延期するよう、7月末に命じた(p.159)。『本光国師日記』には、8月5日に例の鐘銘文を家康が確認し、問題視したとある。
✳『駿府記』には7月の段階で鐘銘の下書きを家康が確認し、「関東不吉の語あり」としたとする記述があるので、上記の記述が正(信憑性がある)とすれば、通説通りのようです。(Kyoto history 追記)
<鐘銘問題に対する且元の駿府での謝罪> 且元は駿府で家康に対面できなかったが、協議が不調で終わった訳ではない。徳川方はいわゆる三か状を且元に提示したことを一次史料で確認できない。
〇『本光国師日記』8月22日条に以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載ある(p.162)
「市殿(片桐且元)不届きの儀はこれあるまじきとの上意」「文言以下の善悪、市存ぜられざることも、もっともとの御諚」「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」
<考察>:鐘銘文は重大な問題だが、片桐且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったとしている(p.162)。
〇『本光国師日記』9月8日条に、同じく以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載がある(p.162)
「おのおの談合そうらいて、江戸様(徳川秀忠)と秀頼公以来疎意なきように、江戸様へ御意を得られそうろうようにと仰せ出」「市殿も安堵」
<考察>:徳川秀忠と豊臣秀頼の両者が疎遠にならないよう、大阪で会見する案も存在していたとしている(p.162)。
〈且元の退去の理由〉 不明
〇『言緒卿記』9月27日条
「大坂片桐市正(且元)、秀頼公の前大樹(家康)へ使いつかまつり悪しきよしそうらいて、語意に背くよしなり」(p.163)
〇『義演准后日記』9月26日条
「片市正(且元)・同主膳(貞隆)切腹せらるべし」(p.163)
<考察>:且元が駿府での会議から帰阪し、秀頼らにどのような内容を伝えたかは不明だが、且元は逆心を疑われ、命の危険にさらされることになった(p.163-164)。
徳川氏より且元にいわゆる三か状を突きつけ、それを秀頼に伝えたので逆心を疑われたという通説については
疑問が呈されており、曽根勇二氏『片桐且元』2001 で指摘のように、三か状は且元の私案でしかなかった(p.195)。
〈且元の退去を受けた家康の上洛〉 すぐに大坂城を攻撃しようとした訳ではない。
通説では10月に御陣触れをしたことをもって大坂攻めを決定したとされるが、御陣触れをしたのは事実だが、一次史料からは、すぐに大坂を攻撃しようとしたとする意図は確認できない(p.165)
家康は、七将による石田三成襲撃事件の時の仲裁のように、豊臣氏と且元を仲裁する意図で上洛しようとしたのではないか。(p.164)