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SCAPIN

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

連合国最高司令官指令(れんごうこくさいこうしれいかんしれい、Supreme Commander for the Allied Powers Directive)とは、連合国最高司令官(SCAP: Supreme Commander for the Allied Powers)から日本国政府宛てに発せられた基礎的施策を定める指示およびそれを拡充する訓令である。当該指令に係る文書にはSCAP Index Numberと呼ばれる番号が「SCAPIN-○○」という形で付されることから「SCAPIN」(スキャッピン)と通称される。「連合国軍最高司令官指令」や「連合国軍最高司令部指令」と呼ばれることもあるほか、「対日指令」とも略称される。なお、行政的(administrative)な指示であり、「SCAPIN-○○A」という形でSCAP Index Numberが付される「SCAPIN-A」とは区別される[1]

総説

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第二次世界大戦の戦後処理において、連合国が主導する連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、日本では通称「GHQ」)より様々な指令が出された。その内容は検閲日本における検閲)の規定、国旗掲揚の許可、漁業権の範囲を定めるもの、農地改革、など多岐に渡る。それらの目的は日本から国家主義軍国主義を一掃することとされている。

SCAPINは、1945年昭和20年)9月2日のSCAPIN-1(一般命令第一号)から1952年(昭和27年)4月26日のSCAPIN-2204まで出された。

1952年(昭和27年)4月28日日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効に伴い、一部の特別な協定の結ばれたものを除き失効した。

日本の領土問題に影響を及ぼしているSCAPIN

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SCAPIN-677 (日本の範囲)

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SCAPIN-677によって決められた日本の施政権が及ぶ範囲
SCAPIN-677 (1ページ目)
SCAPIN-677 (2ページ目)

日本の行政権の行使に関する範囲に言及した第677号において、伊豆諸島小笠原諸島北緯30度以南の南西諸島竹島鬱陵島済州島千島列島色丹島および歯舞群島が除かれている。これらの地域のうち、サンフランシスコ講和条約発効前に日本に復帰したのは伊豆諸島とトカラ列島のみで、伊豆諸島は1946年(昭和21年)3月22日、トカラ列島は1952年(昭和27年)2月10日に日本に復帰した。一方、(2016年)現在でも竹島を占拠する韓国と、千島列島、色丹島、歯舞群島を占拠するロシアは、この文書を自国の領有根拠の一つとしており、日本との間で領土問題が続いている。

しかし、SCAPの上部組織である極東委員会には軍事作戦行動や領域の調整に関する権限が与えられていない[2]。それを踏まえてこの文書の第6項には「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」と、これが暫定的な指令である旨が明示されている。

中ノ鳥島大正時代の大規模探索でも発見されず、1943年(昭和18年)には日本海軍の機密水路図誌から削除されたものの、一般の地図には記載が残っていたため、第677号において言及されている(一般の水路図誌から削除されたのは発令10ヶ月後の1946年〈昭和21年〉11月22日)。

また、SCAPIN-677が発令された半月後の1946年(昭和21年)2月13日に行われた日本との会談において、GHQはSCAPINが領土に関する決定ではないこと及び領土の決定は講和会議にてなされると回答している[3]

行政の分離に關する第一囘會談錄(終戰第一部第一課)
(昭和二十一年)二月十三日黃田聯絡官GS「ロッヂ」大尉及び「プール」中尉と標記の件に關し第一囘會談を行ひたり要旨左の如し
黃「本日は領土の歸屬問題乃至は本指令の妥當性等に付いては觸れさることとし單に疑義に付質問を爲さんか爲參上せり」
米「本指令は單なる聯合國側の行政的便宜より出てたるに過きす從來行はれ來りたることを本指令に依り確認せるものなり即ち其の他はSCAPの所管するところにあらす例へは大島はCINPACの所管。鬱陵島は第二十四軍團の指揮下に在り從つて本指令に依る日本の範圍の決定は何等領土問題とは關聯を有せす之は対日講和會議にて決定さるへき問題なり

朝鮮半島南部を統治していた米軍政府も1947年(昭和22年)8月のレポートにおいて、竹島の管轄権の終局的処分は平和条約を待つとしている[4]

18 Representatives of the Fisheries Bureau and Korea History and Geography Association left for Ulleung-do and Tok-to on 16 August. The latter, two small islands about 40 miles southeast of Ullueng-do, is an excellent base for extend fishing operation. Formally belonging to Japan, a recent occupation directive which draw and arbitrary line demarcating Japanese and Korean fishing waters placed Tok-to within the Korean zone. Final disposition of the islands's jurisdiction awaits the peace treaty.

SCAPIN-677の日本の領土問題への影響の比較

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各領土に関する各解釈や問題と、平和条約の適条の関係から、以下の領域の領土問題の出発点は、この同じSCAPIN-677であったとしても、自ずとその問題の性質が異なっている。

  • サンフランシスコ講和条約第3条によって、アメリカ合衆国の施政権下に置かれることが規定されたが、主権の放棄は規定されていない奄美諸島琉球列島小笠原諸島[5]
  • サンフランシスコ講和条約第2条によって、日本が放棄すべき地域とされたものの、帰属先(主権者)が不明確なままである南樺太および千島列島
  • サンフランシスコ講和条約第2条によって、日本が放棄すべき地域に含まれているのか論争のある北方領土[6]
  • SCAPIN-677では日本から除外すべき地域とされたが、サンフランシスコ講和条約第2条では規定されていない竹島[7]

南西諸島および小笠原諸島

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奄美群島、琉球列島(尖閣諸島を含む)、小笠原諸島などサンフランシスコ講和条約第3条によってアメリカ合衆国の施政権下に置かれた地域については、奄美群島や沖縄での祖国復帰運動や日米間の外交交渉の結果、1953年(昭和28年)12月25日に奄美群島、1968年(昭和43年)6月26日に小笠原諸島、1972年(昭和47年)5月15日に沖縄県が日本に復帰した。

北方領土

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ポツダム宣言カイロ宣言)上は日本が主権者でありながらSCAPIN-677によってたまたま日本の施政権の外に置かれただけのように当初見えた北方領土については、当初から漁業権などで問題になっていたにもかかわらず、その主権者(帰属先)がサンフランシスコ講和条約によっても明示されないままであった。

ポツダム宣言違反であるにもかかわらず、日本が主権回復のために放棄させられた南樺太および千島列島については、主権回復と引き換えに放棄させられたということ自体に対して吉田茂首相が受諾演説で連合国に明確に抗議している[8]。しかしながら、いまだに、北方領土の主権者(帰属先)はどこの国であるべきなのかという問題が日本と連合国との間では、ポツダム宣言(カイロ宣言)を除いて、明示的に確定されていないままである。

(2016年)現在の日本政府の公式見解は、南樺太および千島列島に対する主権は放棄したが、その帰属先は未定であり、さらに北方領土は千島列島に含まれていないためその主権を放棄していない[6]。という見解である。

竹島

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韓国政府はサンフランシスコ講和条約で日本の放棄領土に竹島を含めようと米国務省に要請したが拒否された。講和条約で竹島を放棄させることに失敗した韓国政府は、サンフランシスコ講和条約署名後の1951年9月8日 に初めてSCAPIN677に基づく竹島の主権主張を行った。これ以降、韓国政府はSCAPIN677をその領有の根拠の柱としている[9]。韓国のSCAPIN677に基づく主張に対して1952年11月14日に米国務省は駐韓米大使に「SCAPIN677は、日本の永続的な主権の行使を排除したものではない」とした。併せてラスク書簡に関する情報も得た駐韓米国大使は、No.187口上書で米国の認識は竹島を日本領としたラスク書簡のとおりと韓国外交部に回答した。

SCAPIN-1033 (日本の漁業捕鯨区域からの竹島の排除)

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第1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって、太平洋戦争終戦後の日本漁船の活動可能領域が定められた。マッカーサー・ラインとして知られる。この覚書では、竹島周囲12海里以内の地域を日本の操業区域から除外する一方、「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文言も盛り込まれており、主に領土問題において頻繁に議論の的となる。

なお、後に韓国李承晩大統領によって宣言された「李承晩ライン」はこの第1033号によって画定されたマッカーサー・ラインを踏襲したものである。

原文 (竹島に直接関係のない項目を除く)
SCAPIN  1033
                                     22 June 1946
SUBJECT : Area Authorized for Japanese Fishing and Whaling.
3.
(b) Japanese vessels or personnel thereof will not approach closer than twelve (12) miles to Takeshima (37°15' North Latitude, 131°53' East Longitude) nor have any contact with said island.
5. The present authorization is not an expression of allied policy relative to ultimate determination of national jurisdiction, international boundaries or fishing rights in the area concerned or in any other area.
翻訳 (竹島に直接関係のない項目を除く)
SCAPIN  1033
                                     1946年6月22日
主題:日本の漁業と捕鯨に認可される区域。
3.
(b) 日本の船またはその人員は、竹島(北緯37°15′、東経131°53′)へ12マイルより近くに接近しない、またその島とのいかなる接触もしない。
5. この認可は、関係する区域や他のどの区域の国の管轄権・国境・漁業権の最終的な決定に係わる連合国の政策の表明ではない。

竹島に対する韓国の要求への米国務省の説明

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竹島に対する韓国の要求に対して、SCAPIN-677、SCAPIN-1778についての回答文書。サンフランシスコ条約後の1952年(昭和27年)11月14日に、米国務省はSCAPIN-677を根拠とした韓国の竹島に対する要求について、駐韓米国大使に以下の書簡を送付している[10][11]。SCAPIN-1778は竹島を極東空軍の射爆場として指定している。

サンフランシスコ条約が発効したのちの1952年7月26日に、日米合同委員会は在日米軍の爆撃訓練地域として竹島を再び指定した[12]

原文

The Korean claim, based on SCAPIN 677 of January 29, 1946, which suspended Japanese administration of various island areas, including Takeshima (Liancourt Rocks), did not preclude Japan from exercising sovereignty over this area permanently. A later SCAPIN, No. 1778 of September 16, 1947 designated the islets as a bombing range for the Far East Air Force and further provided that use of the range would be made only after notification through Japanese civil authorities to the inhabitants of the Oki Islands and certain ports on Western Honsu.

翻訳

韓国は、竹島(リアンクール岩)を含む様々な島嶼地域に対する日本の施政を停止した1946年1月29日のSCAPIN-677に基づいた権利の主張をしていますが、日本をこの地域における永続的な主権の行使から排除したものではありません。後続のSCAPINである1947年9月16日付け第1778号は、同島を極東空軍の射爆場として指定しさらに当該射爆場の使用は、日本の文民当局を通じて隠岐及び本州西部の住民に通告した後にはじめて行われると規定しました。

一覧

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  • 1945年(昭和20年)9月2日 SCAPIN-1 陸海軍解体・軍需工業停止などを指令(一般命令第一号
  • 1945年(昭和20年)9月10日 SCAPIN-16 「言論及び新聞の自由に関する覚書」「新聞報道取締方針」で検閲を開始。
  • 1945年(昭和20年)9月10日 SCAPIN-17 13日24時までの大本営廃止を発令
  • 1945年(昭和20年)9月21日 SCAPIN-33 「日本に与うる新聞遵則」(プレスコード)を発令
  • 1945年(昭和20年)10月4日 SCAPIN-93 「政治的、社会的及宗教的自由ニ対スル制限除去ノ件英語版」(自由の指令)を発令
  • 1945年(昭和20年)10月22日 SCAPIN-178 「日本教育制度ニ対スル管理政策」を発令
  • 1945年(昭和20年)11月6日 SCAPIN-244 「持株会社解体に関する司令部覚書」
  • 1945年(昭和20年)11月18日 SCAPIN-301 「商業および民間航空」生産・研究・実験など航空機に係る全ての活動を禁止(航空禁止令[13]
  • 1945年(昭和20年)12月9日 SCAPIN-411 「農地改革ニ関スル覚書」「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示。
  • 1945年(昭和20年)12月15日 SCAPIN-448 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(神道指令)を発令
  • 1945年(昭和20年)12月31日 SCAPIN-519 学校教育における「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」を発令
  • 1946年(昭和21年)1月4日 SCAPIN-548  超国家主義団体の解体の指令
  • 1946年(昭和21年)1月4日 SCAPIN-550 公職追放の指令
  • 1946年(昭和21年)1月21日 SCAPIN-642 公娼廃止の指令
  • 1946年(昭和21年)1月28日 SCAPIN-658 映画検閲の指令
  • 1946年(昭和21年)2月27日 SCAPIN-775 「社会救済に関する覚書」 公的扶助4原則(無差別平等、公私分離、救済の国家責任、必要な救済を充足)の提示。
  • 1946年(昭和21年)3月17日 SCAPIN-824 「宣伝用刊行物の没収」の開始
  • 1946年(昭和21年)10月12日 SCAPIN-1266 日本史学科再開はSCAP認可の教科書使用を条件とする旨の指令
  • 1946年(昭和21年)10月25日 SCAPIN-1294 石油関係法令廃止と配給会社解散を指令
  • 1948年(昭和23年)2月4日 SCAPIN-1855 「農地改革ニ関スル覚書」  遅滞なくSCAPIN-411土地改革指令を厳密に実行することを指示。
  • 1951年(昭和26年)12月5日 SCAPIN-677/1 「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN-677)を改正。
    日本の区域を北緯30度以北(口之島を除く)から北緯29度以北に変更し、吐噶喇列島本土復帰

脚注

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  1. ^ 国立国会図書館憲政資料室の所蔵資料 Supreme Commander for the Allied Powers Directives to the Japanese Government (SCAPINs)
  2. ^ 外務省記録公開文書 リール番号A'-0106 コマ番号315「14.極東委員会および連合国対日理事会付託事項」 [1]
  3. ^ 外務省記録公開文書 リール番号A'-0121 コマ番号85「2.行政の分離に関する司令部側との会談 [2]
  4. ^ U.S. Army Military Government - South Korea: Interim Government Activities, No.1, August 1947 [3]
  5. ^ 平和条約以後の沖縄と日本外交
  6. ^ a b 北方領土問題に関するQ&A | 外務省
  7. ^ サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い | 外務省
  8. ^ サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説”. 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室. 2013年3月23日閲覧。
  9. ^ 山﨑 佳子 韓国政府による竹島領有根拠の創作 pp.10.[4]
  10. ^ 竹島問題に関する調査研究最終報告書 サン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い[5]
  11. ^ Letter from Office of Northeast Asian Affairs To E. Allan Lightner American Embassy, Pusan Korea[6]
  12. ^ 『竹島の歴史地理学的研究』、川上健三、1966、pp.252-253.
  13. ^ 遠藤諭 (2017年8月15日). “戦後GHQによる「航空禁止令」(?)とはどんな内容だったのか読んでみよう”. ASCII.jp. 2020年1月21日閲覧。

関連項目

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参考文献

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外部リンク

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