関東 (工作艦)
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(関東丸から転送)
関東 | |
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基本情報 | |
建造所 | ブルミスト・アンド・ワイン社[1] (デンマーク[2]) |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 工作艦[3] |
母港 | 横須賀[4][5] |
艦歴 | |
起工 | 1897年 |
進水 | 1900年[1] |
竣工 | 1900年3月[2] |
最期 | 1924年12月12日擱座破壊[2] |
除籍 | 1925年3月1日[6] |
改名 |
マンチュリア[7] → 関東丸[7] → 関東[8] |
要目(1924年時) | |
排水量 | 公表値:11,000ロングトン (11,177 t)[2][1] |
満載排水量 | 14,200ロングトン (14,428 t) |
軽荷排水量 | 7,300ロングトン (7,417 t) |
総トン数 | 5,720トン |
全長 | 429 ft 8 in (130.962 m) |
垂線間長 | 410 ft 0 in (124.968 m) |
最大幅 | 49 ft 7+1⁄4 in (15.119 m) |
吃水 |
20 ft 0 in (6.096 m)[2] 軽荷前部:14 ft 5 in (4.394 m) 同後部:19 ft 0 in (5.791 m) 満載前部:22 ft 0 in (6.706 m) 同後部:27 ft 3 in (8.306 m) |
ボイラー | 宮原式缶 4基 |
主機 | 直立3段レシプロ[1] |
推進 | 1軸 |
出力 |
公表値:2,500 hp (1,864 kW)[2] 1920年:1,703 hp (1,270 kW)[1] |
速力 |
全力9/10:11.8ノット (22 km/h) 公表値:11ノット (20 km/h)[9] 経済速力:8ノット (15 km/h) |
燃料 |
1920年:石炭982ロングトン (998 t)[1] 1924年:石炭854ロングトン (868 t) |
航続距離 | 8ノット - 5,136カイリ |
乗員 |
1906年定員:170名[10] 公表値:161名[1][2] |
搭載能力 |
載貨重量:300トン 獣肉庫:200貫 魚肉庫:80貫 野菜庫:350貫 氷庫:100貫 |
兵装 |
40口径安式12センチ砲 2門 40口径安式8センチ砲 4門 |
搭載艇 | 汽艇1隻、カッター4隻、通船3隻 |
その他 | 15トンデリック1本、3トンデリック7本 |
出典の無い要目は[5]による。 |
関東(かんとう)は、大日本帝国海軍の工作艦。元は日露戦争で捕獲したロシア汽船「マンチュリア」 (ロシア語:Маньчжурия[要出典]、6,193総トン、見積り価格842,525円) である[11]。 関東と名のつく地名は国内外に何カ所かあるが、中国遼東半島一帯の地を指した関東州が艦名になった[9]。
ロシア船名について
[編集]ロシア船名「マニジューリヤ」は満州の意味で、日本側資料では英語読みの「マンチュリア」表記が多い。同じく日露戦争劈頭に日本側が拿捕した同名の汽船があり、そちらが「満州丸」と命名された(後の通報艦「満州」)。[要出典]
艦歴
[編集]- 1900年 3月 - デンマーク・コペンハーゲン、Burmeister&Wainでロシア汽船「マニジューリヤ」として竣工。
- 1904年 (明治37年)
- 1905年 (明治38年)
- 1906年 (明治39年) 3月23日 - 工作船となる。
- 1908年 (明治41年) 7月11日 - 横須賀港務部付属。
青島の戦いの際、1914年 (大正3年) 9月30日に触雷した水上機母艦「若宮丸」の応急修理を実施[15]。また、「関東丸」は陸上に設けられた海軍機の基地の桟橋を作った[15]。10月2日には敵機の爆撃を受けたが、投下された爆弾2発は外れた[15]。
- 1915年 (大正4年)
- 1918年 (大正7年) 9月 -マルタに進出して第一次世界大戦戦利艦配分を受けた旧ドイツ潜水艦を整備の上、随伴して日本へ回航。
- 1920年 (大正9年) 4月1日 - 特務艦類別等級が制定され、「関東」は工作艦に類別された[3]。
- 1923年 (大正12年)
- 1924年 (大正13年)
- 1925年 (大正14年) 3月1日 - 除籍[6]。特務艦類別等級表からも削除された[17]。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。階級は就任時のもの。
艦長
[編集]- 中尾雄 大佐:1904年10月6日 - 1905年1月12日
指揮官
[編集]- 佐多直蔵 少佐(期間不明)[18]
- 茶山豊也 大佐:1906年4月1日 - 10月20日
- 秀島七三郎 大佐:1907年5月30日 - 10月15日
- 上野亮 中佐:1907年12月11日 - 1908年7月11日
- 小黒秀夫 中佐:1909年1月25日 - 6月23日
- (兼)真野巌次郎 大佐:1912年6月28日 - 7月9日
- 真野巌次郎 大佐:1912年7月9日 - 7月31日
- 平田得三郎 大佐:1913年2月19日 - 1914年3月5日
- 丸橋彦三郎 大佐:1914年3月5日 - 12月1日
- 犬塚助次郎 中佐:1914年12月1日 - 1915年2月18日
- 河野左金太 大佐:1915年2月18日 - 9月13日
- 犬塚助次郎 中佐:1915年9月13日 - 1916年12月1日
- 岡村秀二郎 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 宮村暦造 中佐:1917年12月1日 - 1918年9月10日
- 豊島二郎 中佐:1918年9月10日[19] - 12月1日[18][20]
- 福村篤男 大佐:1918年12月1日[20] - 12月11日[21]
- 今泉哲太郎 大佐:1918年12月11日 - 1919年7月14日
- 石井祥吉 大佐:1919年7月14日[22] - 12月1日[18][23]
- 加賀藤吾 中佐:1919年12月1日[18][23] - 1920年1月8日[24]
- 吉富新八 中佐:1920年1月8日[24] -
特務艦長
[編集]- 吉富新八 中佐[18]:不詳 - 1921年9月17日[25]
- 七田今朝一 大佐:1921年9月17日 - 1922年6月15日
- 林清二 大佐:1922年6月15日[26] - 1922年11月20日[18][27]
- 内藤省一 大佐:1922年12月1日[18][28] - 1923年9月15日[29]
- 吉川真清 中佐:1923年9月15日[29] - 1923年12月1日[18][30]
- 是恒隆 中佐:1923年12月1日[18][30] - 1924年12月1日[31]
- 鳥野団一 中佐 1924年12月1日[32][31] - 1925年2月13日[33]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その三「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務船」
- ^ a b c d e f g #写真と史実(1935)p.98。
- ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.103、大正9年4月1日 (内令40)「特務艦類別等級」。
- ^ a b 明治38年2月14日付 達第10号
- ^ a b #特務艦要目コマ5-18『特務艦要目表 (大正十三年十一月調) 海軍省軍務局』
- ^ a b #T14達/3月コマ1、大正14年3月1日達第31号「特務艦関東 右帝國特務艦籍ヨリ除カル」
- ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.13、拿捕船処分一覧表。
- ^ a b 大正4年8月23日付 達第110号
- ^ a b #艦船名考(1928)pp.133-134
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.488-489、明治39年3月23日内令第99号。将校同相当官19人、准士官3人、下士31人、判任文官9人、卒108人。
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.15、拿捕船処分一覧表。
- ^ 明治37年4月7日付 内令第184号。
- ^ #海軍制度沿革8(1971)pp.391-392。
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.392、明治38年2月14日 (達10)『旅順口沖ニ於テ捕獲シタル汽船「マンチュリア」號ヲ関東丸ト命名シ其ノ本籍ヲ横須賀鎮守府ト定ム』。
- ^ a b c 『日本海軍航空史(4)』49ページ
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.103、大正4年8月23日 (達110)。
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.105、大正14年3月1日 (達32)。
- ^ a b c d e f g h i 『軍艦「関東」越前海岸遭難記』281頁
- ^ 『官報』第1833号、大正7年9月11日。
- ^ a b 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
- ^ 『官報』第1909号、大正7年12月13日。
- ^ 『官報』第2083号、大正8年7月15日。
- ^ a b 『官報』第2199号、大正8年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2227号、大正9年1月9日。
- ^ 『官報』第2741号、大正10年9月19日。
- ^ 『官報』第2961号、大正11年6月16日。
- ^ 『官報』第3093号、大正11年11月21日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ a b 『官報』第3332号、大正12年9月29日。
- ^ a b 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ a b 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
- ^ 『軍艦「関東」越前海岸遭難記』200頁
- ^ 『官報』第3743号、大正14年2月16日。
参考文献
[編集]- 浅井将秀 編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター
- 防衛省防衛研究所
- 「特務艦要目」『大正14 公文備考 巻42 艦船止』、JACAR:C08051419000。
- 「3月」『大正14年 達 完』、JACAR:C12070084700。
- 防衛省防衛研究所
- 上坂紀夫『軍艦「関東」越前海岸遭難記』光人社NF文庫、2010年。ISBN 978-4-7698-2655-2。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍有終会 編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 日本海軍航空史編纂委員会(編)『日本海軍航空史(4)戦史篇』時事通信社、1969年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 31巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1969年。