米田国臣
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米田 国臣(こめだ くにしげ、旧字体:米田 國臣、1882年(明治15年)12月3日[1] - 1951年(昭和26年)2月24日[1][2])は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍砲兵大佐。子爵。貴族院子爵議員。旧姓・細川[1][3]。旧熊本藩家老米田家。
経歴
[編集]熊本県宇土郡宇土町(現宇土市)で細川興勝(宇土藩主・故細川興文孫)[4]の三男として生まれ[1]、侍従・米田虎雄の養子となる[1][3]。養父の死去に伴い1915年(大正4年)12月24日、子爵を襲爵した[1][5]。
陸軍士官学校(15期)に入り[6]、1903年(明治36年)11月30日に卒業し[7]、1904年(明治37年)2月12日、砲兵少尉に任官[2][8]。陸軍砲工学校を卒業し、陸軍砲兵工科学校教官、同副官、同生徒隊長、近衛野砲兵連隊付、第1師団兵器部長などを歴任[2][3]。1930年(昭和5年)8月1日、砲兵大佐に昇進し[9]、1931年(昭和6年)8月29日、予備役に編入された[2][10]。
1936年(昭和11年)4月18日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[11][12]、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月15日に辞職した[2][13][14]。
栄典
[編集]- 1902年(明治35年)12月20日 - 従五位[15]
- 1914年(大正3年)6月20日 - 正五位[16]
- 1921年(大正10年)3月30日 - 従四位[17]
- 1945年(昭和20年)5月15日 - 正三位[18]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『平成新修旧華族家系大成』上巻、614-615頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』43頁。
- ^ a b c 『人事興信録』第14版 下、ヨ78頁。
- ^ 『人事興信録』第3版 、ほ30頁。
- ^ 『官報』第1021号、大正4年12月25日。
- ^ 『陸軍士官学校』234頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194頁。
- ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和5年9月1日調』830頁。
- ^ 『官報』第1078号、昭和5年8月2日。
- ^ 『官報』第1402号、昭和6年8月31日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、44頁。
- ^ 『官報』第2788号、昭和11年4月21日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、55頁。
- ^ 『官報』第5796号、昭和21年5月14日。
- ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
- ^ 『官報』第567号「叙任及辞令」1914年6月22日。
- ^ 『官報』第3596号「叙任及辞令」1921年3月31日。
- ^ 『官報』第5733号「叙任及辞令」1946年2月25日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第3版、1911年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和5年9月1日調』偕行社、1930年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 米田虎雄 |
子爵 米田(虎雄)家第2代 1915年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |