京都市立銅駝中学校
京都市立銅駝中学校 | |
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過去の名称 |
上京第三十一番組小学校 銅駝小学校 銅駝尋常高等小学校 銅駝国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 京都市 |
設立年月日 | 1869年 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒604-0902 |
京都市中京区土手町通竹屋町下ル | |
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京都市立銅駝中学校(きょうとしりつどうだちゅうがっこう)は、京都府京都市中京区にあった公立中学校。なお、本項では現校地にあった前身の銅駝小学校についても解説する。
概要
[編集]京都市立銅駝中学校は、明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つである銅駝小学校がもとになり、戦後の教育改革に際して昭和22年(1948年)に新制中学校として開校し、1979年(昭和54年)に京都市立柳池中学校に統合され、閉校した。
校名
[編集]「銅駝」の名称は、小学校改称時に、漢の洛陽の都で銅の駱駝像があったとされる区域にちなみ、平安京においてこれに対応する二条から中御門の地域を「銅駝坊」と名付けていたことに由来して第2代京都府知事・槇村正直が命名したと伝えられる[1]。
沿革
[編集]銅駝小学校
[編集]- 1869年(明治2年)9月21日 - 上京第三十一番組小学校として二条通寺町東入ル榎木町に設立[1][2]
- 1875年(明治8年) - 校名を銅駝に改称
- 1892年(明治20年) - 銅駝尋常小学校に改称
- 1903年(明治36年) - 現校地である京都府舎密局跡地に移転[3]
- 1941年(昭和16年)4月 - 京都市銅駝国民学校に改称[4]
- 1948年(昭和23年)- 閉校[4]
銅駝中学校
[編集]- 1947年(昭和22年) - 学制改革により、京都市立銅駝中学校を銅駝小学校内に設置[5]
- 1948年(昭和23年) - 銅駝小学校が閉校し、独立開校[5]
- 1979年(昭和54年) - 京都市立柳池中学校に統合[5]
閉校後
[編集]- 1980年(昭和55年) - 校地・校舎を銅駝美術工芸高等学校に転用
- 2017年(平成29年) - 銅駝美術工芸高等学校の移転が決定。
- 2019年(平成31年)12月 - 銅駝校跡地活用検討委員会が京都市に「銅駝美芸高校移転後についての要望書」を提出[6]。
- 2023年(令和5年)3月 - 銅駝美術工芸高等学校が新校地に移転。
通学区域
[編集]銅駝中学校の通学区域は、春日小学校と立誠小学校の通学区域、元学区でいうと春日学区(上京区)・銅駝学区・立誠学区であった[7]。 銅駝小学校の通学区域は、銅駝学区各町であった。
銅駝学区
[編集]銅駝学区(どうだがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市中京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなる元銅駝小学校の通学区域と合致し、今でも地域自治の単位となる地域区分である。
銅駝学区の沿革
[編集]明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した上京第31番組に由来し、同年には、区域内に上京第31番組小学校が創立した。
上京第31番組は、明治5年(1872年)には上京第31区、明治12年(1879年)には区が組となり上京第31組となった。設置された上京第31番組小学校は、その後明治8年に校名を銅駝に改称した[8]。
上京第31組は、学区制度により明治25年(1892年)には上京第26学区となった[9]。
昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京区・下京区から、左京区・中京区・東山区が分区されると、上京第26学区から銅駝学区となり、中京区に属した[8]。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが[10]、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。
戦後の教育改革により、昭和22年に銅駝小学校に新制中学校として銅駝中学校が設けられ、翌昭和23年に銅駝小学校が閉校し、銅駝中学校が独立して開校した。その銅駝中学校が閉校後の校地・校舎を利用して置かれていた銅駝美術工芸高等学校は、令和5年に下京区に移転した[8]。
銅駝学区の通学区域
[編集]銅駝学区に設けられた銅駝小学校が、新制中学校の銅駝中学校となったため、銅駝学区では小学校は2つの通学区域(立誠小学校・富有小学校)に分けられることになったが、現在は、学区全体が京都市立御所東小学校の通学区域となっている。
人口・世帯数
[編集]京都市内では、概ね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[11]、銅駝学区の区域に設定されている国勢統計区(中京区第20国勢統計区[12])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は3,183人、1,888世帯である。
地理
[編集]中京区の北東部に位置する学区であり、西側は富有学区・柳池学区、南側は立誠学区、東側は左京区の川東学区・新洞学区、北側は上京区の春日学区に接する。区域は、東は鴨川、西は寺町通、北は丸太町通の南、南は三条通の北で限られ、面積は0.305平方キロメートルである[13][注釈 1]。
銅駝学区内の通り
[編集]銅駝学区の町名
[編集]- 東生洲町
- 上樵木町
- 上大阪町
- 末丸町
- 鉾田町
- 大文字町
- 指物町
- 清水町
- 一之船入町
- 下丸屋町
- 恵比須町
- 西革堂町
- 角倉町
- 東椹木町
- 梅之木町
- 橘柳町
- 行願寺門前町
- 藤木町
- 常盤木町
- 樋之口町
- 榎木町
- 西生洲町
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ なお、 京都市地域統計要覧ウェブサービスの国勢統計区別集計において、総務省統計局「地図で見る統計(jSTAT MAP)」に登録されている境界データから算出された数値として示される面積では0.295平方キロメートルとなる。
出典
[編集]- ^ a b 銅駝学区、京都市、2016年1月19日閲覧。
- ^ a b 『京都市学区大観』 (1937), pp. 68–69, 「中京区銅駝学区」
- ^ “目次 - 史料館だより_05”. www.doda-jichiren.jp. 2023年6月3日閲覧。
- ^ a b c “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2024年1月27日閲覧。
- ^ a b c d “京都市立中学校・総合支援学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2024年2月3日閲覧。
- ^ “目次 - 銅駝校跡地活用検討委員会”. www.doda-jichiren.jp. 2023年7月1日閲覧。
- ^ a b 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 229, 「京都市立柳池中学校」
- ^ a b c d 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』 (1985), pp. 130–131, 「銅駝学区」
- ^ 明治25年6月3日府令第42号(京都市尋常小學校々數位置幷ニ小學區ノ件)「明治25年6月3日府令第42号」『京都府府令達要約 明治25年 第13編上巻』1892年、276-288頁。doi:10.11501/788418 。
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074 。
- ^ “用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
- ^ 令和2年国勢調査時点
- ^ a b “語りつがれるわがまち「銅駝学区」”. 2024年2月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』平凡社、1985年。doi:10.11501/9575674。ISBN 9784582477092。
- “語りつがれるわがまち「銅駝学区」”. 2024年2月3日閲覧。
- 『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年。doi:10.11501/1440637。
- 『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年。doi:10.11501/12111830。
- 『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系27〉、1979年。ISBN 4-582-49027-1。
関連文献
[編集]- 「上京第二十六学区之部(碓井小三郎『京都坊目誌 上京之部 坤』(1915))」『京都叢書:新修 第15巻』光彩社、1968年、313-339頁。doi:10.11501/2997392 。