ノーウホロド=シーヴェルシクィイ
ノーウホロド=シーヴェルシクィイ Новгород-Сіверський | |||
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市 | |||
ノーウホロド=シーヴェルシクィイ | |||
| |||
ノーウホロド=シーヴェルシクィイの位置 | |||
座標:北緯51度59分13秒 東経33度15分58秒 / 北緯51.98694度 東経33.26611度座標: 北緯51度59分13秒 東経33度15分58秒 / 北緯51.98694度 東経33.26611度 | |||
国 |
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州 |
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ラヨン | ノーウホロド=シーヴェルシクィイ地区 | ||
創建 | 10世紀(文献初出 1044年) | ||
マクデブルク法 | 1620年 | ||
政府 | |||
• 市長 | リュドムィラ・トカチェンコ | ||
面積 | |||
• 合計 | 11.81 km2 | ||
標高 | 129 m | ||
人口 (2022年)[1] | |||
• 合計 | 12,375人 | ||
等時帯 | UTC+2 (EET) | ||
• 夏時間 | UTC+3 (EEST) | ||
郵便番号 |
16000-16004 | ||
市外局番 | +380 4658 |
ノーウホロド=シーヴェルシクィイ(ウクライナ語: Но́вгород-Сі́верський;意訳: 「シヴェーリアの新都」)は、ウクライナのチェルニーヒウ州のノーウホロド=シーヴェルシクィイ地区にある都市。ドニプロ川の支流、デスナー川の河岸に位置する。
面積は11.81kmで、2022年現在の人口は12,375人。
歴史
[編集]10世紀、東スラヴ人シヴェーリア族の地において、キエフ大公国の都市として創建された[2]。11世紀後半以後、大公国の分国であるシヴェーリア公国の中心地であった。1239年にモンゴル帝国の軍勢によって略奪され、著しく衰退した。その後、ジョチ・ウルスに属していたが、1350年にリトアニア大公国の都市となった。1503年にモスクワ大公国によって征服されたが、1618年にポーランド・リトアニア共和国に奪い返された。1620年に自治権をもらった。1648年、フメリニツキーの乱のきっかけにコサック国家に属するようになった。コサックのノーウホロド=シーヴェルシクィイ百人隊区としてニージン連隊(1649年‐1663年)とスタロドゥーブ連隊(1663年‐1782年)に編成された。18世紀末にロシア帝国の小ロシア県、19世紀初めにチェルニゴフ県の郡庁所在地となった。1920年にウクライナ社会主義ソビエト共和国の都市となり、1932年にチェルニーヒウ州ノーウホロド=シーヴェルシクィイ地区の都市となった。
2020年7月18日まで、ノヴホロド=シヴェルスキーは州重要都市に指定されており、ノヴホロド=シヴェルスキー地区の中心地であったにもかかわらず、同地区には属していなかった。ウクライナの行政改革の一環として、チェルニーヒウ州の地区が4つに削減され、ノヴホロド=シヴェルスキー市はノヴホロド=シヴェルスキー地区に統合された[3]。
2022年2月24日から4月2日まで[4]、ノーウホロド=シーヴェルシクィイはロシア軍に占領された。これにより市内で人道危機が発生し、多くの民間人が避難を余儀なくされた[5]。ロシア軍は戦車で市の出入り口を封鎖し、救急車の通行も許可しなかった。検問所では地元住民の携帯電話が強制的に没収され、壊されたことあった。市議会はドンバス戦争参加者に関する文書を破棄した、ロシア軍から守るため[6]。2022年5月12日にノーウホロド=シーヴェルシクィイの学校がミサイル攻撃を受け、3人が死亡、19人が負傷した[7]。
人口
[編集]2001年ウクライナ国勢調査によると、ノヴゴロド=セヴェルスキーの人口の93.73%はウクライナ人、5.33%はロシア人で、母語が以下の通り:[8]
言語 | 人口 | 比率 |
---|---|---|
ウクライナ語 | 9 885 | 65,77 % |
ロシア語 | 5 112 | 34,01 % |
その他 | 32 | 0,22 % |
合計 | 15 029 | 100,00 % |
文化財
[編集]- 城山(12世紀‐13世紀の城跡地)
- 救世主変容修道院(11世紀)
- 救世主変容大聖堂(18世紀)
- 聖ムィコラーイ教会(18世紀)
- 生神女就寝大聖堂(18世紀)
- 凱旋門(18世紀末):ロシア女帝エカチェリーナ2世の訪問を記念するアーチ。
注釈
[編集]- ^ “2022年1月1日時点の人口統計 // ウクライナ国家統計局”. 2022年1月1日閲覧。
- ^ “Повчання Володимира Мономаха. Повість врем’яних літ. ПовЂсть времяньныхъ лЂтъ”. litopys.org.ua. 2025年1月31日閲覧。
- ^ “Про утворення та ліквідацію районів. Постанова Верховної Ради України № 807-ІХ.” (ウクライナ語). (2020年7月18日) 2020年10月3日閲覧。
- ^ УІНП. “Рік визволення: Чернігівщина” (ウクライナ語). УІНП. 2025年1月31日閲覧。
- ^ “Яка гуманітарна ситуація на Новгород-Сіверщині?”. Суспільне (2022年3月11日). 2024年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月11日閲覧。
- ^ Yakunina, Oksana (2022年5月30日). “Тисячолітній Новгород-Сіверський ніколи не здавався, навіть в окупації, - голова громади Людмила Ткаченко”. Decentralization. 2025年1月31日閲覧。
- ^ “В Новгороді-Сіверському внаслідок авіаудару 3 людини загинули та 12 травмовані, – ДСНС”. Суспільне (2022年5月12日). 2024年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月11日閲覧。
- ^ “Рідні мови в об'єднаних територіальних громадах України” (ウクライナ語). 2025年1月17日閲覧。
参考文献
[編集]- Історія міст і сіл Української РСР: Чернігівська область. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1972.