田口益人
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時代 | 飛鳥時代末期 - 奈良時代初期 |
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生誕 | 斉明天皇4年(658年) |
死没 | 養老6年11月20日(723年1月1日) |
官位 | 正五位上・右兵衛率 |
主君 | 文武天皇→元明天皇→元正天皇 |
氏族 | 石川朝臣→田口朝臣 |
父母 | 父:田口豊嶋? |
田口 益人(たぐち の ますひと)は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての貴族・歌人。氏姓は石川朝臣のち田口朝臣。官位は正五位上・右兵衛率。
出自
[編集]武内宿禰の後裔氏族である田口氏(田口朝臣)[1]の出身。田口筑紫または田口豊嶋の子とする説がある。
経歴
[編集]始め石川朝臣姓を称していたが、大宝2年(702年)田口朝臣の本姓に復する。慶雲元年(704年)従六位下より四階昇進して従五位下に叙爵。
元明朝に入り従五位上に叙せられた後、和銅元年(708年)上野守に任ぜられ地方官として赴任するが、翌和銅2年(709年)右兵衛率として京官に復している。元明朝末の霊亀元年(715年)正五位下より正五位上に昇叙されている。
人物
[編集]『万葉集』に2首の和歌作品が入集。 2首とも上野国への赴任の途中、駿河国庵原郡浄見埼(現在の静岡市清水区興津清見寺町あたり)で詠んだ歌。
- 廬原の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし(3-296)
- 昼見れど 飽かぬ田子の浦 おほきみの 命かしこみ 夜見つるかも(3-297)
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 大宝2年(702年) 3月15日:石川朝臣姓から田口朝臣姓に改姓[2]
- 時期不詳:従六位下
- 大宝4年(704年) 正月7日:従五位下
- 時期不詳:従五位上
- 和銅元年(708年) 3月13日:上野守
- 和銅2年(709年) 11月2日:右兵衛率
- 時期不詳:正五位下
- 和銅8年(715年) 4月25日:正五位上
- 養老6年(722年) 11月20日:卒去[2]
系譜
[編集]- 父:田口豊嶋[3]
- 母:不詳