ヴァシリー・ペロフ
ヴァシリー・ペロフ | |
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自画像 | |
生誕 |
1834年1月2日 ロシア帝国、トボリスク |
死没 |
1882年6月10日 (48歳没) ロシア帝国、モスクワ |
教育 | モスクワ絵画彫刻建築学校 |
ヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ(露: Васи́лий Григо́рьевич Перо́в, 英: Vasilii Grigor'evich Perov、1834年1月2日〈ユリウス暦1833年12月21日〉 - 1882年6月10日〈ユリウス暦1833年5月29日〉)は、ロシアの画家[1]。ロシア写実主義運動の中心人物の一人であり、移動展覧会協会の創設メンバーである。
「ヴァシーリー」は「ワシーリー」[2]、「ペロフ」は「ペローフ」[1]とも表記される。
経歴
[編集]ロシア帝国のトボリスクで、検察官の父親の非嫡出子として誕生した[3]。両親はヴァシーリーの出生後すぐに結婚したが、父親の姓と男爵の称号を継承する法的根拠がなかったため、出生時の名は名づけ親の姓を取ってヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・ヴァシリエフとなった。彼にカリグラフィーを教えた教師は、その卓越した腕前から彼に「筆」«перо» にあやかったペロフというニックネームを授け[3]、彼は後にこれを正式に姓とした。
1846年から1849年にかけて、アルザマスにあるアレクサンダルストウピン美術学校に通った。1853年に名門モスクワ絵画彫刻建築学校に入学、主にセルゲイ・ザルヤンコのもとで学ぶ。1856年、帝国美術アカデミーで発表したスケッチで小銀勲章を受賞した。
1861年に絵画「村の説教」で大金勲章を受賞、海外旅行の給費金を受け取った。1862年にエレーナと結婚した。同年に西欧諸国へと旅発ち、ドイツのベルリン、ドレスデン、デュッセルドルフといった数々の都市を訪問、その後、フランスのパリに向かった。この旅行中、彼はヨーロッパの街の生活場面等をたくさん描いた。1864年の秋にモスクワに戻り、妻の叔父の家に住んだ。1866年、アカデミー会員の称号を受け、1871年にモスクワ美術学校の教授になった。同時期に移動派に参加した。
1882年、結核によって亡くなり、亡骸はモスクワにあるドンスコイ墓地に埋葬された。
主な作品
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1867年
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1868年
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『プガチョフの裁判』、1875年[5]
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『息子の墓を訪れる老人の親』、1874年[6]
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『村の復活大祭の十字架行進』、1861年[7]
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イワン・ツルゲーネフ 1872年
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フョードル・ドストエフスキー、1872年
脚注
[編集]- ^ a b “ヴァシーリー・グリゴリエヴィチ ペローフ”. コトバンク. 2020年5月9日閲覧。
- ^ a b “トレチャコフの19世紀美術品トップ15”. ロシア・ビヨンド. (2015年3月17日) 2020年5月9日閲覧。
- ^ a b “Vasily Perov. Biography”. 2014年5月17日閲覧。
- ^ “移動派とは何者で、なぜロシア絵画芸術において重要なのか”. ロシア・ビヨンド. (2019年11月1日) 2020年5月9日閲覧。
- ^ “帝政ロシアを揺るがした5つの大反乱”. ロシア・ビヨンド. (2019年3月22日) 2020年5月9日閲覧。
- ^ “人生の意味を見つけるのに役立つロシア文学の8冊”. ロシア・ビヨンド. (2018年3月4日) 2020年5月9日閲覧。
- ^ “ロシアの画家たちが描いた正教の復活大祭”. ロシア・ビヨンド. (2015年4月12日) 2020年5月9日閲覧。
外部リンク
[編集]- Olga's Gallery
- Perov at Olga's Gallery
- Artists Illustrating Boys Fashions: Vasily Perov (Russia, 1834-82)
- Vasily Perov at Tanais Gallery
- ヴァシリー・ペロフの著作およびヴァシリー・ペロフを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
- ヴァシリー・ペロフの作品 - Zeno.org
- Informationen zum Künstler und seinen Werken
- Biografie des Künstlers
- (en) Grove Art Online, Oxford University Press, (ISBN 9781884446054, lire en ligne)