コンテンツにスキップ

フョードル・イポリトビッチ・シチェルバツコイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シチェルバツコイから転送)
フョードル・イポリトビッチ・シチェルバツコイ
人物情報
生誕 (1866-10-01) 1866年10月1日
ロシア帝国キェルツェ(現ポーランドの旗 ポーランド キェルツェ)
死没 1942年3月12日(1942-03-12)(75歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦カザフ・ソビエト社会主義共和国ボロボイ
出身校 サンクトペテルブルク大学
学問
研究分野 東洋学(インド学)・仏教学
研究機関 仏教文化研究所
テンプレートを表示

フョードル・イポリトビッチ・シチェルバツコイ[1]、(: Fyodor Shcherbatskoy: F. Th. Stcherbatskyロシア語: Фёдор Ипполи́тович Щербатско́й1866年10月1日 - 1942年3月12日)は、ロシアインド学者。西洋における仏教および仏教哲学の研究機関の設立に貢献した。

生涯

[編集]

1866年、ポーランドキェルツェ(旧ロシア帝国領)生まれ。ツァールスコエ・セロー・リツェイロシア皇帝アレクサンドル1世が1811年にサンクトペテルブルク郊外に設立した学校)で学び(1884年卒業)、サンクトペテルブルク大学歴史文献学部を1889年に卒業。イヴァン・ミナエフロシア語版セルゲイ・オルデンブルクに師事。その後海外に派遣され、ウィーンにてゲオルク・ビューラーの下でインド詩文を、ボンにて ヘルマン・ヤコビの下で仏教哲学を学ぶ。1897年に、オルデンブルクとともに、稀少仏教テクストを収蔵した「佛教文庫」(Bibliotheca Buddhica)の出版を開始する。

インドおよびモンゴルへの旅行(ゲルク僧より学んだとされる[2]。)を終えた彼は、1903年に「後期仏教教義の理論(Theory of Knowledge and Logic of the Doctrine of Later Buddhists)」第1巻(ロシア語)を刊行する[3](全2巻。1903-1909年刊)。1928年、サンクトペテルブルクに仏教文化研究所(Institute of Buddhist Culture)を設立。 「仏教における涅槃の概念(The Conception of Buddhist Nirvana)」(英語。1927年刊)は、西洋世界において評判となった。続いて出版した主著「仏教論理学(Buddhist Logic)」(全2巻。英語。1930-32年)は現代仏教学に大きな影響を及ぼした。

1942年、カザフスタンのボロボイ(Borovoye)[4]にて死去。

業績・研究内容

[編集]

母国での知名度は上がらなかったが、サンスクリット語やチベット語の分野では、ネルー(インド初代首相)やタゴール(ノーベル文学賞受賞)らからも称賛された。ブリタニカ百科事典(2004年版)では、彼のことを「西洋における仏教哲学の第一人者」と表現している。

脚注

[編集]
  1. ^ 「シシェルバツコイ」、「スチェルバツキー」、「スチェルバッコイ」などとも日本語表記されている。
  2. ^ 金岡秀友「フョードル・イッポリトウィチ・シチェルバトスコイ伝」『大乗仏教概論』所収, 1957。
  3. ^ Teoriia poznaniia i logika po ucheniiu pozdnieĭshikh' buddistov ( 2 vols., S.-Petersburg: Tip. "Gerol'd", 1903-1909 ) - Vol. I: Uchebnik logiki Darmakirti s tolkovaniem na nego Darmottary ( 1903 ) ( Note: Vol. 1 includes a translation of Dharmakirti's Nyāyabindu and Dharmottara's Nyāyabindutīkā. ) - Vol. II: Uchenie o vospriĭ a tiĭ i umozakli u cheniĭ ( 1909 ).
  4. ^ カザフスタン北部のアクモラ州シュチンスクから北北西約15マイル(24km)に位置するリゾート地。

文献

[編集]

外部リンク

[編集]