コンテンツにスキップ

船木長一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

船木 長一郎(ふなき ちょういちろう[1]、1915年8月20日[1] - 2003年7月11日[2])は、日本の政治家。元佐呂間町町長。家族は兄に船木長蔵(元佐呂間漁業協同組合組合長、北海道漁業協同組合連合会副会長[3])、息子に元椴法華村村長の船木英秀[2]

経歴

[編集]

佐呂間町出身[1]。漁師の家系に生まれ[4]、1934年に北海道酪農義塾を卒業し佐呂間村産業組合に入職[5]、その後有志とともに運送業者を起業し1940年まで経営するも[6]、ガソリン配給制が敷かれたことにより廃業を余儀なくされ地元農協を経て佐呂間村役場に入職[4]

1941年の役場入職後は書記補を経て36歳で助役[7]、国鉄湧網線建設の陳情や町内の電力供給を改善すべく自家発電設備の建設・送電線改良や変電所設置に尽力[4]。1954年に38歳で助役から町長選に立候補し当選[7]、当時道内で最も若い首長となった[8]。その後1956年には若佐村との合併による2回目の選挙にも当選、ホタテ養殖の企業化を行う[7]北海道区水産研究所が道内でのカキ養殖研究の最中カキ貝にホタテ稚貝が付着していることに着目し研究されたホタテ養殖をサロマ湖で行うこととなり[4]、1966年の立ち上げ時には自治省の承認を得ず議会に損失保証を提案し[6]、約2.1億円の保証を可決させ[4]、その後町の基幹産業を担うこととなる[2]。また町有林を草地に転用し農業から酪農への転換を図り[6]、畜産加工センターを設置し冬季間の雇用を確保し[4]森永乳業の工場誘致も実現させた[8]。また町長のほか網走支庁管内町村会会長[9]、酪農学園理事・評議員[10]、北海道簡易水道協会会長も務めた[1]

1988年9月まで連続9期34年間町長を務め、退任当時浦河町長の濱口光輝と並んで道内では最長の多選記録となっていた[11]。退任後は漁業を営む三男の夫婦と同居、ゲートボールを趣味とした[6]

2003年7月11日に心筋梗塞で死去、享年87歳[2]

栄典

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 北海道年鑑昭和60年版(北海道新聞社 1985年)897頁
  2. ^ a b c d e 死亡船木長一郎さん - 北海道新聞2003年7月12日朝刊37面
  3. ^ 北海道に企業と人展望と分析 協力な販売網で躍進の「道漁連」 - 北方圏12号(北方圏調査会 1975年)
  4. ^ a b c d e f ざっくばらん 町おこし34年ホタテの大衆化に自負 船木長一郎さん-北海道新聞1988年8月22日夕刊3面
  5. ^ 船木長一郎 - 日本人事録東日本編第4版(中央探偵社)1049-1050頁
  6. ^ a b c d 愛惜船木長一郎さん(前網走管内佐呂間町長) - 北海道新聞2003年8月30日夕刊4面
  7. ^ a b c 町長連続当選八回本当は四期程度が・・・ 船木長一郎(六六)=佐呂間 - 100号記念特集これが北海道のギネスだ - 月刊ダン1981年11月号(北海道新聞社)73頁
  8. ^ a b 萩原茂裕「にっぽん縦断あの街この町8 佐呂間町の巻」 - 近代中小企業1977年9月号(中小企業経営研究会)34-35頁
  9. ^ 三十年史誌(網走支庁管内青年団体協議会 1977年)
  10. ^ 酪農学園だより第42号 - 酪農学園(1984年10月)
  11. ^ 9期34年の船木佐呂間町長が退任 - 北海道新聞1988年9月11日朝刊6面
  12. ^ 佐呂間町のカジ取り34年故船木さん - 浜の心分かる人だった 葬儀に400人生前の手腕たたえる - 北海道新聞2003年7月16日朝刊北見オホーツク版27面