塩田卓爾
しおた たくじ 盬田 卓爾 | |
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生誕 |
1912年5月26日![]() |
死没 | 1996年4月17日(83歳没) |
国籍 |
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出身校 | 東京帝国大学経済学部 |
職業 | 実業家 |
肩書き | 九州耐火煉瓦社長・会長 |
塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体:盬田、1912年(明治45年)5月26日[1][2] - 1996年(平成8年)4月17日[3] )は、日本の実業家である。九州耐火煉瓦(現:黒崎播磨)の代表取締役・会長を務めた後、同社の相談役となった。岡山県高梁市出身。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1912年(明治45年)、現在の岡山県高梁市にて出生。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、日本酒メーカーである三光正宗社長・会長になる宮田龍介がいる。1931年(昭和6年)同校を卒業し、第六高等学校文科甲類へ進学する[4]。その後、1936年(昭和11年)2度の留年を経て東京帝国大学経済学部へ進学する[5]。1939年(昭和14年)3月、同大学を26歳で卒業する[6]。
東大卒業後
[編集]大学卒業後、大蔵省へ入省し官僚となり、埼玉県川越市に居住するが、1949年(昭和24年)5月31日に公職追放となる[7][8]。そのため、塩田は岡山県へ帰郷し、備前市に本社を置く九州耐火煉瓦工業(会社の創業地は現在の福岡県北九州市)の門山工場へ再就職する[9]。その後、同社の総務部長となり[10][11]、1964年(昭和39年)52歳のときに取締役兼総務部長となった[12]。
1967年(昭和42年)には、55歳で九州耐火煉瓦の常務取締役となる[13]。1971年(昭和46年)59歳のとき同社専務となり、社長の長崎勧が1977年(昭和52年)に同社の会長となったことを受けて、塩田が65歳のとき九州耐火煉瓦の社長に就任する[14]。1982年(昭和57年)、窯業(セラミック)協会の副会長となる[15]。1985年(昭和60年)73歳のとき、同社の会長職に就任した[16]。
1996年(平成8年)4月17日、83歳で死去[3]。
脚注
[編集]- ^ 『中国年鑑 昭和57年版 別冊』中国新聞社、1981年、[要ページ番号]
- ^ 『東洋会社年鑑 1981年版』東洋経済日報社、1981年1月、[要ページ番号]
- ^ a b 日外アソシエーツ現代人物情報[要文献特定詳細情報]
- ^ 第六高等学校 編『第六高等学校一覧 昭和6年至昭和7年』第六高等学校、1931年、144頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 東京帝国大学 編『東京帝国大学一覧 昭和11年度』東京帝国大学、1936年、513頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1939年、525頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 官報 1949年07月02日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真, 1949年
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、576頁 。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 山陽新聞社 編『山陽年鑑 昭和31年版』山陽新聞社、1955年、[要ページ番号]
- ^ 日本経済新聞社 編『会社年鑑 1960年版』日本経済新聞社、1959年、[要ページ番号]
- ^ 『産経会社年鑑〔第4版 第1〕』産業経済新聞社年鑑局、1963年、[要ページ番号]
- ^ 『東洋経済会社人事録 1964年版』東洋経済新報社、1964年、[要ページ番号]
- ^ 交詢社 編『日本紳士録 第57版』別冊附録 交詢社、1967年、[要ページ番号]
- ^ 『セラミックス = Ceramics Japan : bulletin of the Ceramic Society of Japan』第12巻9号、窯業協会, 1977年9月、[要ページ番号]
- ^ 『セラミックス = Ceramics Japan : bulletin of the Ceramic Society of Japan』第17巻9号、窯業協会、1982年9月、[要ページ番号]
- ^ 『会社年鑑 1986年版』日本経済新聞社、1985年10月、[要ページ番号]