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エメルソン・フェレイラ・ダ・ローザ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エメルソン
レアル・マドリードでのエメルソン
名前
本名 エメルソン・フェレイラ・ダ・ローザ
Emerson Ferreira da Rosa
愛称 ピューマ、エッマ
ラテン文字 Émerson
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1976-04-04) 1976年4月4日(48歳)
出身地 リオグランデ・ド・スル州ペロタス
身長 182cm
体重 80kg
選手情報
ポジション MFボランチ
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994-1997 ブラジルの旗 グレミオ 54 (8)
1998-2000 ドイツの旗 バイエル・レバークーゼン 82 (11)
2000-2004 イタリアの旗 ASローマ 105 (13)
2004-2006 イタリアの旗 ユヴェントス 67 (4)
2006-2007 スペインの旗 レアル・マドリード 28 (1)
2007-2009 イタリアの旗 ACミラン 27 (0)
2009 ブラジルの旗 サントス 6 (0)
2016-2020 アメリカ合衆国の旗 マイアミ・デイド 17 (4)
代表歴
1997-2006 ブラジルの旗 ブラジル 73 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エメルソン・フェレイラ・ダ・ローザÉmerson Ferreira da Rosa1976年4月4日 - )は、ブラジルリオグランデ・ド・スル州ベロタス出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはMF

クラブ経歴

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グレミオの下部組織を経て、1994年にトップチームデビューを果たした[1]。2度のリオ・グランデ・ド・スル州選手権コパ・リベルタドーレスなどの制覇に貢献し、1996年レコパ・スダメリカーナ全国選手権等の優勝の原動力となって名を挙げた[1]

1997年、ヨーロッパの7クラブからオファーを受けたが、バイエル・レバークーゼンへ移籍[1]。まだ21歳であったが、移籍後すぐにレギュラーの座を掴むと1999-00シーズンは5得点、10アシストの成績を記録し、チームは優勝争いも繰り広げた。レバークーゼンではレギュラーとして3シーズンを過ごし、108試合で15得点を挙げた[1]

2000-01シーズン、20万ーロでASローマへ移籍[1]。しかし、移籍直後のトレーニングで左膝十字靭帯を傷め約6ヵ月の離脱を余儀なくされた[1]。2001年1月28日のナポリ戦でようやく公式戦デビューを果たした[1]。以降、チームの中心選手の一人としてリーグ優勝に貢献した[1]。その後も2004年まで在籍した。

2004-05シーズンにそのカペッロ監督がローマからユヴェントスに移籍すると、フロントにエメルソン獲得を要求、多少契約時に問題が発生したが、結局2800万ユーロ(約37億5000万円)の移籍金でユヴェントスに移籍[1]。これまで支持を集めてきたローマファンたちからは、裏切り者と言われ罵倒されるなどもあった[1]。ユヴェントスでもレベルの高いプレーを見せ、2度のリーグ優勝に貢献した[1]。カルチョスキャンダルにより優勝が取り消され、チームのセリエB降格が決まると、カペッロと共にレアルマドリードへと移籍することとなる[1]

2006年7月19日、ユヴェントスからチームメイトのDFファビオ・カンナヴァーロと共にレアル・マドリードへの移籍が発表された[2]。しかし思うような結果を出せず、推定500万ユーロ(約7億6900万)でACミランへと移籍する事となった[3]。しかしながら、レギュラーポジションを掴み取ることはできず、2009年4月に両者の合意の下契約を解除。同年7月にサントスFCへの加入が発表されたが、膝の怪我で殆どプレー出来ず、僅か3ヵ月で契約を解除した[1]。2010年3月に33歳で現役を引退した。

その後、アマチュアのクラブであったが、マイアミ・デイドでもプレーしていた。

代表経歴

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ブラジルU-20代表を経て、1997年9月10日にエクアドル戦でフル代表デビュー[1]。1998年のワールドカップ・フランス大会のメンバー入りを果たし、2試合に起用された[1]

2002年ワールドカップ・日韓大会時にはレギュラークラスの選手であったが、直前に練習のレクリエーションでゴールキーパーを務めた際、リバウドのシュートを止めようとして肩を脱臼してしまい、本大会のメンバーから外れた[4]

2006年のワールドカップ・ドイツ大会のメンバーにも選出され、決勝トーナメント1回戦のガーナ戦が代表最後の試合となった[1]

脚注

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外部リンク

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