恩智満一
時代 | 鎌倉時代末期-南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 延元2年6月 |
別名 | 恩地正俊、恩地左近満一 |
墓所 | 八尾市恩智中町5丁目 |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 楠木正成→楠木正行 |
氏族 | 恩智氏 |
父母 | 父:恩智満俊、母:不詳 |
子 | 嫡男:恩智満一(?) |
恩智 左近満一(おんぢ みちかず、1337年没?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した豪族。楠木正成に従い、俗に「楠公八臣」と呼ばれる武将の一人[1]。また、恩智神社の社家である恩地貞吉の子孫とされ、恩智神社の宮司でもあった。河内国高安郡恩智村(現在の大阪府八尾市)に恩智城を築城したことでも知られ、兵法書「軍用秘術聴書」や「楠兵記」などを編纂したとされている[2]。
しかし、恩智左近満一に関する古文書や研究論文が非常に少なく、楠公八臣の中でも特に実在が疑問視され、架空の人物という扱いを受けることもある[要出典]。
生涯
[編集]恩智左近満一は恩智満俊の嫡男として生まれ、父とともに楠木正成につかえていた。1334年 - 1338年に高安山のふもとに恩智城を築城した。延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)におこった湊川の戦いで楠木正成が戦死したあとは、その子、楠木正行につかえた。また、楠木正成の戦死とともに恩智城も落城した。
湊川の戦いがあった年の末、後醍醐天皇は吉野に還幸したが、この時、恩智左近満一は八尾別当賢幸ともに吉野に至り、吉野の守護にあたることとなった[1]。その後も南朝方を守っていたが、不幸にして延元2年(1337年)6月に熱病のため急死した(7月という説もある)[3][4]。
系譜
[編集]先祖
[編集]- 恩智貞吉
- 恩智満俊(父)
墓所など
[編集]大阪府八尾市恩智中町5丁目にある。恩智神社参道入口鳥居から、東高野街道を南へ進んだ東沿いに「恩智左近旧跡」の碑があり、脇の石階段を上がったところに設置されている。恩地左近満一の墓の敷地内には、八尾市指定保全樹木 指定番号20のくすのきが植えられている[5]。また、墓近くの説明文によると、「生前に自分の冥福を祈って、恩智の有志が建てた」とある。生前に自分で供養する逆修を行ったものとみられる[6]。
大正8年(1919年)に恩智左近満一は従四位を追贈された[7]。
近鉄大阪線恩智駅近くには恩智左近満一と恩智の桜(九桜)の説明板がある[8]。
脚注
[編集]- ^ a b “楠正行通信 第53 号” (PDF). 四條畷楠正行の会. 2024年3月22日閲覧。
- ^ “歌川国芳 作 「英雄六家撰 恩地左近満一」”. 刀剣ワールド/浮世絵. 2024年3月22日閲覧。
- ^ “八尾市観光データベース”. www.yaomania.jp. 2024年3月23日閲覧。
- ^ “楠正行通信 第53 号”. 四條畷楠正行の会. 2024年3月23日閲覧。
- ^ “八尾市観光データベース”. www.yaomania.jp. 2024年3月23日閲覧。
- ^ “わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/556 東高野街道/52 /大阪”. 毎日新聞. 2024年3月23日閲覧。
- ^ “『恩智神社&天川山⑫「恩地城址」』”. 山彦耀Ⅱのブログ. 2024年3月23日閲覧。
- ^ “てくてくハイク”. 山の辺の道 散策ガイド. 2024年3月23日閲覧。