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千代丸亮彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千代丸祥士から転送)
千代丸 亮彦
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県北九州市小倉南区
生年月日 (1970-12-25) 1970年12月25日(53歳)
身長
体重
183 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1988年 ドラフト6位
初出場 NPB / 1991年5月20日
CPBL / 1995年7月16日
最終出場 NPB / 1997年7月30日
CPBL / 1995年8月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
派遣歴
コーチ歴

千代丸 亮彦(ちよまる あきひこ、1970年12月25日 - )は、福岡県北九州市出身の元プロ野球選手内野手)。1996年から1997年までの登録名千代丸 祥士(ちよまる しょうし)。

来歴・人物

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常磐高では1年秋に九州大会初戦で先発したが途中降板して敗退、3年春は北部県大会で優勝して九州大会へ進むが初戦で延長10回を完投したがサヨナラ負け。5月の高校NHK杯でノーヒットノーランを達成。夏の県大会は準々決勝で9回裏に二死満塁で登板すると初球で暴投によるサヨナラ負けを喫した。

1988年のプロ野球ドラフト会議広島東洋カープから6位指名を受け入団。同期のドラフト5位には江藤智がいる[1]

1年目の春季キャンプでは打力を見込まれ打者に転向し、プロ3年目の1991年に一軍初出場を果たし、1993年にはウエスタンで13本塁打を記録し、本塁打王を獲得する[1][2]。しかし、一軍では無安打に終わる。1994年に就任した三村敏之監督が俊足・強肩の選手を好んだことから、走力・肩の力とも難のあった千代丸は出場機会を得られず、打撃の確実性を求めて変化球打ちに取り組んだものの、やがて速球も打てなくなったという[1]

1995年シーズン途中からシーズン終了までは技術交流契約を結んでいた台湾時報イーグルスに派遣されたが12試合出場・19打数4安打の打率.211にとどまっている。

1996年から再び広島に復帰するが、一軍で安打を放てないまま1997年限りで現役を引退。戦力外通告を受けてから4球団のテストを受けたが、最後はヤクルトスワローズ野村克也監督から不合格を告げられ、引退を決意した[1]

引退後は、地元福岡に本拠地を置く社会人野球沖データコンピュータ教育学院でコーチを務めた。2021年12月時点では福岡県北九州市小倉南区に在住し、会社員として生活している[1]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1991 広島 6 6 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
1995 2 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
時報 12 22 19 3 4 0 0 0 4 2 0 0 1 0 2 0 0 8 0 .211 .286 .211 .497
1996 広島 4 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1997 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
NPB:4年 14 16 16 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 8 0 .000 .000 .000 .000
CPBL:1年 12 22 19 3 4 0 0 0 4 2 0 0 1 0 2 0 0 8 0 .211 .286 .211 .497

記録

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NPB

背番号

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  • 54 (1989年 - 1996年)
  • 35 (1997年)

登録名

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  • 千代丸 亮彦(ちよまる あきひこ、1989年 - 1995年)
  • 千代丸 祥士(ちよまる しょうし、1996年 - 1997年)

脚注

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  1. ^ a b c d e 中国新聞』2021年12月4日朝刊21頁「カープOB探訪 栄光の陰で <2> 千代丸亮彦さん(50) 大砲江藤の同期 「理不尽な練習こなす心・体なかった」」(中国新聞社
  2. ^ ベースボール・レコード・ブック〈1994〉

関連項目

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外部リンク

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