御代弦
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(石井忠純から転送)
御代 弦(みよ げん、1852年〈嘉永4年12月[1]〉- 1932年〈昭和7年〉2月8日[1])は、日本の政治家。第3代秋田市長[2]。旧名・鉄吉、信敏[1]。
来歴
[編集]久保田藩城下町に生まれる[1]。1866年(慶応2年)に藩に出仕し、大番組士から大扈従[1]、戊辰戦争では藩主の駕籠に付き従い、従軍した[1]。その後、秋田藩常備隊陸軍軍曹になり[1]、1871年(明治4年)に廃止されるまで務めた。1879年(明治12年)秋田県庁に務める[1]。1889年(明治22年)から北秋田、河辺、山本の各郡長を経て[1]、1896年(明治29年)2月、秋田市長に就任した[1][3]。同年暮れに第8師団が増設され、秋田に歩兵第16旅団と歩兵第17連隊が置かれることとなった[1][3]。御代は市長として用地確保に奔走したが、用地確保に失敗、反対派住民から行政訴訟を起こされたり[3]、税賦課問題で市幹部が辞表を提出する問題が起きた[1]。その後は県と連携し、各種学校の開校や水産試験場などの産業施設を開設させたり、千秋公園内に県立秋田図書館を開館させた[3]。ほか在職中に奥羽北線(現・奥羽本線)秋田駅の開業や上水道工事が開始された[1]。1905年(明治38年)秋田市長を退任した[1]。また、弓道師範を務め、死去後に死去日付で大日本武徳会から弓道範士を追授された[1][4]。墓所は秋田市天徳寺。
家族
[編集]- 父・御代信成 ‐ 秋田藩士。藩校「明徳館」文学で私塾四如堂創立者・黒沢四如に学び、藩権少参事準席を経て維新後は由利郡初代郡長、仙北郡長、南秋田郡長、北秋田郡長などを歴任した。弦はその長男[5][6][7]。
- 三女・カネ‐横浜正金銀行上海支店長・小貫慶治の妻[8]
- 四女・マツ‐ 化学者・加福均三(日本化学会会長)の妻[9]
- 妹・チエ(1864-) ‐ 秋田藩士・石井忠良の妻。
- 甥・石井忠純(1886-) ‐ チエの子。教育者。東京帝国大学独文科卒。万朝報学芸部記者、第四高等学校 (旧制)教授、山形高等学校 (旧制)校長、文部省図書局長、東京外国語学校第8代学長、四高校長を歴任。[10][11]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『秋田人名大事典(第二版)』530頁。
- ^ “歴代市長および副市長(助役)の紹介”. 秋田市. 2024年4月30日閲覧。
- ^ a b c d 『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、285頁。
- ^ 武徳会 1937, p. 306.
- ^ 山方泰治『秋田人物傳』秋田人物伝発行所,大正12、1923年、108頁。NDLJP:978637 。「国立国会図書館デジタルコレクション」
- ^ 橋本宗彦『秋田沿革史大成 下』橋本宗一、1898年。doi:10.11501/763199。NDLJP:763199 。「国立国会図書館デジタルコレクション」
- ^ 阿部慶徳「明治21-44年市制下における市長と市参事会 -秋田市の運用の実態-」『早稲田政治公法研究』第109巻、早稲田大学大学院政治学研究科、2015年8月、1-19頁、hdl:2065/45489、ISSN 0286-2492。
- ^ 小貫慶治『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 加福均三『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 第8代校長 石井忠純東京外語大学文書館
- ^ 『人事興信録 第14版 上』1943「石井忠純」
参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
- 『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年。
- 大日本武徳会本部雑誌部『武道範士教士錬士名鑑. 昭和12年』1937年、306頁。全国書誌番号:44052086 。