甚目寺
甚目寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 愛知県あま市甚目寺東門前24番地 |
位置 | 北緯35度11分42.5秒 東経136度49分22.4秒 / 北緯35.195139度 東経136.822889度座標: 北緯35度11分42.5秒 東経136度49分22.4秒 / 北緯35.195139度 東経136.822889度 |
山号 | 鳳凰山 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 聖観音 |
創建年 | 伝推古天皇5年(597年) |
開基 | 甚目龍麿(甚目龍麻呂) |
正式名 | 鳳凰山 甚目寺 |
別称 | 甚目寺観音 |
札所等 |
東海三十六不動尊霊場第五番札所 尾張三十三観音第十六番札所 尾張四観音 |
文化財 | 南大門ほか(重要文化財) |
公式サイト | 鳳凰山 甚目寺 |
法人番号 | 5180005013768 |
甚目寺(じもくじ)は、愛知県あま市(旧・海部郡甚目寺町)にある真言宗智山派の寺院である。山号は鳳凰山。鎮守として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ、元、八大明神社)があったが、神仏分離令の後、境内を分けた。所在していた甚目寺町の名は、当寺によっている。
概要
[編集]通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれることが多い。本尊は聖観音。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、本堂に安置される十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)の胎内仏である。東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。尾張四観音の一つである。大須観音から見て丁(亥と子の間)の方角にあり、丁壬の方角が恵方にあたる年(丁・壬の年、最近は2007年(平成19年)、2012年(平成24年))の節分は、大変賑わう。
歴史
[編集]伝承によれば、推古天皇5年(597年)[1]、伊勢国[2]の海人豪族である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけた寺堂をたてたが、これは、「波陀米泥良」と書いた。「甚目寺」と書くようになったのは、中世からであるらしい。言い伝えでは、創建の経緯は以上の通りだが、実際、その歴史は奈良時代以前に遡ることができる、という仏教考古学者である石田茂作の研究もある。
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したという。このことから、甚目寺は、勅願寺となった。鎌倉時代には1山500坊、約3000人の僧がいたと伝わる[3]。戦国時代には、織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した[4]。その他、豊臣秀吉から160石、徳川義直から300石の寄進があった[5]。
沿革
[編集]- 597年(推古天皇5年) - 創建。
- 679年(天武天皇7年) - 寺堂が整えられ、鳳凰山の山号を受けた[6]。
- 853年(仁寿3年)8月8日 - 工事で堂宇を建立するが、一時衰退した。
- 1103年(康和5年) - 藤原連長や僧智能、大江重房らの力によって再興された。
- 1124年(天治元年) - 地震で被害を受ける。
- 1126年(大治元年) - 大江為道とその女、長谷部氏が、復興につくした。
- 1196年(建久7年) - 源頼朝の命により、南大門の再建が行われる。
- 1201年(建仁元年) - 聖観上人が勧進、再興した[7]。
- 1586年(天正13年) - 天正地震による被害を受ける。これを復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねた、という。このとき、本堂を再建し、仁王門の大規模な修繕がなされた。
- 1627年(寛永4年) - 三重塔の再建が行われる。
- 1634年(寛永11年) - 東門の再建が行われる。
- 1644年 (正保年間) - 仁王門の修理が行われる。
- 1873年(明治6年)7月19日 - 本堂が全焼するなどの被害を出した火災が起こる。
- 1875年(明治8年) - 仮の本堂を建築した。
- 1891年(明治24年) - 濃尾地震による造営物の倒壊、破損があった。
- 1992年(平成4年) - 本堂が再建された。
境内
[編集]南大門(仁王門)
[編集]- 本堂(甚目寺観音)⑫
- 釈迦堂②
東門
[編集]- 鐘楼
- 六角堂③
- 十王堂④
- 不動堂➄
- 秋葉堂⑧
- 三重塔⑨
- 弘法堂⑩ - 西網之坊の弘法大師像(壱尺三寸弐分)[8]を祀る。
- 明王堂⑪
- 漆部神社
- 日吉社
- 白山大権現
- 弁財天
- ミニ四国八十八箇所①
塔頭
[編集]- 性徳院
- 法花院⑦
- 光明院
- 釈迦院 - 愛知県指定有形文化財の掛幅「郭公の図」「蝦蟇の図」、襖絵「夕影山の図」4面(いずれも田中訥言筆、江戸末期、1958年(昭和33年)指定)を所蔵している[9]。
- 大徳院⑥
- 元西網之坊 - 往時は東門の北に350坪の敷地があったが、今は西照寺 (愛西市)に継承されている。
お守り
[編集]①から⑫の堂の参拝捺印をすると本堂でお守りがもらえる。
文化財
[編集]重要文化財
[編集]- 南大門 - 1196年(建久7年)再建。源頼朝の命により梶原景時が奉行となり建立。仁王門ともいい、安置されている仁王(金剛力士)像は1597年(慶長2年)福島正則の寄進による[10]。明治33年指定。
- 三重塔 - 1627年(寛永4年)再建。高さ25m。吉田半十郎の寄進による[11]。昭和28年指定。
- 東門 - 1634年(寛永11年)再建[11]。昭和28年指定。
- 絹本著色不動尊像[12] - 縦158.2cm横85.4cm。平安時代。県内最古の仏教絵画。明治34年指定。
- 絹本著色仏涅槃図[13] - 縦258cm横237cm。鎌倉時代。明治34年指定。
- 木造愛染明王坐像 - 鎌倉時代作。2011年(平成23年)解体修理時に胎内から合子(ごうす)に納められた愛染明王像(木造彩色、鎌倉時代作)が発見された。[14] [15]。平成24年指定。
愛知県指定有形文化財
[編集]- 木造金剛力士(仁王)像 - 安土桃山時代作[16] [17]。昭和33年指定。
- 梵鐘 - 南北朝時代作、建武四年三月廿日(1337年)の銘がある[18]。昭和40年指定。
- 瑞花双鸞八稜鏡[19] - 平安時代。直径27.3cm厚さ0.5cm。昭和40年指定。
あま市指定史跡
[編集]- 甚目寺境内地
焼失した文化財
[編集]主な行事
[編集]- 正月初祈祷会(1月1日〜3日)
- 節分会(2月3日)
- 桃十日祭(8月)
- 甚目寺観音てづくり朝市(毎月12日)
所在地
[編集]- 愛知県あま市甚目寺東門前24番地
周辺
[編集]交通アクセス
[編集]その他
[編集]脚注
[編集]- ^ 寺伝、丹羽稿本に、推古天王6年とあるが、これは間違いだという(甚目寺町史編纂委員会 1975, pp. 406–407)。
- ^ 加藤稿本による(甚目寺町史編纂委員会 1975, p. 408)
- ^ マイタウン(MyTown)
- ^ ニッポン旅マガジン 甚目寺観音
- ^ 甚目寺誌略
- ^ この記述は加藤稿本によるが、寺伝その他はこのとき、「法皇寺」の三字の額を賜ったという(甚目寺町史編纂委員会 1975, p. 410)。
- ^ この日付には、諸説ある(甚目寺町史編纂委員会 1975, p. 410)。
- ^ 西照寺の什物明細取調書(明治21年8月)より
- ^ “田中訥言画蹟郭公の図、蝦蟇の図、襖絵夕影山の図”. 文化財ナビ愛知. 2021年9月24日閲覧。
- ^ 甚目寺南大門 愛知県
- ^ a b 甚目寺三重塔・東門 愛知県
- ^ 絹本著色不動尊像 愛知県
- ^ 絹本著色仏涅槃図愛知県
- ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』585号、第一法規、2012
- ^ 木造愛染明王坐像 愛知県
- ^ これまで寺伝により鎌倉時代の運慶作といわれていたが、2011年(平成23年)解体修復中に阿形に安土桃山時代の慶長2年(1597年)の年号と仏師2人等の氏名と共に「奉造立甚目寺仁王大檀那藤原朝臣福嶋左衛門大夫正則敬白」「寺中安全之助也」等の墨書が発見された
- ^ “木造仁王像(もくぞうにおうぞう)”. 文化財ナビ愛知. 愛知県 (2008年). 2024年2月13日閲覧。
- ^ 梵鐘 愛知県
- ^ 瑞花双鸞八稜鏡 愛知県
- ^ 重要文化財指定解除の告示は、平成13年6月22日文部科学省告示第117号。観音菩薩像の所有者名義は塔頭の成就院になっていた。
参考文献
[編集]- 甚目寺町史編纂委員会 編『甚目寺町史』愛知県海部郡甚目寺町、1975年。doi:10.11501/9569744。
- 名古屋市博物館 編『甚目寺観音展 : 仁王像修復記念 : treasures of Jimokuji-temple』仁王像修復記念「甚目寺観音展」実行委員会、2011年。国立国会図書館書誌ID:000011290190。
外部リンク
[編集]- 鳳凰山 甚目寺 公式HP
- 愛知県公式HP:文化財ナビ愛知
- ウィキメディア・コモンズには、甚目寺に関するカテゴリがあります。