フランシスコ・パシェコ
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R・P・フランシスコ・パシェコ(R. P. Francisco Pacheco、1565年ごろ - 1626年6月20日)は、ポルトガル出身のイエズス会宣教師[1][2]、福者[3]。姓はパチェコとも表記される[1][2]。
経歴・人物
[編集]ヴィアナ・ド・カステロ県のポンテ・デ・リマに生まれる[2]。1585年にイエズス会に入会し[2]、ポルトガル領インドのゴアにて神学を学ぶ[2]。その後は司祭となり[2]、マカオで神学を教え1604年(慶長9年)に来日した[1][2]。来日後は大坂や堺を中心に布教するが[2]、1608年(慶長13年)にマカオに戻り同地のコレジオに任命される[2]。
1612年(慶長17年)に再来日し[1][2]、当時日本で布教活動を行っていたルイス・デ・セルケイラの代理となった[2]。しかし1614年(慶長19年)に発令されたキリシタン追放令により再度離日しマカオに戻るも[1][2]、翌1620年(元和6年)に再来日し長崎の島原や京都等西日本を中心に布教活動を行う[1][2]。翌1621年(元和7年)にはイエズス会日本管区長となったが[1][2]、1626年6月20日(寛永3年4月26日)に当時滞日していた同じイエズス会のスペイン出身のバルタサール・デ・トーレスと共に長崎の口之津で火刑に処された[1][2]。1867年5月7日、教皇ピウス9世により列福された[3]。