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五反田東映劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大崎館から転送)
五反田東映劇場
Gotanda Toei
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 五反田東映
本社所在地 日本の旗 日本
141-0031
東京都品川区西五反田1丁目28番2号
設立 大崎館開館 1910年代
創立開館 1938年11月
復興開館 1946年1月
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 支配人 井上孔
主要株主 東映
関係する人物 新井與四郎
小林喜三郎
五島慶太
伊藤松司
浅倉繁
戸田悦太郎
新島博
長崎元憲
関口政男
木村清美
吉田泰弘
北島巌
特記事項:略歴
1910年代 大崎館開館
1938年11月 東宝五反田映画劇場開館
1946年1月 五反田東横映画劇場開館
1951年4月1日 五反田東映劇場と改称
1977年11月 五反田TOEIシネマを併設・開館
1990年9月30日 五反田TOEIシネマ閉館
1991年 五反田東映劇場閉館
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五反田東映劇場(ごたんだとうえいげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]

正確な年代は不明であるが1910年代に東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区西五反田)に開館した大崎館(おおさきかん)が源流である[1][2][3][4][5][17]。1938年(昭和13年)6月に設立されたばかりの東横映画がこれを買収し、同年11月、同社の2館目の直営館東寶五反田映畫劇場(とうほうごたんだえいがげきじょう、新漢字表記東宝五反田映画劇場)として新装開館、東宝映画の封切館として稼働した[6][7][18]第二次世界大戦後は直ちに再建されて1946年(昭和21年)1月、五反田東横映画劇場(ごたんだとうよこえいがげきじょう)として開館する[8][9][10]。1951年(昭和26年)4月1日、合併によって東映直営館となり、五反田東映劇場と改称した[10]。1977年(昭和52年)11月には改築して五反田TOEIシネマ(ごたんだとうえいシネマ)を併設・開館したが[13][14][19]、1991年(平成3年)には閉館した[15][16][20][21]

沿革

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データ

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概要

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1925年(大正14年)前後の地図。所在地である谷在家377番地の隣地「378番地」に大崎館と記されている。

大崎館の時代

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正確な年代は不明であるが、1910年代には東京府荏原郡大崎町大字下大崎字谷在家377番地(現在の東京都品川区西五反田1丁目28番2号)に大崎館として開館した[17]。1916年(大正5年)11月14日、日応が同館において、日蓮正宗日蓮大聖会演説会を開催した記録が残っている[17]。当初の経営者は、当時浅草公園六区電気館千代田館を経営していた新井與四郎(1863年 - 没年不詳)[27][28]で、興行系統は日活であった[1]。同地は、1911年(明治44年)10月15日に開業した官設鉄道五反田駅の西側に位置し、駅との間には目黒川が流れ、山手通り(現在の東京都道317号環状六号線)沿い、大崎橋を渡った右手であった[25][26]。1920年代の同駅近辺には、同館のほか、松竹キネマ帝国キネマ演芸の作品を上映する大崎キネマ(のちの大崎松竹映画劇場、大崎町桐ヶ谷354番地、経営・飯島金蔵)、東亜キネマおよびマキノ・プロダクションの作品を上映する龜齢館(大崎町桐ヶ谷696番地、経営・杉浦重吉)の3館が存在した[1][2]池上電気鉄道(現在の東京急行電鉄池上線)が延伸し、1927年(昭和2年)10月9日には大崎広小路駅、1928年(昭和3年)6月17日には五反田駅が開業した。このころには、五反田館(のちの大崎大映劇場、谷山43番地、経営・磯崎興行部)が開館している[3][4]。同年当時の同館の観客定員数は390名、支配人は梓澤音吉、興行系統は日活でその専門館として知られていた[3][4]

1920年代後半に発行された地図には、同館の所在地である「谷在家377番地」の隣地「378番地」に「大崎館」と記されており、同地図によれば「377番地」は、角地である「378番地」よりも広い(右地図)[29]。同地図によれば、大崎キネマ(のちの大崎松竹映画劇場)は、同館の面する通りを大崎広小路を超えて南下した地点にあった[29]。1930年(昭和5年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、同館の観客定員数は520名と従来よりも130名分拡大しており、経営は小林喜三郎の小林興行部、支配人は青木寅治、興行系統は日活のままであった[4]

1932年(昭和7年)10月1日、荏原郡が東京市に編入、同館の所在する大崎町は品川区になった。『古川ロッパ昭和日記』には、1934年(昭和9年)10月17日に古川ロッパが「大崎館て小屋へアダヨ(新門の何とか)ザシで行く」との記述がある[30]。同年10月1日、同館最寄りの大崎広小路駅・五反田駅がある池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に買収され、目黒蒲田電鉄池上線となったが、その4年後には、同社の専務取締役を務める五島慶太が社長になり、1938年(昭和13年)6月8日、東横映画が設立されている[18]。東横映画の本社は、目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄と同一の渋谷区大和田町1番地に置かれた[18]。 五島慶太は、同社設立に先立つ1936年(昭和11年)11月、渋谷に東横ニュース劇場渋谷区上通り2丁目17番地)を新設[31]、同社設立年(1938年)には大崎館の位置する品川区五反田2丁目377番地を買収し、同年11月には東宝五反田映画劇場として新築・開館した[18]

自社の路線案内図に「五反田映画劇場」として紹介された東宝五反田映画劇場(右下。『東横・目蒲電車沿線案内図』1938年)。
東横映画こんな女に誰がした』(監督山本薩夫、配給大映、1949年7月4日公開)。

東横経営の時代

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五島慶太が新築・開館した東宝五反田映画劇場は、東宝映画の封切館であった。東宝映画は、同館の新開館の1年前、1937年(昭和12年)9月10日に設立された新しい映画会社であった[32]。同館が開館した1938年11月の東宝映画は、『虹に立つ丘』(監督大谷俊夫、同月3日公開)、『エノケンの大陸突進 後篇躍進また躍進の巻』(監督渡辺邦男、同日公開)、『ロッパのおとうちゃん』(監督斎藤寅次郎、同月9日公開)、『相馬の金さん』(監督稲葉蛟児、同月10日公開)、『吾亦紅 前篇』(監督阿部豊、同月20日公開)、『チョコレートと兵隊』(監督佐藤武、同月30日公開)を公開している[33]

1942年(昭和17年)には第二次世界大戦による戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、すべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同年発行の『映画年鑑 昭和十七年版』には、同館の興行系統については、紅系・白系の記載はなく「二番館」である旨の記述がある[6]。同書によれば、同館の経営は五島慶太(東横映画)であり、支配人は伊藤松司、観客定員数は481名であった[6]。大戦末期の1945年(昭和20年)5月24日、五反田地区を襲った空襲は、五反田駅の西側も東側も焼け野原にしており、同館は全焼・閉館を余儀なくされた。

空襲の爪痕深い五反田地区で、戦後間もない1946年(昭和21年)1月、五島慶太が同館を復興し、新たに五反田東横映画劇場として開館した[8][10]。東横映画は、1947年(昭和22年)9月、京都の「大映第二撮影所」を賃貸して「東横映画撮影所」と改称、映画製作を開始する。同館は、同社の直営館として、同社の製作する映画の上映を開始したが、当時の東横映画は製作と興行のみの会社であって、東京映画配給が設立されるまでは、大映が東横作品の配給業務を行った。したがって、同館では、東横と大映の両作品を公開している。1949年(昭和24年)10月1日には東京映画配給が設立され、同館の興行系統は「東映系」(東京映画配給系の略)、つまり東横と太泉映画の両作品に変更された[9]。当時の同館は、木造二階建で観客定員数は550名、支配人は戸田悦太郎であった[9]。当時の五反田駅周辺には、東京セントラル劇場(のちの五反田日活劇場、五反田2丁目367番地、経営・東京国際興行、1950年6月開館)、五反田劇場(五反田1丁目261番地、経営・簱興行、1947年7月復興・開館)と同館の3館が復興していた[8][9][10]

五反田東映劇場の時代

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1951年(昭和26年)4月1日、東横映画が合併して東映を設立、同館は五反田東映劇場と改称している[10]。「東横映画撮影所」は東映京都撮影所太泉映画スタジオ東映東京撮影所となり、同館は直営館として、同社の配給する映画を公開した[10]。1952年(昭和27年)10月には五反田名画座(五反田1丁目260番地、経営・鈴木聰子)、1954年(昭和29年)8月には五反田オリンピア映画劇場(五反田1丁目152番地、経営・東洋興業)、1955年(昭和30年)12月27日には五反田大映劇場(五反田1丁目254番地、経営・大映興行)がそれぞれ開館し、同地区の映画館は6館に増えた[10][11]

1976年(昭和51年)には、改築のため休館に入ったが、このころには五反田地区の映画館は、同館のほか五反田名画座(経営・五反田名画座、支配人・種田直二)のみになっていた[13]。1977年(昭和52年)11月、同敷地に全66戸のマンション「ハイラーク五反田」が竣工、同建物の1階に五反田東映劇場(観客定員数285名)、および五反田TOEIシネマ(観客定員数120名)を併設して開館した[13][14][19]アメリカ映画を中心とした洋画の名画座として機能した五反田TOEIシネマは、1980年代には無料のプログラム誌『しねまっぷ』を発行した[34]。いっぽう、成人映画館になっていた五反田名画座は、1989年(平成元年)6月26日に閉館し、五反田地区には五反田東映劇場・五反田TOEIシネマの2館だけになってしまった[15][16]

1990年(平成2年)9月30日に五反田TOEIシネマが[20]、次いで1991年(平成3年)には五反田東映劇場がそれぞれ閉館した[15][16][21]。同2館の退去後、2013年(平成25年)7月時点のGoogle ストリートビューによれば「金の蔵Jr 五反田西口」が入居していたが[23][22][25]、2019年(令和元年)6月現在は「TGIフライデーズ五反田店」[24]となっている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 年鑑[1925], p.464.
  2. ^ a b c d e f g 総覧[1927], p.653.
  3. ^ a b c d e f g h 総覧[1929], p.251.
  4. ^ a b c d e f g h i 総覧[1930], p.556.
  5. ^ a b c 昭和7年の映画館 東京府下 146館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2014年3月19日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h 年鑑[1942], p.10-37.
  7. ^ a b c d e 年鑑[1943], p.450-451.
  8. ^ a b c d e f g h 年鑑[1950], p.100.
  9. ^ a b c d e f g h i j 年鑑[1951], p.328.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 総覧[1955], p.8-9.
  11. ^ a b c d e f 便覧[1961], p.13.
  12. ^ a b c d e 便覧[1967], p.11.
  13. ^ a b c d e f g h 名簿[1977], p.40.
  14. ^ a b c d e f g h i 名簿[1978], p.40.
  15. ^ a b c d e f g h i j k 名簿[1990], p.30.
  16. ^ a b c d e f g 名簿[1991], p.30.
  17. ^ a b c d 日蓮宗[1981], p.219.
  18. ^ a b c d e f 年鑑[1942], p.9-94.
  19. ^ a b c d ハイラーク五反田SUUMO物件ライブラリーリクルート、2014年3月19日閲覧。
  20. ^ a b c キネ旬[1990], p.2004.
  21. ^ a b c 年鑑[1993], p.97.
  22. ^ a b “五反田に「284円」均一の居酒屋『金の蔵 Jr.』 - 品川圏で3店舗目”. 品川経済新聞 (みんなの経済新聞ネットワーク). (2009年12月10日). http://shinagawa.keizai.biz/headline/828/ 2015年12月5日閲覧。 
  23. ^ a b 沿革”. 会社案内. 三光マーケティングフーズ. 2015年12月5日閲覧。
  24. ^ a b c 五反田店”. 店舗情報. ティージーアイ・フライデーズ. 2019年6月10日閲覧。
  25. ^ a b c 東京都品川区西五反田1丁目28番2号Google ストリートビュー、2013年7月撮影、2014年3月19日閲覧。
  26. ^ a b 五反田東横劇場/五反田東映劇場Goo地図、1947年・1963年撮影、2014年3月19日閲覧。
  27. ^ 東京府[1916], p.390.
  28. ^ 古林[1987], p.86.
  29. ^ a b File:Gotanda Osaki-Hirokoji 1925.jpg、2014年3月19日閲覧。
  30. ^ 『古川ロッパ昭和日記』:新字旧仮名 - 青空文庫、2014年3月19日閲覧。
  31. ^ 宮益坂に開館した「東横ニュース劇場」”. 渋谷フォトミュージアム. 東急. 2014年3月19日閲覧。
  32. ^ 東京地判 平成20(ワ)6849 損害賠償請求事件 著作権 民事訴訟 (PDF)最高裁判所、2022年5月20日閲覧。
  33. ^ 1938年 公開作品一覧 549作品日本映画データベース、2014年3月19日閲覧。
  34. ^ しねまっぷ 1980年2月 - 同年4月、五反田TOEIシネマ、1980年2月、2014年3月19日閲覧。

参考文献

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  • 『通俗教育に関する調査』、東京府教育会、久保秀三、1916年
  • 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局東京朝日新聞発行所、1925年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 1950』、時事通信社、1950年発行
  • 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
  • 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
  • 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事通信社、1961年発行
  • 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事通信社、1967年発行
  • 『映画年鑑 1977 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1977年発行
  • 『近代日蓮宗年表』、近代日蓮宗年表編集委員会・日蓮宗現代宗教研究所同朋舎、1981年1月 ISBN 481040241X
  • 『明治人名辞典 下巻』、古林亀治郎、日本図書センター、1987年 ISBN 4820517651
  • 『映画年鑑 1990 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1990年発行
  • キネマ旬報』8月下旬号(第1040号)、キネマ旬報社、1990年8月15日発行
  • 『映画年鑑 1991 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1991年発行
  • 『映画年鑑 1993』、時事映画通信社、1993年発行

関連項目

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外部リンク

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画像外部リンク
目黒川と五反田東映劇場
1960年代撮影
しねまっぷ No.15
1981年2月14日発行