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クロード・ドビュッシー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドビュッシーから転送)
クロード・ドビュッシー
Claude Debussy
基本情報
出生名 Achille Claude Debussy
生誕 (1862-08-22) 1862年8月22日
フランスの旗 フランス帝国サン=ジェルマン=アン=レー
死没 (1918-03-25) 1918年3月25日(55歳没)
フランスの旗 フランス共和国パリ16区
学歴 パリ音楽院
ジャンル 印象主義音楽
職業 作曲家
活動期間 1884年 - 1916年

クロード・アシル・ドビュッシーClaude Achille Debussy フランス語: [klod aʃil dəbysi], 1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランス作曲家長音階短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人[1]

ドビュッシーの音楽は、代表作『』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は「印象派」と呼ばれることを強く拒否した[2]。テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃い。

なお、名前は生後1890年(28歳)まで「アシル=クロード」、1890年(28歳)から「クロード=アシル」である。

生涯

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幼少期

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1862年8月22日午前4時半、イヴリーヌ県サン=ジェルマン=アン=レーのパン通り38番地に「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた(この建物は現在ドビュッシー博物館となっている)[3][4]。父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった[4]。5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳(1864年7月31日)になってから洗礼を受けている[4]。その年に一家は経営難のためサン=ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家(クリシー)に同居する。

1870年カンヌに住む伯母クレメンティーヌ(父の姉に当たる)のもと、彼女の肝煎りでイタリアヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明)[注釈 1][6]。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている[6]

1871年、詩人ヴェルレーヌの義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄でオペレッタ作曲家のシャルル・ド・シヴリー (Charles de Sivry) と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。

幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、どのように過ごしたのかは不明である。ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。

音楽院入学とローマ賞

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1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学する[7]。この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、アルベール・ラヴィニャックソルフェージュ)らに学ぶ[8]。元々ピアニストになるつもりで、1873年の1月29日にJ.S.バッハの『トッカータ』(BWV915) を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという[9]1874年に学内のコンクールにおいてショパンピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得[10]。翌1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、1876年には獲得できなかった [注釈 2]1877年にはシューマンの『ピアノソナタ第2番』(第1楽章)で再び第2次席賞を獲るが、1878年1879年は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした[11]。そして結局ピアノで賞を得ることができず(1位入賞を目標にしていたため)、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ(バズィーユ)のピアノ伴奏法のクラスに入る[12]

一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。1878年にピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。1879年に歌曲『月に寄せるバラード』(L.1、紛失)と『マドリード』(L.2、近年発見[13])を作曲する。

1880年7月、18歳のドビュッシーはチャイコフスキーパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』(L.3) や『交響曲 ロ短調』(L.10) の断片を作曲した[14]。また、『ボヘミア舞曲』(L.9) という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた(出版はドビュッシーの死後)。メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった交響曲第4番1877年)などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。また貴族趣味も芽生えた。

パリに戻ったのち、この年の12月24日にギローのクラスに入る(当初マスネに師事するつもりでいた)[15]。またセザール・フランクのオルガンのクラスに顔を出しているが、オルガンにおける「執拗な灰色の色調」に嫌気が差したため、わずか半年でクラスから逃げるように立ち去っている[15]

1882年に歌曲『星の輝く夜』(L.4) を出版する。また10作以上の歌曲を作曲する。この年の5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる[16]

1884年の肖像画
(画)マルセル・バシェ

1883年5月、2回目となるローマ賞に挑戦し、『祈り』(L.40) で予選を通過。カンタータ『剣闘士』(L.41) 本選の第2等賞を獲得する[17]

1884年に3回目となるローマ賞に挑戦し、カンタータ『春』(L.56) で予選を通過、カンタータ『放蕩息子』(L.57) でローマ大賞を受賞する[18]。審査員の中にはグノーサン=サーンスもいた。翌1885年から1887年にかけてイタリアローマへと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った[19]。これにはヴァニエ夫人という意中の人がいたためともいわれる。このヴァニエ夫人のために書かれたいくつかの歌曲のうちポール・ヴェルレーヌの「艶なる宴」に基づくものは後に『艶なる宴』(全2集)としてまとめられた。またローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『』、合唱と管弦楽のための『ツライマ(ズレイマ)』(L.59、後に破棄されて現存しない)である(なおローマからパリへ帰郷してから作られた作品はカンタータ『選ばれた乙女』や『ピアノと管弦楽のための幻想曲』)。

1888年の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であったバイロイトへ初めて行き、同地で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『パルジファル』を聴く。

中期

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1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。1月には国民音楽協会に入会してエルネスト・ショーソンらと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た[20]。6月にパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン)を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与えた[21]。その後2度目に訪れたバイロイト音楽祭ではワグネリズムの限界を感じ、これを境にアンチ・ワグネリアンを標榜することになる[22]。またこの頃、詩人ステファヌ・マラルメの自宅サロン「火曜会」に唯一の音楽家として出席するようになり、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、『牧神の午後への前奏曲』への作曲へとつながっていく。

1890年の28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えた。

1893年4月、『選ばれし乙女』が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出された[23]。また12月29日に『弦楽四重奏曲』がイザイ弦楽四重奏団によって初演されている[23]

1894年3月、テレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) と婚約するが、ドビュッシーの恋人だったガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)の知るところとなり破談[24]。この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが1899年6月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。12月22日に『牧神の午後への前奏曲』が初演。リリー・テクシエと最初の結婚をする[25]

1900年代に入ると、『ビリティスの歌』(1900年)、『夜想曲』(1900年)、『版画』(1904年)などが初演された。また、オペラ『ペレアスとメリザンド』が完成し、1902年に初演され大きな成功を収めた[26]。これらの一連の作品で成功したドビュッシーは、作曲家としてのキャリアを確実なものとした。1903年にはレジオン・ドヌール五等勲章を受勲している[27]

1905年には交響詩『』、ピアノ曲集『映像 第1集』を発表し、新たな境地を見せる。同時にこの年、エンマ・バルダックと同棲する[28]。のちにリリーと正式に離婚し、エンマと2度目の結婚をした[29]。エンマとの間には娘クロード=エンマ(愛称シュシュ)が誕生する。

1910年には『前奏曲集 第1巻』を発表し、ピアノ曲において作曲家のキャリアを不動のものとした。一方、この時期にエドガー・アラン・ポーの小説『アッシャー家の崩壊』に基づくオペラを作曲していたが、完成せず放棄された[30]。もう一つの大作劇音楽『聖セバスティアンの殉教』(1911年)は、長すぎる原作戯曲の上演の失敗などがあって顧みられず、弟子のアンドレ・カプレによる『交響的断章』としての演奏会形式の編曲によりかろうじてレパートリーとして生き延びているに過ぎない。

1913年、バレエ音楽『遊戯』が完成し、同年にピエール・モントゥーによって初演され、これはバレエ・リュスの上演によって成功を収めた。しかしその2週間後に同じ演奏陣によってストラヴィンスキーの『春の祭典』が上演され、そのスキャンダルの陰に隠れてしまう。夏に『おもちゃ箱』の作曲に着手する(管弦楽化はアンドレ・カプレと協力)。12月、モスクワとペテルブルクに演奏旅行に行く(クーセヴィツキージロティの要請による)。

晩年

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1914年第一次世界大戦が勃発してエンマの息子(ドビュッシーにとっては連れ子)のラウルが兵士として動員されたことなどを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る[31]。この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手するも、完成したのは3曲のみであった。

1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出す。3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っている。

1916年は『ヴァイオリンソナタ』の構想や、未完に終わったオペラ『アッシャー家の崩壊』の台本(決定稿)の作成に取りかかる。またこの年には2台ピアノのための『白と黒で』や『チェロソナタ』などを含む4つの作品が初演されている。私生活では、離婚した元妻のリリー(マリ・ロザリー・テクシエ)に対する月手当ての支払いが1910年以来滞っていたため、裁判所から3万フランの供託金の支払いを命令されている。

1917年7月、一家はスペイン国境付近のサン=ジャン=ド=リュズに3か月滞在する。この地は保養地として有名であったため、多くの著名人が訪れている。ドビュッシーは同地で自作の『ヴァイオリンソナタ』を演奏しているが、これが生涯最後の公開演奏となった。この時期に計画していた残りのソナタとピアノ協奏曲の作曲を想起していたが、これらの作品はいずれも実現せずに終わっている。

1918年初旬、直腸癌により床から離れられなくなり、3月25日の夕方に息を引き取った[32]。55歳。1905年から死去する1918年にかけて居住したパリ16区スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 24番地の自宅だった。葬儀は29日に行われ、遺体はパッシー墓地に埋葬された(埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた)[33]。またドビュッシーが没した翌年の1919年に娘クロード=エンマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の1934年に世を去った。

年譜

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フランスの紙幣 (1997)

家族

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  • 父親:マニュエル=アシル・ドビュッシー(Manuel-Achille Debussy, 1836年 - 1910年)
    モンルージュ(パリの南郊)で生まれ、陶器商を経営していた。
  • 母親:ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー(Victorine Manoury Debussy, 1836年 - 1915年)
    車大工の父親と料理人の母親との間に生まれる。
  • 伯母:クレマンティーヌ・ドビュッシー(Clémentine Debussy, 1835年 - 1874年)
    マニュエル=アシルの姉。クロードが洗礼の際、代母として名付けを担当した。
  • 第1弟:エマニュエル・ドビュッシー(Emmanuel Debussy, 1867年 - 1937年)
  • 第2弟:アルフレッド・ドビュッシー(Alfred Debussy, 1870年 - 1937年)
  • 第3弟:ウジェーヌ=オクターヴ・ドビュッシー(Eugène-Octave Debussy, 1873年 - 1877年)
    末弟だが髄膜炎のため4歳で夭逝。
  • 第1妹:アデール・ドビュッシー(Adèle Debussy, 1863年 - 1952年)
    弟妹の中では長く生きた人物。
  • 1番目の妻:マリ・ロザリー・テクシエ (Marie Rosalie Texier, 1873年 - 1932年)
    通称リリー (Lily)
  • 2番目の妻:エンマ・バルダック(Emma Baldac, 1862年 - 1934年)
    元々は銀行家バルダックの妻だった。息子のラウル、娘のエレーヌ(愛称ドリー)がいる。エレーヌはフォーレに溺愛され、一説にはフォーレとエンマの子であるともいわれた。フォーレは『ドリー組曲』を作曲している。
    • 娘:クロード=エンマ・ドビュッシー(Claude-Emma Debussy, 1905年 - 1919年)
      愛称シュシュ。父親の死の翌年に14歳で夭折。クロード=エンマが父親の死に際して異父の兄ラウルに宛てた手紙がドビュッシー博物館に展示されている。

3人の弟については資料の少なさゆえに詳細は不明であるが、妹アデールは2つの世界大戦を生き抜いた唯一の人物である。

サンジェルマン=アン=レーのドビュッシー博物館には、現代に至るまでのドビュッシー家の家系図が展示されている。

人物

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気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人 (Marie-Blanche Vasnier) と8年間の情事のあと別れ、1889年から (Rue Gustave Doré) にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に1898年に破局を迎えた。同じ頃、ソプラノ歌手のテレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) とも情通している。翌年10月にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になり、リリーはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。シュシュはドビュッシーに溺愛され、『子供の領分』を献呈された。

同じ印象派の作曲家とされることが多いモーリス・ラヴェルは、父親がドビュッシーとかつて交友関係にあった[34]1898年にラヴェルが2台ピアノのための『耳で聞く風景』で作曲家としてのデビューを果たした時には、ドビュッシーはその中の1曲「ハバネラ」(1895年作曲。後に『スペイン狂詩曲』第3曲に編入)に関心を持ち、ラヴェルに自筆譜の写しを貸してくれるよう頼み、ラヴェルの方でも『ペレアスとメリザンド』に対して、自らが所属するグループ「アパッシュ」のメンバーとともに積極的に支持するなど、両者は互いの作品を評価し合い、親密な交友が続いた。だが1904年初演の『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」を聴いたラヴェルは、前述の自作「ハバネラ」と類似しているとしてドビュッシーに反発。以後両者の関係は疎遠となった。しかし、20世紀初頭の作品である『水の戯れ』や弦楽四重奏曲などの作品ではドビュッシーの影響が見受けられ[35]、本人もドビュッシーの管弦楽曲をピアノ曲へと編曲し、またはピアノ曲を管弦楽曲へと編曲している。

絵画においてはイギリスの画家ウィリアム・ターナーを特に愛好しており[36]、創作のインスピレーションを得ていた。

作品と表現

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初期の作品であるカンタータ選ばれし乙女』(1888年)や『ボードレールの5つの詩』(1889年)まではワーグナーの影響を見ることができる。しかしこの頃の作品、特にヴェルレーヌと出会って以降の3つの歌曲、『忘れられたアリエッタ』、『華やかな饗宴』第1集などでは、より明確に独自の書法へと変化していった。弦楽四重奏曲ト短調(1893年)においてはフリギア旋法だけではなく、様々な教会旋法を使用している。なかでも『牧神の午後への前奏曲』(1894年)、メーテルリンクの戯曲によるオペラペレアスとメリザンド』(1893年頃着手、完成は1902年)など同時代の作品から現れた全音音階の使用は、その後の独特のハーモニーの基盤ともなっている。また、これらの作品は規則的な律動にとらわれない書法の先駆けでもあり、それまでの西洋音楽の概念からは異色ともいえるものだった。

印象主義音楽

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ドビュッシーの音楽は印象主義音楽と俗に呼ばれている。印象派(または印象主義)という表現はもともと、1874年に最初の展覧会を開催した新進画家グループ(モネドガセザンヌら)に共通していた表現様式に対する揶揄表現が定着したものであり、音楽における《印象主義》も、若手作曲家の作品への揶揄の意味合いを込めて用いられた表現である。ドビュッシー自身も、出版社のデュランに宛てた書簡(1908年3月)の中で、この用語に対して否定的な見解を示した。

後世への影響

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ドビュッシーは20世紀で最も影響力のある作曲家の一人としてしばし見なされており、西洋音楽からジャズミニマル・ミュージックポップスに至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響を与えている。

西洋音楽においては、バルトーク・ベーライーゴリ・ストラヴィンスキー[37]、初期作品の時期のラヴェル[35]フランシス・プーランクダリウス・ミヨーアルベール・ルーセルジョージ・ガーシュウィン[38]ピエール・ブーレーズ[39]オリヴィエ・メシアン[40]アンリ・デュティーユ[41]レオ・オーンスタイン[42]アレクサンドル・スクリャービンカロル・シマノフスキ、ミニマル・ミュージックにおいてはスティーブ・ライヒ[43]に対して影響力を有している。日本の作曲家では武満徹坂本龍一がドビュッシーからの影響を公言している。

ジャズにおいては、ガーシュウィン、ジャンゴ・ラインハルトデューク・エリントン[44]バド・パウエルマイルス・デイヴィス(彼の盟友であるギル・エヴァンスによると、マイルスの自作曲である「So What」はドビュッシーの前奏曲集第一巻に収録されているヴェールVoilesを下敷きにして作曲されたとのことである)[45]ビル・エヴァンスハービー・ハンコックアントニオ・カルロス・ジョビンアンドリュー・ヒルビックス・バイダーベックなど。またビバップの和声法はドビュッシーとアルノルト・シェーンベルクからの影響が大きい[46]

電子音楽では冨田勲がドビュッシーの作品を多数取り上げ、編曲したことによって影響がもたらされている。

小惑星(4492) Debussyはドビュッシーの名前にちなんで命名された[47]

主な作品

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ピアノ曲

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  • マズルカ (Mazurka) - 1890年
  • バラード (Ballade) - 1890年
  • ベルガマスク組曲 (Suite Bergamasque) - 1890年
    • 前奏曲 (Préludes)
    • メヌエット (Menuet)
    • 月の光 (Clair de lune)(ドビュッシーの曲の中で最もポピュラーな曲の一つ)
    • パスピエ (Passepied)
  • 忘れられた映像 (Images oubliées)(死後発見、標題はドビュッシーが付けたものではない) - 1894年
    • レント(憂うつに、そしてやさしく) (Lent (mélancolique et doux))
    • ルーヴルの思い出 (Souvenir du Louvre)(後に『ピアノのために』第2曲「サラバンド」に改作)
    • 「もう森には行かない」の諸相 (Quelques aspects de "Nous n'irons plus au bois")(『版画』第3曲「雨の庭」の前身。「(いやな天気だから)もう森へは行かない」はフランスの童謡。ドビュッシーはこの「諸相」、「雨の庭」、歌曲「眠りの森の美女」、「管弦楽のための映像・第3曲『春のロンド』」の合計4曲でこの童謡を用いている)
  • 仮面 (Masques) - 1904年
  • 映像 第1集 (Images) - 1905年
    • 水の反映(水に映る影)(Reflets dans l'eau)
    • ラモー礼讃(「ラモーをたたえて」とも) (Hommage à Rameau)
    • 運動 (Mouvement)
  • 映像 第2集 - 1907年
    • 葉ずえを渡る鐘 (Cloches à travers les feuilles)
    • 荒れた寺にかかる月 (Et la lune descend sur le temple qui fut)
    • 金色の魚 (Poissons d'or)
  • 子供の領分 (Children's Corner - Petite suite pour piano seul)(娘のクロード・エンマのために作曲されたもの) - 1906年 - 1908年
    • グラドゥス・アド・パルナッスム博士 (Doctor Gradus ad Parnassum)
    • 象の子守唄 (Jimbo's lullaby)
    • 人形へのセレナード (Serenade of the doll)
    • 雪が踊っている (The snow is dancing)
    • 小さな羊飼い (The little shepherd)
    • ゴリウォーグのケークウォーク (Golliwogg's Cake-Walk)
  • 小さな黒人 (Le petit Nègre) - 1909年
  • レントより遅く (La plus que lente (Valse)) - 1910年
  • 2つの前奏曲集
    • 前奏曲集 第1巻 (Préludes 1) - 1909年 - 1910年
      以下の曲名は一般の曲の曲名とは違い、各曲の最後に小さく記されている。
      • デルフィの舞姫 (...Danseuses de Delphes)
      • ヴェール (...Voiles)(「帆」とも訳される)
      • 野を渡る風 (...Le vent dans la plaine)
      • 音と香りは夕暮れの大気に漂う (...Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir)
      • アナカプリの丘 (...Les collines d'Anacapri)
      • 雪の上の足跡 (...Des pas sur la neige)
      • 西風の見たもの (...Ce qu'a vu le vent d'ouest)
      • 亜麻色の髪の乙女 (...La fille aux cheveux de lin)
      • とだえたセレナード (...La sérénade interrompue)
      • 沈める寺 (...La cathédrale engloutie)
      • パックの踊り (...La danse de Puck)
      • ミンストレルズ (...Minstrels)
    • 前奏曲集 第2巻 (Préludes 2) - 1910年 - 1913年
      • 霧 (...Brouillards)
      • 枯葉 (...Feuilles mortes)
      • ヴィーノの門 (...La Puerta del Vino)
      • 妖精たちはあでやかな踊り子 (...Les fées sont d'exquises danseuses)
      • ヒースの荒野 (...Bruyères)
      • 風変わりなラヴィーヌ将軍 (...Général Lavine - excentric)
      • 月の光が降り注ぐテラス (...La terrasse des audiences du clair de lune)
      • 水の精 (...Ondine)
      • ピクウィック殿をたたえて (...Hommage à S. Pickwwick Esq. P.P.M.P.C.)
      • カノープ (...Canope)
      • 交代する三度 (...Les tierces alternées)
      • 花火 (...Feux d'artifice)
  • 英雄的な子守歌 (Berceuse heroïque pour rendre hommage à S.M. le Roi Albert Ier de Belgique et à ses soldats) - 1914年(同年12月に管弦楽曲に編曲)
    • 第一次世界大戦時、侵攻したドイツ軍に対して抵抗したベルギーの国王アルベール1世に献呈。
  • 12の練習曲 (12 Études) 作曲者による運指がないことで知られる - 1913年 - 1915年
    • 五本の指のための、ツェルニー氏による (Pour les cinq doigts, après M. Czerny)
    • 三度のための (Pour les tièrces)
    • 四度のための (Pour les quartes)
    • 六度のための (Pour les sixtes)
    • オクターブのための (Pour les octaves)
    • 八本の指のための (Pour les huit doigts)
    • 半音階のための (Pour les degrés chromatiques)
    • 装飾音のための (Pour les agréments)
    • 反復音のための (Pour les notes répétées)
    • 対比的な響きのための (Pour les sonorités opposées)
    • 組み合わされたアルペジオのための (Pour les arpeges composés)
      • 別版あり。
    • 和音のための (Pour les accords)
  • 負傷者の服のための小品 (Pièce pour le vêtement du blessé) - 1915年
    1933年、「アルバムのページ (Page d'album)」の名で出版。
  • エレジー (Élégie) - 1915年
  • 燃える炭火に照らされた夕べ (Les soirs illuminés par l'ardeur du charbon) - 1917年
    • 遺作。表題はボードレールの『悪の華』の「露台」(Le Balcon) の一節。第一次世界大戦による物資不足の中で石炭を送ってくれた石炭商に頼まれて作曲。2001年に発見。

2台ピアノ・4手連弾のための曲

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  • 交響曲 ロ短調(少年期の習作。第1楽章の4手連弾のみ現存、ヘンレ社からも出版。) - 1880年 - 1881年
  • 小組曲 (Petite suite) 4手連弾。ビュッセルによる管弦楽編曲版で有名。ヘンレ社からも出版。- 1886年 - 1889年
    • 小舟にて (En Bateau)
    • 行列 (Cortège)
    • メヌエット (Menuet)
    • バレエ (Ballet)
  • スコットランド風行進曲 (Marche écossaise sur un thème populaire) - 1891年(1908年に管弦楽版に編曲、ヘンレ社からも出版。)
  • 6つの古代の墓碑銘 (6 Epigraphes antiques) 4手連弾。『ビリティスの歌』の1, 7, 3, 10, 8, 12曲目より編曲。独奏版もあり。アンセルメによる管弦楽編曲版もある。ヘンレ社からも出版。 - 1914年
    • 夏の風の神、パンに祈るために (Pour invoquer Pan, dieu du vent d'été)
    • 無名の墓のために (Pour un tombeau sans nom)
    • 夜が幸いであるために (Pour que la nuit soit propice)
    • カスタネットを持つ舞姫のために (Pour la danseuse aux crotales)
    • エジプト女のために (Pour l'Égyptienne)
    • 朝の雨に感謝するために (Pour remercier la pluie au matin)
  • リンダラハ (Lindaraja) 2台ピアノ。ヘンレ社からも出版。 - 1901年
  • 白と黒で (En blanc et noir) 2台ピアノ。ヘンレ社からも出版。 - 1915年
    • 情熱に駆られて (Avec emportement)
    • 緩やかにそして控えめに (Lent et sombre)
    • スケルツァンド (Scherzando)
  • 牧神の午後への前奏曲[48] -(作曲者による2台ピアノ版、ヘンレ社からも出版。)
  • 管弦楽のための第一組曲 - (遺作としてピアノ連弾版が発見されデュランより出版されたが、原曲は不明。デュラン社から。)
  • 交響組曲『春』 - (作曲者による2台ピアノのためのオリジナル版。デュラン社から。)
  • 海 - (作曲者によるピアノ連弾版。デュラン社から。)
  • 神聖な舞曲と世俗的な舞曲 - (作曲者による2台ピアノ版。デュラン社から。)

管弦楽曲

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  • 交響組曲『春』 (Suite symphonique 'Printemps') - 1886年 - 1887年
    最初の版には女声合唱があったが火事で焼失した。1913年にビュッセルによって再度オーケストレーション(管弦楽のみ)が行われる。
  • 牧神の午後への前奏曲 (Prélude à l'Après-midi d'un faune) - 1892年 - 1894年
  • 夜想曲 (Nocturnes) - 1897年 - 1899年
    • 雲 (Nuages)
    • 祭 (Fêtes)
    • シレーヌ (Sirènes)
    • :第3曲には女性コーラス(歌詞なし)が入る
  • 交響詩『海』 (La Mer) - 1903年 - 1905年
    • 海上の夜明けから正午まで (De l'aube à midi sur la mer)
    • 波の戯れ (Jeux de vagues)
    • 風と海との対話 (Dialogue du vent et de la mer)
  • 管弦楽のための映像 (Images pour orchestre) - 1905年 - 1912年
    • ジーグ (Gigues)
    • イベリア (Ibéria)
      • 街の道から田舎の道から (Par les rues et par les chemins)
      • 夜の薫り (Les parfums de la nuit)
      • 祭りの日の朝 (Le matin d'un jour de fête)
    • 春のロンド (Rondes de printemps)

独奏と管弦楽のための協奏的作品

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室内楽曲

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バレエ音楽

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  • 遊戯 (Jeux) - 1912年 - 1913年
    1幕。ニジンスキー台本。
  • カンマ (Khamma) - 1912年
    3幕。ピアノ譜のみ。オーケストレーションはシャルル・ケクランによる。
  • おもちゃ箱 (La boîte à joujoux) - 1913年
    4場の子供用バレエ。ピアノ譜のみ。オーケストレーションはアンドレ・カプレによる。
    プロローグ - おもちゃ箱 - 戦場 - 売られる羊小屋 - お金持ちになってから - エピローグ
  • 沈黙の宮殿 (Le palais du silence) - 1914年
    1幕。前奏曲と第1場の初めの草稿のみ現存。のちに「ノ・ジャ・リ」と変更した。ドビュッシーはこの作品を期日までに仕上げることができなかった。

歌曲

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(カッコ内は詩人)

オペラ、カンタータ、劇付随音楽

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その他の楽曲

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  • シャルル・ドルレアンの3つの歌 (Trois chansons de Charles d'Orléans) - 1898年および1908年
    唯一の無伴奏混声合唱曲。2曲目はアルト独唱を伴う(後述の録音では、独唱パートは合唱で歌われている)。
    • 神よ、なんと彼女を美しく見せ給うことか (Dieu! qu'il la fait bon regarder!)
    • タンバリンが鳴り渡る時 (Quant j'ai ouy le tambourin)
    • 冬よ、お前は嫌なやつだ (Yver, vous n'estes qu'un villain)
  • シランクス (Syrinx) - 1912年
    無伴奏フルート独奏曲。ムーレイの戯曲「プシュケ」のために作られたもの)
  • サティ:「ジムノペディ」第1番、第3番(管弦楽用の編曲) - 1897年

メディア

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その他

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ドビュッシー博物館フランス語版
サン=ジェルマン=アン=レーにあるドビュッシーの生家を博物館にしたもの。展示室およびオーディトリウムがある。1階は観光案内所。パリ中心部よりRER A線で約20分、駅より徒歩5分。
墓碑
パリ16区パッシー墓地にある。
紙幣
1980年に肖像が描かれた20フラン紙幣が発行された。2002年ユーロ導入移行期間まで使用された。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ただし、チェルッティは彼の持つ才能を見抜けなかったといわれる[5]
  2. ^ 演奏曲目はベートーヴェンの『ピアノソナタ第23番』の第1楽章。

出典

[編集]
  1. ^ Biography Claude Debussy allmusic.com
  2. ^ ラヴェル名曲集:偉大な作曲家による重要な10作品
  3. ^ 著者吉澤ヴィルヘルム、発行者矢野恵二『ピアニストガイド』株式会社青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、p.246、ISBN 4-7872-7208-X
  4. ^ a b c 松橋 2007, p. 11.
  5. ^ ゴレア p.11
  6. ^ a b 松橋 2007, p. 13.
  7. ^ 松橋 2007, p. 17-18.
  8. ^ 松橋 2007, p. 18-19.
  9. ^ 松橋 2007, p. 19.
  10. ^ 松橋 2007, p. 20-21.
  11. ^ 松橋 2007, p. 21-22.
  12. ^ 松橋 2007, p. 23-24.
  13. ^ ルシュール (2003) p.42
  14. ^ 松橋 2007, p. 24-25.
  15. ^ a b 松橋 2007, p. 25.
  16. ^ 松橋 2007, p. 30.
  17. ^ 松橋 2007, p. 32.
  18. ^ 松橋 2007, p. 34.
  19. ^ 松橋 2007, p. 35.
  20. ^ 松橋 2007, p. 45.
  21. ^ 松橋 2007, p. 49-50.
  22. ^ 松橋 2007, p. 51-53.
  23. ^ a b 松橋 2007, p. 64.
  24. ^ 松橋 2007, p. 68-70.
  25. ^ 松橋 2007, p. 78-80.
  26. ^ 松橋 2007, p. 90-91.
  27. ^ 松橋 2007, p. 97.
  28. ^ 松橋 2007, p. 105-107.
  29. ^ 松橋 2007, p. 109-110.
  30. ^ 松橋 2007, p. 121-123.
  31. ^ 松橋 2007, p. 151.
  32. ^ 松橋 2007, p. 161.
  33. ^ 松橋 2007, p. 162.
  34. ^ ルシュール (2003) p.128
  35. ^ a b Nichols (2011), p.52
  36. ^ ドビュッシー 映像第1巻(ベーレンライター版)前書 日本語訳 全日本ピアノ指導者協会
  37. ^ Taruskin, Richard. 1996. Stravinsky and the Russian Traditions: A Biography of the Works Through Mavra. Vol. 1 and Vol. 2. Berkeley: University of California Press. ISBN 0-520-07099-2.
  38. ^ Hyland 2003, p.126. Jump up ^
  39. ^ Vermeil 1996. Jump up ^
  40. ^ Messiaen, Technique de mon langage musical Jump up ^
  41. ^ Mezzo Voce Henri Dutilleux - YouTube
  42. ^ Broyles (2004), p.72; Martens (1975), p.29.
  43. ^ http://www.stevereich.com/articles/Anne_Teresa_de_Keersmaeker_intervies.html
  44. ^ http://debussygershwinandjazz.weebly.com/george-gershwin-and-duke-ellington---early-jazz.html
  45. ^ Kahn, p.178.
  46. ^ Kubik, Gerhard. "Bebop: a case in point. The African Matrix in Jazz Harmonic Practices." (Critical essay) Black Music Research Journal 22 Mar 2005. Digital.
  47. ^ (4492) Debussy = 1979 SZ10 = 1979 VF1 = 1981 EC = 1988 SH”. MPC. 2021年10月9日閲覧。
  48. ^ Works for two Pianos”. www.henle.de. HENLE. 2020年2月6日閲覧。
  49. ^ 松橋 p.210

参考文献

[編集]
  • フランソワ・ルシュール、笠羽映子訳 『伝記 クロード・ドビュッシー』 音楽之友社、2003年
    • 〈Lesure, F. 2003. Claude Debussy, Biographie critique. Paris, Fayard.〉
  • フランソワ・ルシュール編、笠羽映子訳 『ドビュッシー書簡集』 音楽之友社、1999年
    • 〈Lesure, F. 1993. Claude Debussy, correspondance 1884-1918, Paris, Hermann.〉
  • 原書版では、追加の書簡、相手からの来簡や家族の手紙も含めた「書簡全集」が刊行されている。
    • 〈Claude Debussy Correspondance (1872-1918) édition établie par François Lesure et Denix Herlin, annotée par François Lesure, Denis Herlin et Georges Liébert, Gallimard nrf.〉、2005年7月発行 ISBN 2-07-077255-1
  • Ashbrook, W. and Cobb, M.G. 1990. A portrait of Claude Debussy. Oxford: Clarendon Press. {Dietschy, M. 1962. La passion de Claude Debussy. Neuchâtel: Baconnière}
  • Lockspeiser, E. 1962. Debussy: his life and mind volume 1, 1862-1902. New York, Macmillan.
  • Lockspeiser, E. 1965. Debussy: his life and mind volume II, 1902-1918. New York: The Macmillan Company.
  • Lockspeiser, E. 1972. Debussy. New York: McGraw-Hill.
  • 杉本秀太郎訳 『音楽のために ドビュッシー評論集』 白水社、新装版2002年
  • 平島正郎訳 『ドビュッシー音楽論集』 岩波文庫、初版1996年-ドビュッシー自身が編集した抄版。
  • 松橋麻利『ビュッシー 作曲家・人と作品』音楽之友社、2007年。 
  • アントワーヌ・ゴレア『不滅の大作曲家 ドビュッシー』店村新次訳、音楽之友社、1971年
  • 笠羽映子、菅野浩和、塚田れい子、平島正郎、平野昭、真崎隆治、村井範子 共著『作曲家別名曲解説ライブラリー⑩ ドビュッシー』音楽之友社、1993年

関連項目

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 浮世絵等の活用に向けた基本方針 平成30(2018)年6月”. 川崎市. 2018年7月7日閲覧。
  2. ^ レファレンス事例詳細(国立音楽大学付属図書館)”. 国立国会図書館. 2018年7月7日閲覧。

外部リンク

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