ブルハーン・アッディーン
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ブルハーン・アッディーン( برهان الدين Burhān al-Dīn、? - 1759年)は、カシュガルのホージャ。カシュガルにおけるナクシュバンディー教団の首長家(カシュガル・ホージャ家)の一翼、アク・タク(白山党)の名祖ホージャ・アファークの曾孫で、ホージャ・マフムード(ないしアフマド)の子。弟にホージャ・ジャハーン[1]がおり、ブルハーン・アッディーンが大ホージャ、ホージャ・ジャハーンが小ホージャと称した。
前史[編集]
1696年、ジュンガルのガルダン・ハンが清の康熙帝に敗れたのを機に、マフムードは東トルキスタン南部に独立政権を樹立した。1700年、マフムードの政権はジュンガルのツェワンラブタンによって崩壊し、一家はイリ地方に抑留された。
大小ホージャの乱[編集]
1755年、清の乾隆帝がジュンガルを殲滅すると、ブルハーン・アッディーンとホージャ・ジャハーンは解放され、それぞれカシュガルとヤルカンドの統治を任された。1757年、アマルサナーがジュンガルで蜂起すると、ホージャ・ジャハーンは機に乗じてアク・タクの信徒を集めて蜂起した(大小ホージャの乱)。ブルハーン・アッディーンは清朝への恩義からためらったものの最終的に参加した。ホージャ・ジャハーンはクチャを占領し、バートゥル・ハンを名乗った。
1758年秋、清の兆恵が4千の兵を率いてヤルカンドに侵攻したが、ブルハーン・アッディーンとホージャ・ジャハーンに3カ月間包囲された。1759年1月、清の援軍が到達し、兄弟の軍を破った。兄弟はそれぞれカシュガルとヤルカンドに逃れたが、清軍は両城を陥落させた。兄弟はパミール山脈のバダフシャーンに逃れたが、バダフシャーンの支配者のスルタン・シャーは兄弟を捕えて殺害し、清に恭順の意を示した。
その後[編集]
ブルハーン・アッディーンの子のホージャ・サリムサクはコーカンド・ハン国に逃れた。ホージャ・サリムサクとその子のジャハーンギール・ホージャは数度にわたって帰国を画策することになる。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 新免康、菅原純「カシュガル・ホージャ家アーファーク統の活動の一端 : ヤーリング・コレクション Prov.219 について」『東洋史研究』第61巻第3号、東洋史研究會、2002年12月、522-552頁、CRID 1390009224834437504、doi:10.14989/155440、hdl:2433/155440、ISSN 0386-9059。