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小栗久次

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小栗 久次 (おぐり ひさつぐ、天文19年(1550年) - 寛永5年2月6日1628年3月11日[1])は、戦国時代から江戸時代にかけての人物。徳川家家臣であり、終生徳川家康鷹匠として仕えた。通称は忠蔵、忠左衛門[1]。別名は正忠[1]、久政とも[2]

略歴

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三河国青野の出身で、永禄9年(1566年)より家康に仕える[1]。家康の鷹狩の際、召出され、鷹匠や鳥見役を任された。三方ヶ原の戦いでは敗走する家康に徒歩でお供し、その最中に大久保忠隣が馬を失い、久次が敵から馬を奪った際に、家康の命により忠隣にその馬を与えて助け、自らは徒歩で浜松まで辿り着き、黄金十両を賜った[1]

小牧・長久手の戦い関ヶ原の戦いにも参戦した。下総国葛飾郡千葉郡近江国伊香郡で1170石を知行し、後に相模国大住郡・下総国葛飾郡で700石を加増され、1870石を領した[1]。子孫は5代に渡り鷹匠頭を世襲した。

天正19年(1591年)には久次、安藤直次らを大将とする鷹飼衆150人がで鷹狩の訓練を行い松平家忠から反物や皿が送られている[3]何の罪かは分かっていないが慶長19年(1614年)に天海は久次の助命を嘆願し、久次は許されている。[要出典]

墓所は四谷舟町西迎寺で、小村家先祖代々となっている同墓石には子孫で金奉行を務めた小栗満辰も葬られている。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 寛政重修諸家譜』第3輯(国民図書、1923年)巻第五百十四、p.749
  2. ^ 日本歴史文庫[要ページ番号]
  3. ^ 将軍の鷹狩り

参考文献

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  • 黒川真道編『日本歴史文庫』(集文館、1911年)
  • 『大日本史料 - 第 10 巻』(1901年)
  • 根崎光男『将軍の鷹狩り』 (同成社、1999年)50p
  • 根崎光男「近世前期における幕府鷹場の存在形態」(『人間環境論集』3巻1号、2003年)