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チェコスロバキア軍団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チェコスロバキア軍団
創設 1914年
廃止 1920年
所属政体 チェコスロバキア共和国(第一共和政)英語版(1918年から)
所属組織 フランス陸軍(1914年から1918年)
ロシア帝国陸軍(1914年から1917年)
イタリア陸軍(1918年)
部隊編制単位  
兵種/任務 遠征軍英語版
人員 合計145,614人
標語 Nazdar日本語こんにちは
戦歴

第一次世界大戦

ロシア内戦

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[1]

チェコスロバキア軍団(チェコスロバキアぐんだん、チェコ語Československé legieスロバキア語Československé légie)は、主にチェコ人及びスロバキア人で構成されていた義勇軍である。

第一次世界大戦中は連合国側として、フランス陸軍ロシア帝国陸軍イタリア陸軍の一部隊として戦闘を行った[2][3]。その目的は、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下であったチェコ王国と、同帝国の一部であったハンガリー王国のスロバキア地域の独立について連合国の支持を得ることであった。

ロシア陸軍に属していたチェコスロバキア軍団は、内戦の勃発に伴いロシア国内に取り残されることになった。残存した部隊はボルシェヴィキと対峙し、白軍として戦闘を行った[4]

フランスでの軍団

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フランスでは、1914年8月23日に在仏チェコ人により総勢300人の志願兵で構成される「ナズダル中隊」が誕生した。

この中隊は外人部隊行進連隊のC-2大隊に配属され、フランス南部の都市、バイヨンヌにてチェコのライオンが描かれた軍旗を受け取ると、西部戦線へ向かった。こうしてナズダル中隊は、モロッコ師団の一員としてシャンパーニュ地方にて戦闘に従事した。1915年5月9日に中隊はアラス近郊の140高地を占領する任務を与えられ、ドイツ軍の塹壕線を3列占領することに成功したものの、大きな損失を被った。1915年6月16日のアラスの第二次攻勢で損失を被った後、C-2大隊は解散され、ナズダル中隊は役割を終えた。生き残ったチェコ兵達は他の外人部隊連隊に分散することとなった。

1917年12月19日には、フランス政府は法令によりチェコ人・スロバキア人の自治軍の組織を認可した。これによりロシア・ルーマニア・アメリカ・イタリアから志願兵が集まり、それにセルビアでの捕虜が加わることによって1918年1月12日にコニャックにて第21チェコスロバキア狙撃連隊チェコ語版が結成された。彼らはダルニーにて訓練を受けた後、フランス第53歩兵師団の一部として従事した。連隊はテロンの戦いにおいて優秀な戦績を残し、連合国に貢献した。

第21チェコスロバキア狙撃連隊の分隊から、1918年5月20日にヤルナクで第22チェコスロバキア狙撃連隊チェコ語版が結成された。この連隊は、フランスに設立されたチェコスロバキア旅団に編入され、フランス第134歩兵師団と共にヴージエでの戦闘に参加した。

1918年6月30日に両連隊は当時のフランス大統領レイモン・ポアンカレと、後のチェコスロバキア共和国首相であるエドヴァルド・ベネシュへ宣誓を行った。現代のチェコにおいて、この6月30日という日は「チェコ軍の日」という記念日として祝われている。

第21チェコスロバキアライフル師団旗
フランスのチェコスロバキア軍団

フランスでのチェコスロバキア軍団は当時描かれた絵画にも登場している[5]

1918年8月、ドイツ帝国首脳部は軍事力によって大戦に勝利することが困難であると結論を出し[6] 11月11日に協商国に降伏した。それにより、事実上西部戦線は消滅した。

その後、西部戦線で戦闘していたチェコ人兵士・スロバキア人兵士は新たに樹立されたチェコスロバキアへ帰郷した。

絵画に描かれた第21チェコスロバキアライフル師団旗

ロシアでの軍団

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第一次世界大戦

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ロシア帝国において、チェコ人・スロバキア人の義勇軍であるチェコ中隊1914年8月12日に創設された。中隊は720人の人員で構成され、同年9月28日にヴァツーラフを守護聖人とした。彼らは第3軍(ロシア帝国陸軍)英語版の一部として行動し、東部戦線においてオーストリア=ハンガリー帝国陸軍英語版ドイツ帝国陸軍と対峙した。しかし、ロシア政府によってチェコ人・スロバキア人捕虜の入隊は制限されたため、組織の拡充は非常に遅いスピードで進んだ[7]1915年には、南スラブやオーストリア=ハンガリーの捕虜達によってオデッサセルビア義勇軍が結成され、約1000人のチェコ人とスロバキア人が入隊した。義勇軍は1916年8月ドブロジャでの戦闘に参加した[8]

1916年初頭にチェコ中隊は第1チェコスロバキア狙撃連隊として再編され、ドブロジャからの撤退を余儀なくされた一部のセルビア義勇軍兵はこの連隊に参加した[8]。同年、連隊は2つの歩兵連隊によって構成されるチェコスロバキア狙撃旅団に発展した。

1917年3月には2月革命が発生しロシア臨時政府が誕生するも、あくまでも臨時政府は継戦を望んでいたため、東部戦線での戦いは継続していた。

狙撃旅団は同年7月ケレンスキー攻勢においてオーストリア=ハンガリー軍の塹壕を占領するなどの戦果を残した。その戦果を評価した臨時政府は、捕虜収容所からボヘミア人、モラヴィア人、スロバキア人の捕虜が入隊することを認可した[9]

その夏の後半、4連隊が旅団へ参加すると、旅団は第1チェコスロバキア師団に改名され、更に同年10月には4つの連隊からなる第2チェコスロバキア師団も創設されると、1918年までに軍団の総兵力は約4万人に増加した[9]

大戦から内戦へ

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1917年11月にはロシアの首都であるペトログラードにて十月革命が発生し、ケレンスキー率いる臨時政府は倒された。革命はボリシェヴィキによって実行され、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が建設された。しかし樹立されたソビエト政権に対して否定的な軍人達は、様々な地域で白軍を組織してボリシェヴィキに攻撃を開始した。これによりロシア内戦が始まった。

一方、東部戦線で戦っていたチェコスロバキア軍団は内戦が勃発した状況でありながらも今だにロシア国内に留まっていた。

ロシア内戦

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ロシア撤退に向けて

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1917年11月、従来から停戦を主張していたソビエト・ロシアはブレスト=リトフスクにて中央同盟国との和平交渉を開始した。同年の初めにロシアへ到着したチェコスロバキア国民評議会英語版の議長であるトマーシュ・マサリクは、ロシアが戦争から離脱することを踏まえ、ロシア軍に属していたチェコスロバキア軍団が継戦を行うために西部戦線へ移動する計画を考えた。しかし当時のロシアの主要港の殆どが封鎖されていたため、マサリクは軍団が当時在留していたウクライナからウラジオストク港へ移動し、そこから西ヨーロッパへの輸送船に乗ろうと考えた[10]

1918年2月、ウクライナのボルシェヴィキ当局は、トマーシュ・マサリクと軍団にウラジオストクへの9,700kmにわたる移動を許可した。同年2月18日、チェコスロバキアがウクライナを脱出する前に、ドイツ軍は東部戦線でファウストシュラーグ作戦を実行し、和平交渉を意図的に遅らせていたソビエト政権に対して圧力を高めた。作戦の影響により、3月5日から3月13日の間、軍団はソビエト・ロシア軍と共にバフマッハの戦い英語版に参加し、中央同盟国軍の侵攻を阻止した[11]

その後、軍団がウクライナを離れソビエト・ロシア国内へ入ると、チェコスロバキア国民評議会は軍団のその後の移動についてモスクワペンザのボルシェヴィキ当局と交渉を行った。3月25日に双方はペンザ協定に調印し、軍団がウラジオストクへ妨害されずに通過できることと、軍団が所持していた殆どの武器を放棄することに合意した。しかしお互いに不信感を抱くにつれて緊張は高まった。ボルシェヴィキはマサリクや軍団が中立を保たずに、白軍へ参加するのではないかと警戒していた。一方、軍団はロシアでのチェコスロバキア共産党英語版員に警戒しており、ボルシェヴィキがウラジオストクへの移動を妨害してくるのではないかと疑っていた[12]

ボリシェヴィキとの対峙

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1918年5月、チェコスロバキア軍団はシベリア鉄道に沿って移動していたが、鉄道の老朽化や機関車の不足による設備的な問題や、地方のソビエトとの交渉の必要性のために、実際に移動できた距離は予定したものをはるかに下回っていた。

同年5月14日チェリャビンスク駅に到着した軍団は、時同じくして到着したハンガリー人(オーストリア=ハンガリー軍の捕虜)達と鉢合わせて争いが発生した。当時ソビエト・ロシアの陸海軍人民委員(軍部大臣に相当)であったレフ・トロツキーは軍団を完全な武装解除し、関係者を逮捕することを命じた。数日後に軍団はチェリャビンスク市で軍会議を開き、武装解除を拒否すると共にウラジオストクへの通過を目的とした最後通牒を発することを決定した[13]。この事件により、ボルシェビキとの関係は決定的なものになった。

シベリア鉄道とウラジオストクの占領

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ロシアでのチェコスロバキア軍団旗(表)
ロシアでのチェコスロバキア軍団旗(裏)
ウスリースクにてボルシェヴィキに殺害されたチェコスロバキア軍団第8連隊兵。上に立っているのはチェコスロバキア軍団兵士(1918年
ウラジオストクでのチェコスロバキア軍団

同年5月31日、チェコスロバキア軍団とボルシェヴィキの戦闘はシベリア鉄道沿いの複数の箇所で行われた。6月までに双方の戦いはペンザからクラスノヤルスクまでの鉄道沿線に広がり、月末までにミハイル・ディテリフス将軍率いる軍団はウラジオストクを占領し、地元のソビエト政権を打倒した。7月6日、軍団は同都市を連合国の保護領とすることを宣言した[14]。シベリア鉄道東部を占領した軍団は、シベリア鉄道西部で今だに戦っている同胞を支援するために引き返した。

7月下旬までに、軍団はサマラからイルクーツクまでの鉄道支配権を掌握し、9月の初めまでにシベリア鉄道の全てからボルシェヴィキを一掃した[15]

軍団はエカテリンブルクを含むシベリアの大都市を占領したが、皇帝ニコライ2世と皇帝一家は軍団が到着する一週間前に処刑されていた

ロシアからの脱出

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1918年8月、ボリシェヴィキ体制の除去を望んでいたフランス政府は、チェコスロバキア軍団の行動の統制に乗り出した。これまでに、ドイツ・ボリシェヴィキに対する東部戦線開設の任務を帯びて、モーリス・ジャナン将軍がシベリアに派遣されていた。しかしながら、ジャナンは12月になって初めてオムスクまで辿り着けた。

1918年10月、独墺の敗北が明らかになると、チェコスロバキア軍団将兵は早期帰国を望むようになった。いくつかの部隊は、戦線を離れ、東に向かう列車に乗り込んだ。このような状況下、10月25日、第1チェコスロバキア師団長ヨゼフ・シュヴェツ大佐は自決した。10月28日、チェコスロバキアが独立し、11月初め、チェコスロバキア軍団はウファ及びチェリャビンスクから撤収し始めた。

11月、ジャナン将軍は、在シベリア連合軍総司令官となったが、どの干渉国の部隊も指揮下に入らず、配下部隊はウラジオストクの1個中隊のみで、名目上のものに過ぎなかった。そこで、ジャナンは、コルチャーク軍を支援すると共に、チェコスロバキア軍団の掌握に乗り出した。クレマンソー首相がチェコスロバキア政府に対して圧力をかけ、1919年1月27日、ノヴォ・ニコラエフスク(ノヴォシビルスク)からイルクーツクまでのシベリア鉄道沿線がチェコスロバキア軍団の担当地域とされ、フランスはチェコスロバキア軍団を更に1年近くロシアに留めることに成功した。これに対して、6月、チェコスロバキア軍団内で反乱が発生したが鎮圧された。チェコスロバキア軍団将兵の撤退は、1919年12月になって初めて行われ始めた。

1920年1月、ジャナン将軍は、コルチャークをボリシェヴィキ側に引き渡すようにチェコスロバキア軍団に命令した。

第一次世界大戦からロシア内戦にかけて、チェコスロバキア軍団は、4千人以上を失った。この際、ボリシェヴィキ側に寝返ったのは、218人に過ぎない。

イタリアでの軍団

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チェコスロバキア軍団参加者

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関連項目

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  1. ^ The Czechoslovak Legion”. University of Cambridge. 2025年1月2日閲覧。
  2. ^ a b Czechoslovak Legion in France”. Museum of Czechoslovak Legions. 2025年1月2日閲覧。
  3. ^ Czechoslovak Legion in Italy”. Museum of Czechoslovak Legions. 2025年1月2日閲覧。
  4. ^ チェコ兵捕虜/チェコスロヴァキア軍団”. Y-History 教材工房. 2025年1月2日閲覧。
  5. ^ ‘Panthéon de la Guerre’ at 100: The colossal war painting that time forgot”. CNN style. 2025年1月3日閲覧。
  6. ^ 『Chronicle of the First World War』Facts On File Inc、1991年10月1日。ISBN 978-0816025978 
  7. ^ Brent Mueggenberg(英語)『The Czecho-Slovak Struggle for Independence, 1914-1920』McFarland Publishing、2014年9月3日、67-70頁。ISBN 978-0786496259 
  8. ^ a b Czechoslovak Legions in Russia”. Museum of Czechoslovak Legions. 2025年1月4日閲覧。
  9. ^ a b Josef Kalvoda(英語)『The Genesis of Czechoslovakia』East European Monographs、1986年10月15日、101-105頁。ISBN 978-0880331067 
  10. ^ Victor M. Fic『Revolutionary War for Independence & the Russian Question - Czechoslovak Army in Russia, 1914-1918』South Asia Books、1977年4月1日、36-39頁。ISBN 978-0883869680 
  11. ^ Henry Baerlein『The March of the Seventy Thousand』Leonard Parsons、1926年1月1日、101-103,128-129頁。 
  12. ^ Victor M. Fic『Revolutionary War for Independence & the Russian Question - Czechoslovak Army in Russia, 1914-1918』South Asia Books、1977年4月1日、22-38頁。ISBN 978-0883869680 
  13. ^ Victor M. Fic『The Bolsheviks and the Czechoslovak Legion』、230-261頁。 
  14. ^ Czech troops take Russian port of Vladivostok for Allies”. A&E Television Networks, LLC. 2025年1月7日閲覧。
  15. ^ Brent Mueggenberg『The Czecho-Slovak struggle for independence, 1914/1920』McFarland & Company, Inc.、2014年、161–177,188–191頁。