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ヴォルィーニ州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴォルイニ州から転送)
ヴォルィーニ州
Волинська область
ヴォルィーニ州の旗ヴォルィーニ州の印
州旗州章
ヴォルィーニ州の位置
ウクライナ
州庁所在地ルーツィク
面積
 - 総計
 - 陸地
 - 水域
全ウクライナ第20位
20,144 km²
? km²
? km² (?%)
人口2006年
 - 総計
 - 人口密度
全ウクライナ第?位
1,036,891
66.9人/km²
地区16
領域共同体x,xxx
市町村総数
 - うち市の数
 - うち町の数
 - うち村の数

11
22
1,053
州知事ユーリイ・ポグリャイコウクライナ語版
ISO 3166-2:UAUA-07 
電話番号コード+380-33 
公式サイト合同庁

ヴォルィーニ州(ヴォルィーニしゅう、ウクライナ語: Волинська область ヴォルィーンスィカ・オーブラスチ)は、ウクライナ北西の州都ルーツィク。州内の西端の町コーヴェリは、キエフワルシャワ間の鉄道が最後に停車するウクライナ国内のがある。

西はポーランド、北はベラルーシと国境を接する。

母語話者(ヴォルィーニ州) 2001
ウクライナ語
  
97.3%
ロシア語
  
2.5%

歴史

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ヴォルィーニは、中世キエフ・ルーシの一部であった。のちキエフ・ルーシが衰退すると、ルーシの後継国家であるハールィチ・ヴォルィーニ大公国が一帯を支配した。1400年代、一帯は近接するリトアニア大公国の支配を受け、1569年にはポーランド王国1795年から第一次世界大戦までロシア帝国の支配下にあった。帝政ロシア時代、ヴォルィーニは地方行政区画ヴォルィーニ県グベールニヤ)の一部であった。ウクライナ内戦時代には、ヴォルィーニのほとんどはポーランド第二共和制のヴォリンスキエ県ポーランド語版に組み込まれていた。

1939年独ソ不可侵条約のためにポーランドはナチス・ドイツソビエト連邦に侵略され、分割された。ヴォルィーニは1939年12月4日ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合され、州が編成された。

多くのウクライナ人たちはウクライナ共和国への併合を歓迎したが、少数派となったポーランド人や反ソ連派のウクライナ人は過酷な運命に見舞われた。数千のポーランド人、特にポーランド退役軍人、インテリゲンチャシベリアなどソ連の遠隔地へと追放された。これらの追放者たちは高い確率で、極限状態の労働キャンプで死に追いやられ、ほとんどがヴォルィーニへ戻ることが叶わなかった。

1941年バルバロッサ作戦によりヴォルィーニにナチス・ドイツが侵攻した。一部の地元内通者の支援を受け、ナチスは1942年終わりにはヴォルィーニ在住ユダヤ人ホロコーストを完成させた。

ヴォルィーニでのパルチザン活動は、ドイツ占領後間もない1941年に始まった。パルチザンは対ドイツ作戦に加わり、その能力の高さと破壊行為で知られるようになった。ヴォルィーニ地域は数カ所のネットワーク基盤がつくられ、地元住民の多くがパルチザンに加わった。地元に住むポーランド人らは国内軍に参加し、しばしばパルチザンと共同で作戦を遂行した。

蜂起軍に虐殺されたポーランド人の慰霊碑

反独・反ソ・反ポーランドのウクライナ独立を標榜するウクライナ蜂起軍は1942年に活動を始め、ウクライナ他地域へも活動を広げた。蜂起軍はドイツ軍、ポーランド国内軍と戦い、第二次世界大戦後はソ連軍と何年も戦った。蜂起軍の中にはヴォルィーニに住むポーランド人への民族浄化ポーランド語版に深く関わり、ポーランド人住民の大半にあたる30,000人から60,000人にものぼるポーランド人が犠牲となった(ポーランド側の資料は概して犠牲者数が多い。正確な死者数は不明である)。ポーランド人のパルチザンも蜂起軍の民族浄化に報復し、およそ15,000人といわれるウクライナ人を殺害した。

1944年1月、ソ連軍がナチスからヴォルィーニを奪取した。第二次世界大戦終結後すぐ、ポーランド=ソ連国境はカーゾン線をもとに塗り替えられた。ヴォルィーニは近隣の県とともにウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部となった。ヴォルィーニ東部に残っていたポーランド人の多くが、戦後ポーランドが新たに獲得したかつての旧ドイツ東部領土へ移された(旧ドイツ東部領土で暮らしていたドイツ人たちは既に追放されていた)。ホールム(現在はポーランドの都市ヘウム)周辺で暮らしていたウクライナ人たちは、ホールムがポーランド領となるにあたり、ウクライナへの移動を許された。なお、UPAの活動に関連し、ヴィスワ作戦により多くのウクライナ人はポーランドより追放された。

戦後、一帯は急速な工業化を経験した。それにもかかわらず、かつての旧ソビエト連邦内でも最も開発の遅れた地域の一つのままであった。近年も、投資の欠如やインフラストラクチャーの衰退のためにウクライナ最貧地域となっている。また、ヴォルィーニの一部地域は、チェルノブイリ原子力発電所事故で深刻な汚染を受けた。

都市

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  1. ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーВолодимир-Волинський
  2. ウスティルーフУстилуг
  3. カーミニ・カシールシキーКамінь-Каширський
  4. キーヴェルツィКіверці
  5. コーヴェリКовель
  6. ノヴォヴォルィーンシクНововолинськ
  7. ベレステーチコБерестечко
  8. ホローヒウГорохів
  9. リュボームリЛюбомль
  10. ルーツィクЛуцьк
  11. ロジーシチェРожище

人口

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2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。

  • 総人口1,060,700人[1]
  • 都市人口533,200人(50%);農村人口:527,500人(50%)[2]
  • 性別人口:男性500,100人(47%);女性560,600人(53%)[3]
民族構成[4]
ウクライナ人
  
1,025,000人 (96.9%)
ロシア人
  
25,100人 (2.1%)
ベラルーシ人
  
3,200人 (0.3%)

脚注

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  1. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  2. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  3. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  4. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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