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三宅康徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三宅康徳
時代 江戸時代中期
生誕 天和3年10月24日1683年12月12日
死没 宝暦3年12月1日1753年12月25日
改名 勝之助(幼名)、康徳
別名 襖右衛門(通称)、康利(別名)
戒名 泰巌院殿源恭良性大居士
墓所 愛知県田原市北番場の霊巌寺
官位 従五位下能登守備後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
三河田原藩
氏族 三宅氏
父母 父:三宅康雄、母:松平近陳娘・梅休院
兄弟 襖右衛門、康徳松平近貞、於万
正室:加藤明英次女・清澄院
側室:野村氏娘・華香院
於彦、康高松平貞高、徳三郎、於岩、千吉、於甚、徳久、於捨、於重、直蔵、於民
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三宅 康徳(みやけ やすのり)は、江戸時代中期の大名三河国田原藩3代藩主。田原藩三宅家6代。官位従五位下能登守備後守

生涯

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天和3年(1683年)10月24日、2代藩主・三宅康雄の次男として誕生した。長兄の襖右衛門が早世したため、世子に指名された。元禄10年(1697年)12月18日、従五位下・能登守に叙位・任官する。元禄12年(1699年)に元服する。享保11年(1726年)、父の死去により家督を継いだ。

目安箱を設置するなどしたが、江戸城門番などの公役を始め、娘の結婚費用、享保17年(1732年)の暴風雨などによる被害で藩財政が次第に苦しくなった。このため寛保元年(1741年)11月に倹約令を出し、寛保2年(1742年)に上米を行うなどしている。

延享2年(1745年)8月8日、長男の康高に家督を譲って隠居する。宝暦3年(1753年)12月1日、田原で死去した(江戸幕府の死亡届では12月3日である)。享年71。

系譜

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父母

正室

側室

  • 華香院 ー 野村氏

子女