加賀国
加賀国 | |
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■-加賀国 ■-北陸道 | |
別称 | 加州(かしゅう) |
所属 | 北陸道 |
相当領域 | 石川県南部 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 中国 |
郡・郷数 | 4郡30郷 |
国内主要施設 | |
加賀国府 | 石川県小松市 |
加賀国分寺 | (推定)石川県小松市 |
加賀国分尼寺 | (未詳) |
一宮 | 白山比咩神社(石川県白山市) |
加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
沿革
[編集]越国が689年-692年(持統天皇3-6年)越前国、越中国、越後国の三国に分立し、718年5月2日に養老律令制定により能登国が越前国から分離。嵯峨天皇の御代(823年3月1日)に越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された[1]。
同823年6月4日に、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれ[1]、大海川は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。
大化の改新の頃までは加賀郡は賀我、加宜、香我、賀加とも言われたとされる [2]。
加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった[3]。
中世には熊坂荘などの荘園が置かれていたが、戦国時代初頭に一向一揆が守護富樫氏を滅ぼして以後100年近くにわたって一揆による支配が続く(加賀一向一揆)。
江戸時代には、加賀藩(金沢藩)、大聖寺藩(加賀藩支藩)、大聖寺新田藩(大聖寺藩支藩) が置かれた。
近代以降の沿革
[編集]- 「旧高旧領取調帳データベース」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り[注釈 1](784村・483,743石5斗)。太字は当該郡内に藩庁が所在。
- 明治2年6月17日(1869年7月25日) - 版籍奉還により加賀藩(通称)の正式名称が金沢藩となる。
- 明治3年12月22日(1871年2月11日) - 幕府領が本保県の管轄となる。
- 明治4年
- 明治5年
領域
[編集]明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
国内の施設
[編集]国府
[編集]国府は能美郡にあった。現在の石川県小松市古府町にあったと考えられている。
易林本の『節用集』では、「加賀郡に府」と記載がある。
国分寺・国分尼寺
[編集]国分僧寺は、承和8年(841年)、既にあった「勝興寺」(現 小松市)を国分寺に転用して設けられた。
尼寺は伝わっていない。
神社
[編集]地域
[編集]郡
[編集]人物
[編集]国司
[編集]加賀守
[編集]- 紀末成[1] - 823年(弘仁14年)12月 見
- 藤原良房 - 830年(天長7年)閏12月 任
- 藤原長良 - 834年(承和元年)正月 任
- 源明 - 838年(承和5年)正月 任
- 源寛 - 839年(承和6年)正月 任
- 源寛 - 842年(承和9年)9月 再任
- 源生 - 843年(承和10年)正月 任
- 藤原助 - 845年(承和12年)正月 任
- 藤原並藤 - 847年(承和14年)正月 任
- 正行王 - 850年(嘉祥3年)3月 見
- 藤原衛 - 851年(仁寿元年)10月 任
- 藤原衛 - 855年(斉衡2年)正月 再任 - 857年(天安元年)11月 卒
- 藤原仲統 - 857年(天安元年)12月 任 - 858年(天安2年)11月 罷
- 源啓 - 859年(貞観元年)正月 任
- 清原長田 - 860年(貞観2年)正月 任
- 藤原本雄 - 862年(貞観4年)2月 任
- 源能有 - 866年(貞観8年)正月 任 - 869年(貞観11年)2月 罷
- 藤原有実 - 869年(貞観11年)3月 任
- 朝野真吉 - 870年(貞観12年)正月 任
- 茂世王 - 874年(貞観16年)正月 見
- 多治藤善 - 880年(元慶4年)12月 見
- 大春日安永 - 886年(仁和2年)正月 任
- 平篤行 - 908年(延喜8年)正月 任 - 908年(延喜8年)2月 転
- 源頼房
- 藤原師高 - 1175年(安元元年)任官。
加賀介
[編集]守護
[編集]鎌倉幕府
[編集]室町幕府
[編集]- 1336年~1337年 - 富樫高家?
- 1355年~1357年 - 富樫氏春
- 1364年~1387年 - 富樫昌家
- 1387年~1390年 - 斯波義種
- 1391年~? - 斯波義重
- 1393年~1408年 - 斯波義種
- 1408年~1414年 - 斯波満種
- 1414年~1418年 - 富樫満成
- 1414年~1427年 - 富樫満春
- 1430年~1433年 - 富樫持春
- 1433年~1441年 - 富樫教家
- 1441年~1464年 - 富樫泰高
- 1447年~1458年 - 富樫成春
- 1458年~1466年 - 赤松政則
- 1464年~1488年 - 富樫政親
- 1489年~1531年 - 富樫稙泰
武家官位としての加賀守
[編集]- 前田綱紀 - 加賀加賀藩第5代藩主。
- 前田宗辰 - 加賀加賀藩第7代藩主。
- 前田重煕 - 加賀加賀藩第8代藩主。
- 前田重靖 - 加賀加賀藩第9代藩主。
- 前田重教 - 加賀加賀藩第10代藩主。
- 前田治脩 - 加賀加賀藩第11代藩主。
- 前田斉広 - 加賀加賀藩第12代藩主。
- 前田斉泰 - 加賀加賀藩第13代藩主。
- 前田慶寧 - 加賀加賀藩第14代藩主。
- 大久保忠朝 - 相模小田原藩初代(復帰後)藩主。老中。
- 大久保忠増 - 相模小田原藩第2代(復帰後)藩主。老中。
- 大久保忠方 - 相模小田原藩第3代(復帰後)藩主。
- 大久保忠由 - 相模小田原藩第5代(復帰後)藩主。
- 大久保忠顕 - 相模小田原藩第6代(復帰後)藩主。
- 大久保忠真 - 相模小田原藩第7代(復帰後)藩主。老中。
- 大久保忠愨 - 相模小田原藩第8代(復帰後)藩主。
- 大久保忠礼 - 相模小田原藩第9代(復帰後)藩主。
- 大久保忠良 - 相模小田原藩第10代(復帰後)藩主。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『ふるさと石川歴史館』(2002年6月10日、北國新聞社発行)524頁。
- ^ 「加賀国」国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第3巻 (か)』吉川弘文館、1983年2月。ISBN 4-642-00503-X。
- ^ 林陸朗「加賀立国の史的背景」、國學院大學文学部史学科編『坂本太郎博士頌寿記念日本史学論集』上巻、吉川弘文館、1983年、ISBN 4-642-01-019-X。
- ^ 石川県史. 第4編p16-17 近代デジタルライブラリー
参考文献
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編纂)『角川日本地名大辞典 17 (石川県)』角川書店、1981年7月。全国書誌番号:81033009、NCID BN00734098。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 8から9世紀の石川県関連年表、石川県埋蔵文化財センター