パルラディ (カファロフ)
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(ピョートル・カファロフから転送)
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人物情報 | |
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生誕 |
1817年9月17日 ロシアチストポリ |
死没 | 1878年12月18日 (61歳没) |
学問 |
掌院パルラディ(1817年9月29日(ユリウス暦:9月17日) - 1878年12月18日(12月6日)、露: Архимандрит Палладий)は、ロシアの初期の中国研究者。
「パルラディ」は修道名であり、俗名は「ピョートル・イヴァノヴィチ・カファロフ」(ロシア語: Пётр Ива́нович Кафа́ров)である。正教会の修道士は通例修道名のみで呼ばれるが、同名人物との区別が必要な際などに姓を表記される事があり、本項の記事名は修道名(パルラディ)と姓(カファロフ)から構成されている。
経歴
[編集]ピョートル・カファロフ(のちのパルラディ)はチストポリで正教会の司祭の家庭に生まれた。カザン神学校とサンクトペテルブルク大学で学び、そこから中国で活動するロシア正教会伝道団に送られた。
師イアキンフ・ビチュリンと同様、パルラディはロシア正教会の修道士であった。中国滞在中に、測り知れないほど貴重な多くの写本を発見し、出版した。その中には「元朝秘史」も含まれている。30年以上に亘って、掌院パルラディはロシア正教会の中国伝道団をまとめ[1]、現地の民族学・言語学の研究を行った。1878年に病気のため帰国する途中でマルセイユで没し、ニースに埋葬された。
パルラディは「パルラディ転写法(通称:パルラディ・システム(Palladius system))」として知られる中国語のキリル文字転写を考案した。この転写方法やそれを元に表化したパルラディ転写表は、その後も現在に至るまで、ロシアで中国の人名・地名を公式に記述する際の基礎となっている。
掌院パルラディによって編纂された中露辞典は、今日でもなお、科学的著作としてよく知られている[2]。
著作
[編集]参考文献
[編集]- В.Е. Ларичев. Путешествие в страну восточных иноземцев. М. 1983.(ラリチェフ V. E., 1983『東方諸外国人の国への旅行』)