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一色詮範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一色 詮範
時代 南北朝時代
生誕 興国元年/暦応3年(1340年)?
死没 応永13年6月7日1406年6月22日
改名 詮範→信将(法名)
戒名 長慶寺大勇信将
官位 兵部少輔左京大夫右馬頭
幕府 室町幕府 四職侍所頭人若狭国三河国守護尾張国知多郡海東郡守護
氏族 一色氏
父母 父:一色範光、母:小笠原氏[1]
兄弟 詮範詮光
不明
満範土屋範貞
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一色 詮範(いっしき あきのり)は、南北朝時代武将守護大名一色氏6代当主。

生涯

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興国元年/暦応3年(1340年)頃の生まれとされる。父は一色範光[2]元服時には室町幕府2代将軍足利義詮より偏諱を受けている。

永徳元年/弘和元年(1381年)、幕府の侍所頭人に任じられ、3年間同職を務める。嘉慶元年/元中4年(1387年)に詮範が佐渡国守護を務めたことを示す文書[3]が存在する[4]。嘉慶2年/元中5年(1388年)、父・範光の死により家督を継ぎ、若狭国三河国の守護に補任される[2]

明徳2年/元中9年(1391年)、山名氏清満幸が幕府に対して挙兵した明徳の乱で幕府方に与して武功を挙げ、悲願であった若狭国今富名(小浜を中心とした守護領の中核部分であったが、山名氏に奪われていた)を与えられた。また、同年5月までに尾張国知多郡(智多郡)・応永元年(1394年)10月までに同国海東郡の守護職を得た[2]。翌年には子の満範丹後国の守護に補任された。

応永2年(1395年)、3代将軍足利義満の出家に伴い剃髪し、信将(しんしょう)と号した。応永6年(1399年)に大内義弘が挙兵した応永の乱でも幕府方に属して武功を挙げた。同年8月、若狭守護代の小笠原明鎮逃散の発生を理由に今富名代官から解任した。ただし、明鎮は若狭・三河守護代は解任されていない。小笠原氏との対立は子の満範の代になって頂点に達する。また、応永11年(1404年)の初頭から数か月間若狭守護が弟の詮光と交替しているとする指摘[注釈 1]もあり、詮範の健康問題や小笠原氏との対立が関連するとする推測もあるが、この件に関する史料が少なく不明である[5]

応永13年(1406年)6月7日、死去。

脚注

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注釈

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  1. ^ 応永11年作成と判断されている「年欠3月30日太良荘公文弁祐書状」(『若狭国太良荘史料集成』4巻273号)に登場する守護の「うまのかみ」に関して、従来の通説とされた息子の満範は応永8年に右馬頭から修理大夫に昇進しているために当該文書の「うまのかみ」には該当しないとする指摘が出され、満範の後に右馬権頭に就任したとみられる詮光が該当の守護にあたるというものである(河村、2016年、P26-28)。

出典

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  1. ^ 小笠原明鎮の一族と推定(河村昭一「小笠原長房の出自」『南北朝・室町期一色氏の権力構造』(戎光祥出版、2016年)P208-209)
  2. ^ a b c 小浜市史編纂委員会 1992, p. 548.
  3. ^ 館山市立博物館所蔵旧坂本武雄氏所蔵文書、『南北朝遺文』関東編4379号
  4. ^ 田中聡「南北朝・室町期における佐渡守護と本間氏」(『新潟史学』66号、2011年)
  5. ^ 河村昭一「一色氏の分国・分郡における守護・〈郡主〉在職期間」『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版、2016年。

参考文献

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外部リンク

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