郁久閭鄧叔子
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郁久閭 鄧叔子(いくきゅうりょ とうしゅくし、拼音:Yùjiŭlǘ Dèngshūzǐ、? - 555年)は、柔然最後の可汗(カガン:君主)。阿那瓌の叔父。
生涯
[編集]西魏の廃帝元年(552年)1月、突厥の土門は兵を発して柔然を撃ち、懐荒の北で大破した。これによって可汗の阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉に奔走したため、柔然の別部は阿那瓌の叔父である鄧叔子を立てて主とした。土門は自ら伊利可汗と号し、北斉と通使を往来させた。伊利可汗が死去し、息子の乙息記可汗が即位すると、突厥は鄧叔子を沃野の北にある木賴山(賴山)[1]で破った。
西魏の廃帝2年(553年)、乙息記可汗が死去し、その弟の木汗可汗が即位すると、突厥はふたたび鄧叔子を撃破する。
西魏の恭帝2年(555年)、遂に鄧叔子はその部族千余家を率いて関中に奔走した。勢い盛んな突厥であったが、西魏と通好を望んでいたことと、鄧叔子の余衆が中国の援助を得ることを恐れたため、木汗可汗は使者を続けざまに送って鄧叔子らの誅殺を請願した。西魏の宇文泰はこれを許可し、鄧叔子以下三千余人を捕縛して突厥使者に引き渡し、長安の青門外で殺させた。中男(11歳以上17歳未満の男子)以下は免れ、みな西魏の王公家に配られた。
脚注
[編集]- ^ 『周書』は「木賴山」、『北史』は「賴山」と表記。
参考資料
[編集]- 『周書』列伝第四十二 異域伝下
- 『北史』列伝第八十六 蠕蠕、列伝第八十七 突厥
- 『資治通鑑』卷第一百六十五 梁紀二十一
- 内田吟風、田村実造 他訳注『騎馬民族史1 正史北狄伝』(平凡社東洋文庫、1971年)
- 佐口透、山田信夫、護雅夫 訳注『騎馬民族史2-正史北狄伝』(平凡社東洋文庫、1972年)
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