ジネット・ヌヴー
ジネット ヌヴー | |
---|---|
基本情報 | |
生誕 | 1919年8月11日 |
出身地 | フランス共和国 パリ |
死没 |
1949年10月28日(30歳没) ポルトガル アゾレス諸島 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
ジネット・ヌヴー(フランス語: Ginette Neveu, 1919年8月11日 - 1949年10月28日)は、フランスのヴァイオリニスト。稀にみる天才的ヴァイオリニストで将来はフリッツ・クライスラー、ジャック・ティボーと並ぶ名人になることを確実視されていたが[1]、航空機事故により30歳で死去。
デビューまで
[編集]母がヴァイオリン教師、父もアマチュアながらヴァイオリンを嗜む音楽一家に生まれた。ひとつ年上の兄ジャンはピアニスト。母の手ほどきにより幼少時より才能を発揮し、7歳でブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番をパリのサル・ガヴォー(fr:Salle Gaveau)で奏き[2]、1930年、パリ音楽院に入りナディア・ブーランジェに学んだ[3]。
翌年の1931年、ヌヴーはウィーンでのコンクールに参加し、高名なヴァイオリニストのカール・フレッシュ教授にその才能を見出された。フレッシュはヌヴーの両親に手紙を送ってヌヴーを直ちにベルリンに留学させるように勧めたが、ヌヴー家が裕福でなかったことにより、ベルリン留学が実現するまでには2年を要した。
ようやくベルリンにやって来たヌヴーの演奏を聴いたフレッシュは、こう感想を述べている。
あなたは天から贈り物を授かって生まれてきた人だ。私はそれに手を触れてあれこれしたくはない。私に出来るのは、いくらかの純粋に技術上の助言くらいだ。 — ジネット・ヌヴー2(Shellman)
ヌヴーはフレッシュの指導を4年にわたって受け、15歳であった1935年にワルシャワで開催されたヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場し[4]、180名の競争相手を破って優勝した[1]。当時26歳のダヴィッド・オイストラフは2位となったが[1]、結果発表の翌日に、故国で待つ妻に送った手紙でこう言及している。
デビュー後の活躍、30歳での事故死
[編集]一躍スターとなったヌヴーは、ヴァイオリニストとしてのキャリアの最初に、ハンブルクでブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏した[5]。次いで1936年にニューヨーク、1938年にベルリンでデビューした。[1]その後、第二次世界大戦が勃発する1939年9月までの間に、ヌヴーはドイツ、ソ連、アメリカ、カナダで演奏した。
特にベルリンでの人気はすさまじく[1]、独エレクトローラ(英EMIのドイツ法人)との録音契約が直ちに成立し、1938年4月~5月と1939年4月に、計7曲をベルリンで録音した。全て、SP盤1面に入るピアノ伴奏の小品であった。録音時のピアノ伴奏はen:Bruno Seidler-WinklerとGustaf Beck であった[6]。
ヌヴーは第二次世界大戦の間は演奏活動を中断していたが、フランスに平和が戻ると演奏活動を再開した。ピアノ伴奏は、兄ジャンが務めた。フランシス・プーランクのヴァイオリンソナタの作曲に当たって協力し、1943年の初演を作曲者と共に行った。ヌヴーは1945年から1946年にかけ、フランスとイギリスの間を何度も行き来して演奏会や録音を行った。1945年11月から、英EMIとの本格的な録音をスタートし、シベリウスとブラームスのヴァイオリン協奏曲をはじめ、CD換算で3枚分のスタジオ録音を翌1946年の8月までに行った。
1946年から1947年にかけて南北アメリカを演奏旅行し、次いで欧州各地で演奏した。1948年にはオーストラリア・アメリカで演奏旅行を行った。1949年にはエディンバラ国際フェスティバル(8月~9月)に出演し、イギリスの各地で演奏した。
1949年10月20日のパリでのリサイタルが、ヌヴーの最後の演奏会となった。
1週間後の10月27日、兄ジャンと共にエールフランスのロッキードL-749コンステレーションに搭乗し、三度目のアメリカ演奏旅行に向けて旅立った。このエールフランス機には、エディット・ピアフの愛人としても知られるフランス人プロボクサー、マルセル・セルダンも同乗していた。しかし、同機はアゾレス諸島の主島であるサンミゲル島の山中に墜落し、乗員と48人の乗客は全員死亡した(1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故)。
没後の出来事・評価
[編集]ヌヴーの遺体はパリに運ばれ、ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓のすぐ近くに葬られた。フランス政府からレジオンドヌール勲章が授与された(「ジネット・ヌヴー2(Shellman)」)。
ジネット・ヌヴーは、30歳での事故死により短いキャリアを終えたが、今なお世界的な大ヴァイオリニストのひとりとして語り継がれている。遺された音源は、モノラル録音ながらも生前の演奏風景を鮮明に伝えており、濃密でたくましい情感、雄渾多感な表現、非の打ち所のない音色のつやが特徴的である。
ヌヴーはフランス人ながらもとりわけブラームスを得意としており、死の前年の1948年5月、28歳の時にハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団と共演したヴァイオリン協奏曲のライヴ録音は、深い精神力を感じさせる解釈と鬼気迫る表現の激しさによって、他の追随を許さない。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 名演奏家事典(中)音楽之友社 1982年3月20日
- ^ 「ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番をパリのサル・ガヴォーで奏いた」とのみ伝わり、共演者については伝わらない。ピアノ伴奏での演奏と思われる。
- ^ 『名演奏家事典(中)』(音楽之友社 1982年)には、パリ音楽院を11歳で首席で卒業したとある。
- ^ ヌヴー家はコンクールへの出場費用を工面できず、師のフレッシュが費用を全額負担した(「ジネット・ヌヴー2(Shellman)」)
- ^ ハンブルクでヌヴーと共演したオーケストラの指揮者については、「The First Recordings of Ginette Neveu (Testament)」には「オイゲン・ヨッフム」とあり、「ジネット・ヌヴー2(Shellman)」には「ハンス・シュミット=イッセルシュテット」とある。ヨッフムは、カール・ベームの後任として、1934年からハンブルク国立歌劇場(en:Hamburg State Opera)ならびにPhilharmonisches Staatsorchester Hamburgの音楽監督であり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を定期的に指揮しており、日本で上梓された 『名曲決定盤』 (あらえびす著、 中央公論社、1939年)でも「ドイツの新進指揮者」と紹介されている。シュミット=イッセルシュテットは、1935年からハンブルク国立歌劇場の第一指揮者であった。
- ^ 戦後のEMIへの録音では、協奏曲以外は、全て兄のジャンがピアノ伴奏した。
出典
[編集]本記事は、
- 「ジネット・ヌヴー2(Shellman SH-1003)」のライナーノート(東芝EMI TOCE7392~94『ジネット・ヌヴーの芸術』より転載とクレジット)
- 「The First Recordings of Ginette Neveu / The Complete Recordings of Josef Hassid(英Testament SBT 1010)」のライナーノート(英文)
をソースとして記述しました。