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須波阿湏疑神社

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須波阿湏疑神社

鳥居
所在地 福井県今立郡池田町稲荷13-1
位置 北緯35度53分10.4秒 東経136度20分43.9秒 / 北緯35.886222度 東経136.345528度 / 35.886222; 136.345528 (須波阿湏疑神社)座標: 北緯35度53分10.4秒 東経136度20分43.9秒 / 北緯35.886222度 東経136.345528度 / 35.886222; 136.345528 (須波阿湏疑神社)
主祭神 右殿・建御名方命
正殿・倉稻魂命
左殿・大野手比賣命
配祀・太田命 大己貴命
社格 県社
越前国
式内社
神饌幣帛料供進社
創建 (伝)第25代武烈天皇の時代
本殿の様式 三間社流造
例祭 6月10日
地図
須波阿湏疑神社の位置(福井県内)
須波阿湏疑神社
須波阿湏疑神社
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須波阿湏疑神社(すわあずきじんじゃ)は、福井県今立郡池田町稲荷にある神社

「湏」(さんずい+頁)がJIS X 0208に含まれない字であるため、ウェブ上では「須波阿須疑神社」という代用表記も見られる(本来は別字)。

概要

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延喜式神名帳』にある「須波阿湏疑神社三座(越前国・今立郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社と呼ばれる。

文化財

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本殿
三間社流造、桁行3間4.88メートル、梁間2間3.15メートル、檜皮葺、向拝3間。室町期、県内最古の神社本殿建築で、昭和16年(1941年)に当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)に指定され、1950年の文化財保護法施行後は国の重要文化財となっている[1]
拝殿
現在の拝殿は、江戸時代前期の元禄2年(1689年)に建てられたもので、入母屋、銅板葺(元茅葺)、平入、桁行8間、梁間5.5間、外壁は素木板張り。この拝殿は舞台にもなっており、大正5年(1917年)までは、ここで能が奉納されていた。江戸前期と歴史は古く、町の文化財に指定されている。
山門(楼門
三間一戸、切妻、銅板葺(元茅葺)、八脚楼門形式となっている。外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、木部は弁柄色、神仏習合の名残が見られる。江戸後期の楼門建築の遺構として貴重で、こちらも町の文化財に指定されている。

特徴

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社宝
社宝である能面「天神」は元亀2年(1571年)に野尻出身の千代熊丸が奉納したもので、国の重要美術品に認定されている[2]
能面まつり
能が奉納されなくなった現在は、毎年2月6日に「能面まつり」が行われている。この日は参拝者に小豆粥が振る舞われる。
稲荷の大杉
神木である「稲荷の大杉」は、本殿裏山中腹にあり、伊弉諾尊伊弉冊尊2柱の神を祀り、荒魂大杉大明神と称される。推定樹齢500年、樹高40メートル、目通り幹周8.6メートル、根回り11.7メートル、北陸地方を代表する大木で、福井県の天然記念物である。

神事

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例大祭(池田大祭)
例大祭は毎年1回、6月10日周辺の3日間で行われる。豊作などを願う行事として、江戸時代以前から続く。

歴史

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創建は第25代武烈天皇の御代、信濃国一宮である諏訪大社の御分霊(建御名方神)を勧請したのが始まりとされている。 その後、地元神で「あづき神」、つまり小豆島の神である大野手比売命を合祀し、奈良時代霊亀2年(716年)には倉稻魂命稲荷神)を合祀した。

現在までに、正殿が倉稻魂命、右殿が建御名方命、左殿が大野手比売命で、太田命・大己貴命を配祀する。池田郷の48ヶ村の惣社として信仰を集め、歴代領主にも崇敬された。

中世の戦乱により一時衰退したが、延徳3年(1491年)、朝倉貞景の家臣池田時忠が再興し、社殿を造営した。これが現在の本殿である。

しかし、安土桃山時代天正2年(1574年)、一向一揆によって本殿を残して多くの社殿、社宝、記録などを焼失。庇護者だった朝倉氏も滅亡したため、再び衰退する。

文禄4年(1595年)から再興され、慶長5年(1600年)には拝殿が再建された。その後の領主からは修理・改修のごとに白銀が寄進された。

江戸時代後期の嘉永3年(1850年)、現在に残る神門が建立された。

明治6年(1873年)、県社に列し、明治41年(1908年)には神饌幣帛料供進社に指定された。

現地情報

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所在地

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福井県今立郡池田町稲荷13-1

交通アクセス

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周辺

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脚注

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  1. ^ 昭和16年11月6日文部省告示第823号
  2. ^ 昭和24年5月28日文部省告示第148号

外部リンク

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