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ヴァルティスラフ7世 (ポメラニア公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァルティスラフ7世
Wartislaw VII.
ポメラニア公
ヴァルティスラフ7世と妃マリア
在位 1377年 - 1394/5年

出生 1363/5年
死去 1394/5年
配偶者 マリア・フォン・メクレンブルク
子女 ボギスラフ
カタリーナ
家名 グリフ家
父親 ポメラニア公ボギスラフ5世
母親 アーデルハイト・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン
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ヴァルティスラフ7世(ヴァルティスラフ7せい、ドイツ語:Wartislaw VII., 1363/5年 - 1394/5年[1]またはヴァルチスワフ7世ポーランド語:Warcisław VII)は、ポメラニア=スウプスク(シュトルプ)公(在位:1377年 - 1394/5年)。全名はハインリヒ・ヴァルティスラフ(ヘンリク・ヴァルチスワフ)である[2]

生涯

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ヴァルティスラフ7世はボギスラフ5世の息子で、カシミール4世およびボギスラフ8世の兄弟である。メクレンブルク公ハインリヒ3世の娘マリアと結婚し、ボギスラフ(後のデンマーク王エーリク7世)およびカタリーナが生まれた。

1377年、ヴァルティスラフはポメラニア=スウプスク公として、弟ボギスラフ8世とともに共同統治者となった。ヴァルティスラフはドイツ騎士団ポーランド王国という2つの地方勢力の間をうまく立ち回った。1386年、ヴァルティスラフはドイツ騎士団と同盟を結んだ。しかし1390年に、ピズドリ条約によりポーランドと同盟を結び、ポーランド王ヴワディスワフ・ヤギェウォに臣従を誓った。その見返りに、ヴァルティスラフはポーランド王からナクウォを受け取った。

1392年から1393年にかけて、ヴァルティスラフは聖地に向け巡礼を行った[1]。いくつかの資料によると、巡礼は1391年にすでに始めていたが、1392年7月にボアディングボーに滞在したとみられる[3]。1392年8月1日、ヴァルティスラフ7世、弟ボギスラフ8世およびカンミン司教区の聖職者数名は、ブランデンブルクのランツベルク・アン・デア・ヴァルテ(現在のゴジュフ)においてレブス司教ヨハンおよびゲルリッツ公ヨハンと面会した。ボギスラフ8世はポメラニアに戻り、ヴァルティスラフ7世はポメラニア公ヴァルティスラフ8世と会うために南へ向かった。その後、2人のヴァルティスラフはハンガリーに向かった。ベオグラード(当時はハンガリーの一部、現在はセルビアの一部)の南東にある町スメデレヴォ[注釈 1]においてヴァルティスラフ7世が病気になったため、ヴァルティスラフ7世は1393年にポメラニアに戻り、ヴァルティスラフ8世は単独で巡礼を続けた[5]

ヴァルティスラフ7世の不在の間に、ポメラニアの貴族マツケ・フォン・ボルケ・アウフ・シュトラメールがポメラニア=シュトルプで強盗を率いていたが、そこで1392年後半にボヘミア人のドイツ騎士団隊長(Komtur)ヨハン・フォン・ミュールハイムがドイツ騎士団領に向かう途中で強盗に遭った。ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ヴァレンローデは、ヴァルティスラフ7世とボギスラフ8世の宮廷で抗議を行い、賠償を要求した。ヴァルティスラフ7世とボギスラフ8世はその後、マツケの居所シュトラメールを破壊する許可をヴァレンローデに与え、最終的に取り壊された[6]

ヴァルティスラフ7世は1394年11月から1395年2月23日までの間に死去した[1]

注釈

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  1. ^ SemengrinまたはSenderowとも。一次資料においてはZeuderin, Zenderin, Zuderin, Zanderini, Senendria, Senderinとも綴られている[4]

脚注

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  1. ^ a b c Zdrenka 1995, pp. 10–11.
  2. ^ Story by Anja Klemp Vilgaard · Illustrations by Darya Malikova · Edited by Shawna Kenney (April 20, 2020). “The King Who Became a Pirate”. narratively.com. 2023年1月3日閲覧。
  3. ^ Zdrenka 1995, p. 10.
  4. ^ Zdrenka 1995, p. 12.
  5. ^ Zdrenka 1995, pp. 11–13.
  6. ^ Branig & Buchholz 1997, p. 30.

参考文献

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  • Zdrenka, Joachim (1995). “Die Pilgerfahrten der pommerschen Herzöge ins Heilige Land in den Jahren 1392/1393 und 1406/1407”. Baltische Studien (Marburg: Elwert) 81 (127). 
  • Branig, Hans; Buchholz, Werner (1997). Werner Buchholz. ed. Geschichte Pommerns, Volume I, Vom Werden des neuzeitlichen Staates bis zum Verlust der staatlichen Selbständigkeit, 1300-1648. Böhlau. pp. 29–30. ISBN 3-412-07189-7 
  • Bardach, Juliusz (1964). Historia państwa i prawa Polski, Volume 1. Państwowe Wydawn. Naukowe. p. 589 
  • Czapliński, Władysław; Ładogórski, Tadeusz (1970). Atlas historyczny polski. Państwowe Przedsiębiorstwo Wydawnictw Kartograficznych. p. 12 
  • Urban, William; Jones, Terry (2006). Medieval mercenaries: the business of war. MBI Publishing Company. p. 206. ISBN 1-85367-697-7 
先代
カシミール4世
ポメラニア=スウプスク公
1377年 - 1394/5年
次代
ボギスラフ8世