ポーランド国民解放委員会
ポーランド国民解放委員会(ポーランドこくみんかいほういいんかい、ポーランド語: Polski Komitet Wyzwolenia Narodowego, PKWN)は、「ルブリン委員会(またはルブリン政府)」の名で知られるポーランドの臨時執行機関である。ポーランド亡命政府に対抗し、1944年7月に樹立を宣言した。ナチス・ドイツより奪還したポーランド領を統治したが、組織はソビエト連邦により完全に支配・統制されていた。
成立前史
[編集]1939年9月、ソ連はドイツとの秘密協定にもとづきポーランドに侵攻。そして、ウクライナ人が多数派を占める東部ポーランド領(カーゾン線以東)を占領・併合した。1941年6月、独ソ戦の勃発により、同地域はドイツ軍により占領されたが、スターリンは併合を既成事実化し、戦時中も西側連合国ならびにポーランド亡命政府にその承認を迫った。しかし、一方で東部ドイツ領をポーランドに併合し、オーデル・ナイセ線を西部国境とすることで、その損失分を補う領土案を示した。この「代償方式」に英米とも1943年3月までに原則同意し、同年11月末からのテヘラン会談でもこの原則が確認された[1]。だが、亡命政府はこれを頑なに拒否し続け、またカティンの森事件を機に関係が悪化し、43年4月に波ソ関係は断絶された。
1944年以降の赤軍の攻勢により、ポーランドからのドイツ軍放逐が現実味を帯びてくると、ソ連は亡命政府との和解、あるいは他の親ソ連合政権の樹立を模索した。ソ連はまず領土獲得を通じての安全保障実現を優先し、初めから赤化の明確な青写真を持っていたわけではない[1]。しかし、5月20日から7回にわたって亡命政府とも秘密交渉を行なったが、領土要求に応じない亡命政府にスターリンは見切りをつけ、6月22日に一連の交渉を打ち切り[2]、バグラチオン作戦を実行した。そして7月末、赤軍がカーゾン線を越えたその日、ルブリン委員会が樹立された。
概要
[編集]共産党時代の公式史学によれば、44年7月22日、カーゾン線以西で解放された最初の都市ヘウムにおいて樹立された[3][4]。しかし、実際はその前日の7月21日、モスクワにおいて樹立され[5]、全国国民評議会 (Krajowa Rada Narodowa, KRN) の行政機能を引き継いだ。
徹底的な社会・政治・経済の改革、ナチス・ドイツに対する戦いの継続、産業の国有化、西部国境の正しき線引を掲げたルブリン委員会綱領(7月宣言)が、1944年7月22日に布告された。綱領では、同委員会こそが「唯一正当なポーランド政府」と宣言され、従ってポーランド亡命政府を正式に拒絶するものであった。7月27日、委員会は本部をヘウムへ、次いで8月2日、ルブリンへ移転した。そしてソ連当局を代表し、ニコライ・ブルガーニンが派遣された。
間もなくソ連は、その占領下にあったルブリン、ビアウィストク、ジェシュフ及びワルシャワの各県における権限を、委員会に委譲した。しかしながら、これらの措置を経た後も地域の実際の支配権は、NKVD及び赤軍の手に残された。
構成
[編集]委員会メンバーには、ソ連当局により認められた様々な共産系・左翼系政党の政治家がいた。議長はエドヴァルト・オスプカ=モラフスキ(ポーランド社会党、PPS)。副議長はワンダ・ヴァシレフスカ(ポーランド愛国者同盟、ZPP)、及びアンジェイ・ヴィトス(農民党、SL)。後者は、戦前の有名な政治家、ヴィンツェンティ・ヴィトスの弟である。彼は後に、スタニスワフ・ヤヌシュと交代した。
他のメンバーには、KRN、ZPP、ポーランド社会主義労働者党 (RPPS)、SL、民主党 (SD)、ポーランド労働者党 (PPR)、等の出身者が含まれていた。これらの組織・政治家の多くは、ポーランド社会では、あまり広く知られていなかった。
役職 | 氏名 | 出身団体 |
---|---|---|
議長 兼 外務部長 | エドヴァルト・オスプカ=モラフスキ (Edward Osóbka-Morawski) |
RPPS → PPS |
副議長 | ワンダ・ヴァシレフスカ (Wanda Wasilewska) |
ZPP・ソ連共産党 |
副議長兼農業・農地改革部長 | アンジェイ・ヴィトス (Andrzej Witos) |
ZPP → SL |
行政管理部長 | スタニスワフ・コテク=アグロシェフスキ (Stanisław Kotek-Agroszewski) |
「人民の意志」派 → SL |
公安部長 | スタニスワフ・ラトキェヴィチ (Stanisław Radkiewicz) |
ZPP → PPR |
国民経済・財務部長 | ヤン・ステファン・ハネマン (Jan Stefan Haneman) |
RPPS → PPS |
情報宣伝部長 | ステファン・イェンドリホフスキ (Stefan Jędrychowski) |
ZPP → PPR |
運輸・郵便・電信部長 | ヤン・ミハウ・グルベツキ (Jan Michał Grubecki) |
ZPP → SL |
文化・芸術部長 | ヴィンツェンティ・ジモフスキ (Wincenty Rzymowski) |
ZPP → SD |
国防部長 | ミハウ・ロラ=ジミェルスキ (Michał Rola-Żymierski) |
PPR |
戦時賠償部長 | エミール・ゾンメルシュタイン (Emil Sommerstein) |
ZPP・bp |
教育部長 | スタニスワフ・スクシェシェフスキ (Stanisław Skrzeszewski) |
ZPP → PPR |
労働・福祉・保健部長 | ボレスワフ・ドロブネル (Bolesław Drobner) |
ZPP → PPS |
法務部長 | ヤン・チェホフスキ (Jan Czechowski) |
「人民の意志」派 → SL |
亡命政府の一部の合流
[編集]1944年12月31日、ルブリン委員会にポーランド亡命政府のメンバー数名が参加し、その中には亡命政府首相スタニスワフ・ミコワイチクがいた。ただし、亡命政府の本体はそれに同調せず、その後も共産主義ポーランドとの対決姿勢を強めていく。ソ連軍がワルシャワに入城した後の1945年1月、委員会はポーランド共和国臨時政府 (Rząd Tymczasowy Rzeczypospolitej Polskiej, RTRP) へ改編された。臨時政府は、選挙が行われるまで、ナチス・ドイツから赤軍が奪還した地域を統治するものとされた。
国際的反応
[編集]ポーランド国民解放委員会の創設は、同盟国との交渉前に、東欧においてできる限り自国の勢力圏を作っておこうとするスターリンの試みの一つであった。このことは、ソ連と他の連合諸国との間の緊張を高め、やがては冷戦へと導く一因になった。
赤軍占領下の他の東欧諸国の多くでも、類似の出来事が起きていた。例えば、1945年3月のルーマニアでは、競合する諸政党に対する投票工作・排除・強制的統合の組み合わせにより、共産党政権が選ばれた。
後の西側同盟諸国は、これらの出来事を、大いなる苦悩を伴いながら注視していた。特に、スターリンが先に大西洋憲章を原則として認め、ヤルタ会談において同憲章に署名し、赤軍占領下の諸国における「民主的」選挙の実施を約束し、そして「解放欧州に関するヤルタ宣言」に署名していたからである。
関連項目
[編集]- ポーランド共和国臨時政府 (en:Provisional Government of the Republic of Poland) - 1945年
- 国民統一臨時政府 (en:Provisional Government of National Unity) - 1945/47年
- ポーランド人民軍 (en:Ludowe Wojsko Polskie)
- ポーランド亡命政府
- 東側諸国
脚注
[編集]- ^ a b 吉岡(1997年)、p.4
- ^ 吉岡(2005年)、p.5。
- ^ 伊東・井内・中井、p.360
- ^ ポーランド人民共和国においては、7月22日が解放記念日として盛大に祝われた。
- ^ 伊東・井内・中井、p.360。吉岡(2005年)、p.5
- ^ 吉岡(2005年)、p.7、表1を参照し作成
- ^ pl:Polski Komitet Wyzwolenia Narodowego#Skład PKWN 08:20, 14 March 2010 (UTC) を参照し作成
参考文献
[編集]- Davies, Norman, 1982 and several reprints. God's Playground. 2 vols. New York: Columbia Univ. Press. ISBN 0-231-05353-3 and ISBN 0-231-05351-7
- Żenczykowski, Tadeusz, Polska Lubelska 1944. Editions Spotkania, Warszawa 1990.
- Mission to Moscow, Time, Aug. 7, 1944
- 吉岡潤「ポーランド「人民政権」の支配確立と民族的再編-戦後農地改革をめぐる政治状況を軸に」『史林』80巻1号、1997年1月
- 吉岡潤「戦後初期ポーランドにおける複数政党制と労働者党のヘゲモニー(1944-47年)」北海道大学スラブ研究センター『スラヴ研究』52号、2005年
- 伊東孝之・井内敏夫・中井和夫(共編)『ポーランド・ウクライナ・バルト史(新版 世界各国史20)』山川出版社、1998年 ISBN 978-4634415003