コンテンツにスキップ

羽賀寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽賀寺
本堂(2001年)
本堂(2001年
所在地 福井県小浜市羽賀82-2
位置 北緯35度31分7.7秒 東経135度45分52秒 / 北緯35.518806度 東経135.76444度 / 35.518806; 135.76444座標: 北緯35度31分7.7秒 東経135度45分52秒 / 北緯35.518806度 東経135.76444度 / 35.518806; 135.76444
山号 鳳聚山
宗旨 古義真言宗
天台宗宝徳2年(1450年)より前)
宗派 高野山真言宗
本尊 十一面観音(重要文化財)
創建年 伝・霊亀2年(716年
開山 伝・行基
開基 元正天皇
中興 浄蔵
細川氏清
正式名 鳳聚山羽賀寺
札所等 北陸三十三ヵ所観音霊場第5番
北陸三十六不動霊場第36番
文化財 本堂、木造十一面観音菩薩立像、木造千手観音菩薩立像、木造毘沙門天立像(重要文化財)
公式サイト 宗教法人 羽賀寺
法人番号 5210005008665 ウィキデータを編集
羽賀寺の位置(福井県内)
羽賀寺
テンプレートを表示

羽賀寺(はがじ)は、福井県小浜市羽賀にある高野山真言宗寺院山号は鳳聚山。本尊は十一面観音

歴史

[編集]

「本浄山羽賀寺縁起」によれば、霊亀2年(716年)に、元正天皇の勅願によって行基が創建したとされる。最盛期には子院18を数えたが、その後天暦元年(947年)の洪水で流出し、雲居寺(現在の京都府京都市東山区にあった廃寺)の僧・浄蔵が再興したという。地方寺院の例に漏れず、創建の正確な事情や中世以前の沿革についてはあまり明確でない。中世には守護細川氏などの庇護を受け、元弘の乱による焼失後、延文4年(1359年)に細川氏清が再興した。その後応永5年(1398年)にも焼失したが、永享8年(1436年)に奥州安倍氏後裔を称する安倍康季(安藤康季)が再興したという。近代以降は本堂のみが残る。

真言宗寺院となるのは宝徳2年(1450年)で、それ以前は天台宗に属し、青蓮院門跡の末寺であった。

2015年平成27年)4月24日、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定される[1]

伽藍と境内

[編集]

本堂

[編集]

現在の羽賀寺本堂は、室町中期の文安4年(1447年)の建立で、桁行5間(13.74m)、梁間6間(14.63m)、棟高13.21m。桧皮葺の入母屋造りで、軒の勾配がやや急に反る様式は北山文化の建築に多く見られる。堂内は内陣・外陣が明確に区別されており、正統的な密教様式を残す。1962年昭和37年)、国の重要文化財に指定[2]された。1966年(昭和41年)9月に解体修理が完了した。

文化財

[編集]

重要文化財

[編集]
木造十一面観音菩薩立像[3][4]
羽賀寺の本尊で、10世紀初期の作。像高146.4cm。元正天皇の御影との伝説がある。檜の一木造、翻波式(ほんぱしき)衣文、膝に届く長い腕など、いずれも平安前期の古様をとどめており、瞑想的な眉目も弘仁・貞観文化の観音像に共通する。本像の最大の特色は、造立当初の彩色がほぼ完全に残っていることである。宝冠は代赭(たいしゃ)色、条帛(じょうはく)や天衣(てんね)は緑、裳(も)は朱が用いられ、下地が5mmを越える厚さであることが彩色の残存につながったと見られる。この極彩色の像容から、若狭の仏像の中でも特に知名度が高い(「条帛」は左肩から斜めに掛けているタスキ状の布。「裳」は下半身にまとうスカート状のもの)。
木造千手観音菩薩立像[5][6]
長寛3年(1165年)作。像高135.4cm。檜の寄木造で、内部は入念に内刳(うちぐり)を施す。浅い彫り口や温雅な目鼻立ちなど、典型的な藤原期の仏像の様式である一方、魚鱗葺の蓮弁は鎌倉仏の特徴を示し、過渡期の仏像であることを示す。もとは小浜市千種にあった松林寺の本尊であり、羽賀寺の毘沙門天、明通寺客殿の不動明王とともに三尊形式で安置されていた。松林寺は明治初年に退転し、三尊は羽賀寺と明通寺に移された。万治3年(1660年)、1950年(昭和25年)に修復。
木造毘沙門天立像[7][8]
治承2年(1178年)作。像高159.1cm。上記の千手観音像、明通寺の不動明王とともに三尊形式で安置されていた。檜の一木造、頭部および体部は内刳を施した一木造、右手・足先を割剥ぐ。胎内に金剛界五智如来の種子(しゅじ)、「僧静秀、藤原氏、ほうかいすしやう(法界衆生)の太め也、治承二年七月廿四日」の墨書がある。
紙本墨書羽賀寺縁起[9][10]
縦50cm、全長430cmの巻子。陽光院誠仁親王筆。奥書は後陽成天皇筆。内容は、羽賀寺の創建、本尊、風水の害、源頼朝による寄進などに触れ、最後に安倍実季(秋田実季)の尽力で本堂の再建がなったことを述べて、締めくくっている。
本堂[2][11]

交通アクセス

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群”. 文化庁. 2020年9月19日閲覧。
  2. ^ a b 羽賀寺本堂 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. ^ 木造十一面観音立像 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  4. ^ 福井の文化財「木造 十一面観音立像」”. 福井県. 2016年9月19日閲覧。
  5. ^ 木造千手観音立像 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  6. ^ 福井の文化財「木造 千手観音立像」”. 福井県. 2016年9月19日閲覧。
  7. ^ 木造毘沙門天立像 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  8. ^ 福井の文化財「木造 毘沙門天立像」”. 福井県. 2016年9月19日閲覧。
  9. ^ 羽賀寺縁起 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  10. ^ 福井の文化財「紙本墨書 羽賀寺縁起」”. 福井県. 2016年9月19日閲覧。
  11. ^ 福井の文化財「羽賀寺本堂 (附 厨子)」”. 福井県. 2016年9月19日閲覧。

外部リンク

[編集]