コンテンツにスキップ

サントフォワの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サントフォワの戦い
フレンチ・インディアン戦争

サントフォワの戦い ジョージ・B・カンピオン作
1760年4月28日
場所ケベック・シティー
北緯46度47分59秒 西経71度13分15秒 / 北緯46.79972度 西経71.22083度 / 46.79972; -71.22083座標: 北緯46度47分59秒 西経71度13分15秒 / 北緯46.79972度 西経71.22083度 / 46.79972; -71.22083
結果 フランスの勝利
衝突した勢力
フランス王国の旗フランス王国 グレートブリテン王国の旗グレートブリテン王国
指揮官
フランス王国の旗フランソワ=ガストン・ド・レビ グレートブリテン王国の旗ジェームズ・マレー英語版
戦力
正規兵2600
民兵2400
正規兵3800
大砲27
被害者数
死者193
負傷者640
死者259
負傷者829
サントフォワの位置(ケベック州内)
サントフォワ
サントフォワ
ケベック州

サントフォワの戦い (Battle of Sainte-Foy)は、フレンチ・インディアン戦争の期間中の1760年4月に、カナダケベック・シティーで行われたフランスイギリス戦闘である。ケベック奪還を試みたフランスが、イギリスに勝利した。

概要

[編集]

ケベック奪還へ

[編集]

エイブラハム平原の戦いでフランスは敗退し、モントリオール退却したが、なおもイギリスに三方(セントローレンス川シャンプラン湖オンタリオ湖)から包囲されていた。ケベックの奪還のためにも、また、イギリス軍指揮官のジェームズ・マレー英語版の、新しい要塞の計画を止めるためにも、兵器を準備して行動に出る必要があった。しかも、雪が完全に溶ける前、セントローレンス川から氷が消える前に、マレイの、最新装備の駐屯部隊に一泡吹かせるつもりだった。[1]イギリス軍指揮官のマレーには、フランス軍の半分の軍ほどしか兵がおらず、しかも長い冬の間に、壊血病で弱っていた[2]大砲を多く装備しているとは言え、フランスと一戦交えるのはかなり大胆なことだった[1]

戦闘

[編集]

フランスの将軍フランソワ=ガストン・ド・レビの指揮下の兵は5900人とも言われていた[2]。(一説によると、12000人にも達していたと言われる)[3]一方、イギリスのほうは3000人だった[2]。兵力はフランスがはるかに優勢だったが、大砲はわずかに3台であった。[4]

両軍は、前年に続き、再びケベックの西のエイブラハム平原で相まみえた[3]マレーの3886人の兵は、10の正規兵部隊と、混成軽歩兵隊、そしてレンジャーズの2つの歩兵中隊だった。戦場をすべて埋め尽くすために、通常の、肘と肘が触れるほどの並び方ではなく、2層式で、前後3歩の間隔で縦に整列した。[5]部隊と部隊の間には、37メートルの距離があった。軽歩兵隊は右翼を守った。整列した順に、右から左へ、第48歩兵連隊(en:48th (Northamptonshire) Regiment of Foot)、第15歩兵連隊(en:East Yorkshire Regiment)、第58歩兵連隊(en:58th (Rutlandshire) Regiment of Foot)、2列目が第60歩兵連隊(en:King's Royal Rifle Corps)、第43歩兵連隊(en:43rd (Monmouthshire) Regiment of Foot)、第47歩兵連隊(en:47th (Lancashire) Regiment of Foot)、第78歩兵連隊(フレーザー・ハイランダーズen:78th (Highlanders) Regiment of Foot)そして第28歩兵連隊(en:28th (North Gloucestershire Regiment of Foot) だった。レンジャーズと志願兵とは左翼の守りに回った。右翼の予備隊として第35歩兵連隊(en:35th (Royal Sussex) Regiment of Foot)がいた。また、3列目の第60連隊は左翼の予備隊だった。歩兵の援護として、20台の大砲と2台の榴弾砲があった[6]。この時のイギリス軍を、ある軍曹はこう記録している。「イギリス軍隊は、壊血病にかかり、餓死しかけた、みじめで哀むべき一握りの骸骨であった」[7]

1760年当時のケベック

この時点で、フランス軍がまだ配置についている最中であるのを見て、マレーは、相手の準備が整う前に攻撃を仕掛けることにした。イギリス軍が進撃してくるのを見て、レビは右翼の、3列に配置した旅団を、シレリーの森に後退させた。この時、左翼のほうはまだ整列が終わっておらず、イギリスの軽歩兵隊は、フランスの擲弾兵部隊を、右の風車小屋の外に追いやった。マレーは、予備隊である第35歩兵部隊にその場を任せ、イギリスの右側の守りを建て直した。[4]しかし、風車小屋の内側の陣地の獲得を巡って、熾烈な戦いが続いた。[8]

軍を再集結するレビ

イギリスの左の部隊がを幾つか奪った時、レビは右翼の隊と共に力強い反撃を加えた。マレーは、最後の予備隊である第3大隊の第60連隊を送りこんで、この反撃を止めようとした。また、中央から43連隊に攻撃を命じたが、レビは殆どそれを無視した。マレーは自軍の左翼の守りに入ったが、結局この部分で大きな損害をこうむり、フランスの突破を許した。イギリス軍の陣形は左から右へと崩壊した。後になってレビは、ケベックからイギリスを追い払うつもりだったが、運悪く敵を逃してしまったと言い張った。イギリスの右翼にいた旅団の一人が迷走し、命令通りに正面からの攻撃をする代わりに、左翼を助けるべく突っ込んで行った。[6]

この戦闘の開始直後では、多くのイギリスの大砲が、フランスの攻撃に圧力を掛けていた。しかし、フランスは前進によって弾みがつき、しかもイギリスの大砲は弾丸切れの状態になった。マレ-が陣形を前にやるよう命令した時には、弾丸運搬の荷車は雪の中に埋もれてしまった。イギリスは、自分たちの大砲を使い物にならなくしてから廃棄し、退却した。[9]

フランスの勝利とその後

[編集]
式典が行われるサントフォワの聖堂

イギリス軍の戦死者は292人、負傷者が837人、そして捕虜が53人で、全部で1182人の戦死傷者と捕虜が出た。フランスは833人で、戦死193人、そして負傷者640人だった。[10]第15歩兵部隊は、階級を問わず836人の兵のうち138人、34パーセントが戦死した。[11] フレーザー・ハイランダーズの士官は4分の3が戦死もしくは負傷した。サントフォワの戦いは、カナダを舞台とした戦争の中で、もっとも殺伐としたものの一つだった。[2]

レビはその後、兵力の弱いイギリスに対して包囲戦に出た。フランスからの援軍をも当てにしていたレビは、5月15日の夜に艦隊の音を聞きつけ、確認したところ、それはフランスではなく、イギリスの艦隊だった。フランス艦隊は、前年秋のキブロン湾の海戦で、イギリスに粉砕されていたのだ。分が悪くなったレビの軍は、5月末にモントリオールに退却した。その年の9月、ヌーベルフランス総督ヴォードルイユは、モントリオールで降伏した。 [2][3]

1995年以来、サントフォワでは毎年4月に、この戦いの記念式典が行われている[12]。 

脚注

[編集]
  1. ^ a b Quebec: the challenge of a new battle > Context >Batle of Sainte-Foy>the national Battlefire
  2. ^ a b c d e Battle of Sainte-Foy Quebec
  3. ^ a b c The Seven Years War - French and Indian War - The Fall of New France
  4. ^ a b Brumwell, p. 257
  5. ^ Brumwell, p. 255
  6. ^ a b Brumwell, pp. 256-257
  7. ^ Brumwell, p. 153
  8. ^ Brumwell, pp. 259-260
  9. ^ Brumwell, p. 261
  10. ^ Brumwell, p. 258
  11. ^ Brumwell, p. 259
  12. ^ Sainte-Foy - The Canadian Encyclopedia

参考文献

[編集]
  • Brumwell, Stephen. Redcoats: The British Soldier and War in the Americas, 1755-1763. NY: Cambridge University Press, 2002. ISBN 0-521-80783-2
  • Chartrand, Rene (2000). Canadian Military Heritage. Casemate Publishing. ISBN 2920718517. http://www.cmhg.gc.ca/cmh/en/page_536.asp#endnote_19