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テープレコーダー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

テープレコーダー: tape recorder)は、磁気テープなどのテープ状の記録媒体信号記録および再生する装置である。普通、磁気テープに磁気記録の形で電気信号を記録する。

用語成立の歴史的な経緯もあり「テープレコーダー」という用語は、特に音響を記録・再生するもの(録音再生機器)を指すために使われており、通常、テープに映像を記録する装置(ビデオテープレコーダ類)は「テープレコーダー」には含めない。したがって当項目でも音響用のものに限定して説明する。

概要

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スイスレボックス社のPR99 Mk II(1985年ころ発売)。1/4インチ・テープを使うオープンリール方式のテープレコーダー。据置型。
ソニービジネスデンスケ TCM-5000EV(1984年発売)。コンパクトカセット方式。取材に使えるポータブルなモノラルテープレコーダーという位置づけであった。

テープレコーダーにはオープンリール式やカセットテープ式などがあり、録音可能なものは再生も可能である[注釈 1]コンポーネントステレオの中のテープデッキもテープに録音できるので、分類としてはテープレコーダの一種(下位分類)にあたる。日本では略してテレコと呼ばれることがあった[注釈 2]

テープの素材は現在ではポリエステルなどのプラスチックフィルムが使われる。それ以前はアセテートが使われた。初期にはが用いられたこともある。磁気テープは体積当たりのデータ密度が高いため、長時間録音に適するとされてきた。またアナログテープレコーダや一部の固定ヘッドデジタルテープレコーダ(通称S-DAT)では、テープを直接切断して編集する「手切り編集」(電子編集に対する用語)も可能である。同様に破損したテープを取り除き、繋ぐことでデータの破損を局所的に抑えることができる。

欠点は、経年変化による磁性層やバインダーの劣化、テープの伸び・切断・よじれなどが起きやすく[注釈 3]、鳴きと呼ばれるテープとヘッド類との摩擦音やリール部分の物理的な回転にともなう音も変調ノイズとして音を濁らせる原因となる。また磁気テープは一部を再生する場合、早送り・巻き戻しをした後でないと再生できない。つまりランダムアクセスは困難である。磁気テープという物理的なものに記録するので機械的な機構(いわゆるメカ)が必要で、小型・軽量化に限界がある。

分類

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スピーカー、あるいはスピーカーおよびアンプを含まず、他の音響機器と接続して使う録音・再生装置をテープデッキと言う。

据置型装置に関しては、オープンリール式のものをオープンデッキと言い、カセットテープ式のものをカセットテープデッキと言う。

また大分類としては、音響信号を連続波形のまま記録するアナログ方式と、デジタル信号に変換されたものを記録するデジタル方式とがある。 以下、細分化した分類を示す。

S-VHSHi8などのテープを用いたマルチトラックレコーダで単体で8~12トラックの録音再生が可能な機種をいう。必要に応じて同期用のケーブルで複数台をリンクして使うことにより同期を保ったままトラック数を拡張できた。ADATDTRS等の規格がある。デジタルオーディオワークステーション(DAW)を始めとするハードディスクレコーダ、およびフラッシュメモリレコーダーの台頭により姿を消しつつある。テープ以外にMOやSDメモリカードコンパクトフラッシュUSBメモリなどの各種メディアを使用した物があるがテープ以外のメディアはマルチトラックレコーダの項を参照されたい。

歴史

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テープレコーダー以前

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ポールセンの磁気録音式
ワイヤーレコーダー (1898年)

音声信号を磁化(帯磁)で記録するというアイディアは、1888年にアメリカ人オバリン・スミスが最初に着想した。 そのアイディアを実現した最初の装置は、1898年にデンマークの発明家ヴォルデマール・ポールセン(1869年-1942年)が完成させた。そのテレグラフォン(Telegraphon)は、媒体にピアノ線を使ったワイヤーレコーダー(鋼線式磁気録音機)である[7]

テレグラフォンに始まるワイヤーレコーダーは、人間の声を聴き取りうる実用水準で録音でき、長時間録音も可能であったが、音質向上は困難でワイヤー伸びも課題で、高価だったので一般人には普及せず、ごく一部の人に用いられたに過ぎなかった。簡易な録音機としてはトーマス・エジソンが発明した蝋管レコードの系譜に属する機械録音装置「ディクタフォン英語版」が第二次世界大戦以前の主流であった。

テープレコーダーの始まり

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第二次世界大戦中に
ドイツのラジオ局で使われていた
マグネトフォン (1942年以降の製品)

記録媒体に磁性体を塗布したテープを用いる方式はドイツで開発された。1928年にフリッツ・フロイメル(de:Fritz Pfleumer)が紙やプラスチック製のシートに酸化鉄を塗布した記録媒体を発明し、1933年にシューラーがリング状磁気ヘッドを発明し、化学メーカーのBASFはテープに用いるアセテート樹脂のフィルムを開発した。これらの成果を元に1935年に電機メーカーのAEGマグネトフォンを開発した[8]

その後、化学メーカーBASF社の協力によるテープ材質の改良(アセテート樹脂)と、1938年の五十嵐悌二、石川誠、永井健三[9][10][11]、同時期のドイツの国家放送協会ヴァルター・ヴィーベルHans-Joachim von Braunmühlドイツ語版、アメリカのマーヴィン・カムラス[12]による交流バイアス方式英語版の発明により1939年~1941年までに音質が飛躍的に改善され、マグネトフォンは実用的な長時間高音質録音装置となった。

この結果、ドイツの標準的なテープレコーダーであるマグネトフォン第二次世界大戦中のナチス・ドイツにおいて、政治宣伝・対敵宣撫放送用のメディアとして大いに活用された。アドルフ・ヒトラーの長大な演説[注釈 4]クラシック音楽を、レコード針等の雑音・ディスク交換による中断も無しにいつでも連続録音・再生でき、放送用記録媒体として優れていた。ラジオ放送用としてフルトヴェングラー指揮によるベルリン・フィルの演奏もテープ録音され、貴重な歴史的音源となっている[注釈 5]。この過程では、複数トラックを適切に分離して同時録音できる特徴を活かし、ステレオ録音もすでに試みられていたという。

軍用特殊用途として特筆されるのは、ドイツ海軍の潜水艦・Uボートの多くにテープレコーダーが搭載されたことである。潜水艦が発信する通信電波は敵方に自らの潜伏位置を知らせてしまう危険を伴う。そこで通信内容をテープレコーダで一旦録音し、それを早送り再生して送信した。これで無線交信時間が最小限となり、また傍受されても敵には内容解読が困難になる。第二次世界大戦後、この高速再生通信のアイデアは世界各国の軍用・外交・諜報の分野で情報秘匿通信に広く用いられるようになった。[注釈 6]

ドイツの敗戦後、テープ録音技術はアメリカに移転され、民生用途に広く転用されるようになった。1947年には3M社が磁気録音テープを発売した。1948年のLPレコード開発と相前後して、高音質へのニーズが高まり、レコード会社は高音質化と長時間録音実現のため、相次いでテープレコーダーを導入する。各国の放送局でもその利便性を買われ、同時期から長時間放送や音声取材の手段として活用されるようになり、特に取材ではポータブル・テープレコーダーが広く用いられた。

以後テープレコーダーはLP・EPレコードと並ぶメディアとして、レコード制作会社や放送局だけでなく、一般家庭にも広まっていくことになった。

ソニーG型テープコーダー

日本の製品としては1950年に東京通信工業(東通工、現・ソニーグループ)が紙テープ式のモデル「G 型」を発売したのが最初である[13]。なお東京通信工業では長い間「テープコーダー」(Tapecorder)と呼び、これは同社の登録商標だった(登録番号?)。1950年代の日本の民間放送の勃興と相前後して、ソニーは取材用の可搬型のものも先んじて開発し、その商標デンスケは、同社のプロフェッショナル用携帯レコーダーの商標、愛称として使われ続けた。商標の普通名称化まで起き、ナグラ英語版など他社の製品も含めてポータブル・テープレコーダーを指す名称として「デンスケ」を使う人も多くなった。[注釈 7]

日本における交流バイアス技術をめぐる小史

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東京通信工業はいち早く交流バイアス技術の重要性を見抜き、上記の五十嵐悌二、石川誠、永井健三による特許(通称永井特許、安立電気(現・アンリツ)が所有)を1949年に日本電気と共同で購入した(当時1946年に創業したばかりの東通工にとって非常に高額な投資だったので日本電気 (NEC) に半分出してもらった)。交流バイアス技術は現在のテープレコーダーにも使われているほど重要な技術で、この特許により他社は東通工製テープレコーダーの音質に全く太刀打ちできず、東通工は日本のテープレコーダー市場で高いシェアを占めることになった。

1952年、連合国軍占領下の日本を脱したその年に、東通工が、米国の貿易業者バルコム貿易が日本に輸入した米国製テープレコーダーが永井特許を侵害しているとして、輸入・販売・使用・陳列・移動などを禁止する仮処分を東京地方裁判所に申請し、9月15日に東京のバルコム貿易と日本橋高島屋、大阪心斎橋筋のミヤコ商会の三か所で米国製テープレコーダー数十台が一斉に仮差押えされるという事件が起きた。敗戦国の中小企業が戦勝国米国の企業を訴えたということで当時ニュースとなった。交流バイアス技術は米国ではイリノイ工科大学アーマー研究所 (Armour Research Foundation) のカムラス (Marvin Camras) の特許があり、米国らしくライセンスビジネスで儲けていたのである。それで米国アーマー研究所から弁護士がやってきたが、大変なことがわかってきた。

実は永井特許は米国にも出願されていたのだが、太平洋戦争が始まりそれはうやむやになってしまい、カムラスの特許が成立した。ところが永井氏の英語論文がカムラスの特許よりも早く米国で公表されていたのである。これが本当なら米国でのカムラスの特許は認められないことになり、日本国内どころか米国でのライセンスビジネス自体が崩壊してしまう。このことからアーマー研究所は大幅に譲歩し、東通工とアーマー研究所は「技術援助契約」を結ぶことで和解した。すなわち、日本国内では当然ながら永井特許が有効で、日本国内で販売される米国製テープレコーダーからは東通工と日本電気に永井特許の使用料が支払われる。また米国内で販売される東通工ならびに日本電気製テープレコーダーは米国のカムラス特許を無償で使用できる。他の日本メーカーが米国に輸出するテープレコーダーに関しては、東通工がアーマー研究所の代理人としてカムラス特許の実施許諾権を持ち、特許使用料の半分が東通工に支払われることになった。東通工は「名を捨て実を取る」和解をしたといわれる。

その一方で日本国内市場での東通工の姿勢は非常に強硬で、国内他社には決して永井特許を使わせなかった。そのため国内各社は相変わらず東通工製テープレコーダーの音質に歯が立たなかった。1954年、赤井電機が類似の「新交流バイアス」技術を使ったテープレコーダーキットを発売すると、東通工は告訴した(結果としては和解)。しかし1955年には永井特許の存続期間が終了するはずで、国内各社は交流バイアス技術を使用したテープレコーダーの商品化に向け準備を進めていた。ところが戦争により特許が充分行使できなかったという理由で特許期間が 5 年間延長されることになると国内各社は怒り狂い、東通工や通商産業省(現・経済産業省)に対する反発を強めた。あまりの風当たりの強さに東通工は1958年から永井特許の実施許諾を与えるようになった(もちろん有償)。東京通信工業はこの年の1月1日に社名をソニー株式会社に変更した。

一般家庭への普及

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一般家庭への普及は、扱いやすいコンパクトカセット方式、特にラジカセの普及によるところが大きい。

1960年代初頭にフィリップス社が開発したコンパクトカセットの技術が無償公開され、世界のメーカーがオープンリール式に加えてコンパクトカセット式テープレコーダーを開発・販売し、それがテープレコーダーの普及に貢献した。コンパクトカセットレコーダーに関してはアイワのほかスタンダード(マランツ)などの音響機器メーカーがモノラル据置型のレコーダーを販売した。ソニーのコンパクトカセットレコーダー第一号機は1966年(昭和41年)11月発売の「TC-100」(愛称「マガジンマチック100」)[* 1]だった。なおアポロ計画の宇宙船アポロにはソニーのカセットレコーダーTC-1010が持ち込まれた。会議録音用の小型テープレコーダーは1970年代前半ころから市場に出回った。

FM放送の開始とラジカセの登場、爆発的普及

日本ではFM放送が1957年のNHKの実験放送から始まり、民間放送局の実験放送、1960年には民間局の実用実験放送、そして1969年には本放送が始まり、FM受信装置を持っていれば雑音の少ない高音質の放送が聞けるようになった。この状況下で一部のオーディオマニアはFM放送を単体のチューナーで受信しオープンリールで録音したが、一般家庭の人々向けにコンパクトカセット方式でラジオ受信機も内蔵した一体型装置(ラジカセ)を開発・製造すれば良く売れるだろうといち早く気づいたメーカーがあった。日本で最初のラジカセは、クラウンというメーカー(現存しないメーカー)が1967年9月に発売した「クラウン マイカセットF CRC-9100F」である。次に松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)が1967年12月に、カセットテープレコーダーと2バンドラジオ(FM・AM)を組み合わせた RQ-231を発売。1968年5月にはアイワが国産初の3バンドラジオ(FM・SW・AM)式のラジカセTPR-101を発売し、 1968年の大卒初任給平均29,100円に相当する価格でいずれも高価ではあったが、アイワのTPR-101が27,500円(現金正価25,900円)で1番安くて、大卒初任給でも手が届いた上に、操作性が良く機能的にも優れていたのでアイワのラジカセが良く売れ、海外にも輸出されロングセラーになった。1970年代には各メーカーがラジカセを開発・販売するようになった。1970年3月にはソニー(現・ソニーグループ)が同社初のラジカセ CFM-8120を発売し、続いて日立製作所や東京芝浦電気(現・東芝)、日本ビクター(現・JVCケンウッド)、三菱電機、三洋電機、シャープなども、相次いでラジカセを市場に投入した。

音質の良いFM放送が1960年代から1970年代に行われるようになった時期がラジカセの発売の時期と重なっており、エアチェックブームが起き、また1970年代なかばにはSL(蒸気機関車)の走行音やライブ演奏の音を録音する「生録(なまろく)」ブームも起き、ラジカセが一般家庭に爆発的に普及することになったのだった。

メーカーはラジカセを高音質化、高出力化させ販売台数は伸びていった。特筆すべき機種はソニーが1974年(昭和49年)に発売したCF-1980(愛称:スタジオ1980)であり、16cmのウーファーと5cmツイーターの2ウェイスピーカーを備え、アンプの出力は3W、BASSとTREBLEが独立したトーンコントロール、クロームテープポジションを選択できるスイッチ、小音量再生時に低音と高音を増強して音に厚みを加えるラウドネススイッチを備え、すなわち当時として最高音質のラジカセで、さらにミキシング機能もついておりラジオの音声とマイクの音声を混ぜたり接続コードを使いテレビの音声を録音したりして楽しむことができ、さらに視覚的にも落ち着いたスキの無いデザインで、つまり音質的にも機能的にも視覚的にも魅力的な機種だったので、販売価格が4万2800円(1974年当時の大卒の国家公務員の初任給約7万円の6割ほどの価格)と高価であったにもかかわらず70万台というラジカセ史に残る販売台数を記録し、他のメーカーもそれを模倣した製品を開発・販売してゆくことになった。

日本のラジカセ市場の規模は1978年は年間約380万台規模まで成長していた。そして1979年に三洋電機が初代U4(MR-U4)を発売し、初代機だけで100万台も売れたので、ラジカセの市場規模が1979年に450万台規模に、翌1980年には530万台へと急成長した。

利用の減少

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2000年代に入ってから、ランダムアクセスが可能な半導体メモリを使うデジタル技術のレコーダー類が登場したことで、取材時の録音や備忘録的な用途[注釈 8]には半導体メモリを利用し特に小型・軽量なICレコーダー、高音質の録音を長時間する場合はハードディスクレコーダーの中でも高性能のステレオマイクを備えたもの、リニアPCMレコーダー[注釈 9]が選ばれるようになってきた[注釈 10]

2000年代以降はほとんどICレコーダーなどにとって代わられたが、録音された音声などを文字に書き起こす行為は一般にテープ起こしと呼ばれ、その名称に名残を見ることができる。

年表

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コンパクトカセットレコーダー関連の年表
  • 1962年 フィリップスによる発売開始。
  • 1965年
  • 1966年
    • アイワ(初代法人)が日本初の国産コンパクトカセットレコーダTP-707P を発売。この機種は、既に発売していたアイワ独自規格のカートリッジ式テープレコーダTP-707を改良し、コンパクトカセット規格に仕様変更した商品で、末尾のPはPHILIPSのPと考えられる。
  • 1967年
    • ステレオ録音・再生が可能なコンパクトカセットレコーダーを発売。フィリップス EL-3312 、アイワ TP-1004 、日本コロムビア(家電製品事業部、現:ディーアンドエムホールディングス) TRC-160など。
    • 9月、日本のクラウン(現存しないメーカー)が、日本で初のラジオカセットレコーダー「クラウン マイカセットF CRC-9100F」を発売。
    • 12月、松下電器産業が 2バンド(FM/AM)受信対応ラジオカセットレコーダー "RQ-231" を発売。(フィリップス社のメカをそのまま使ったラジカセ。ボタンの配置も悪く使いづらい上に、松下は当機を売る気がほとんど無かったらしく、販売台数はごく僅かだった。)
  • 1968年
    • アイワ(初代法人)が日本初の3バンド(FM/AM/SW)受信対応ラジオカセットレコーダー "TPR-101" を発売。(松下のRQ-231と比べて、ボタンの操作性、機能性、価格で優れていたので良く売れ、輸出もされ、ロングセラーとなった。その後のラジカセのデファクトスタンダードとなるようなボタン配置を最初に採用した機種である。)
    • ティアックが日本初の(本体にスピーカー接続用のパワーアンプを搭載しない)本格的な単品オーディオシステム用ステレオコンパクトカセットデッキ A-20 を発売。
  • 1970年
    • ソニー(現:ソニーグループ)が 2 ヘッド・クローズドループ・デュアルキャプスタン方式のコンパクトカセットデッキ TC-2200, TC-2300 を発売。
    • 松下電器産業がダイレクトドライブ方式のコンパクトカセットデッキ RS-275U を発売。
    • ドルビーラボラトリーズ、ドルビーBタイプ・ノイズリダクションを発表。日本では翌年、ティアック A-350 が先行採用して発売。
  • 1971年 ソニーが世界初の録音/再生兼用フェライトヘッド(F&F ヘッド)を搭載した TC-2130A を発売。
  • 1972年
    • 松下電器産業が録再独立式3ヘッド搭載のコンパクトカセットデッキ RS-279 を発売。
    • 中道研究所(現・ナカミチ)が業界初の録再完全独立式3ヘッド、およびクローズドループ・デュアルキャプスタン搭載の超高級カセットデッキ Nakamichi 1000 を米国にて先行発売(その後1973年に日本でも Nakamichi 700 と共に発売)。
  • 1973年
    • ソニーがポータブルカセットデッキ TC-2850SD 「カセット・デンスケ」を発売。
    • 日立製作所が録再コンビネーション式3ヘッド、およびクローズドループ・デュアルキャプスタン搭載のコンパクトカセットデッキ D-4500 を発売。
    • 松下電器産業が前面操作のコンパクトカセットデッキ RS-676U を発売。
  • 1976年
    • アイワがコンパクトカセットデッキ AD-7800 を発売。録音バイアス量調整 (FRTS) によりユーザーがテープごとに周波数特性を調整可能に。
    • 松下電器産業が 3 モーター 3 ヘッドのコンパクトカセットデッキ RS-690U を発売。
    • クラリオン(現:フォルシアクラリオン・エレクトロニクス)が世界初の家庭用ダブルコンパクトカセットデッキ MD-8080A を発売。
  • 1978年
    • 日本ビクター(現:JVCケンウッド)が業界初のメタルテープ対応カセットデッキ KD-A6、およびKD-A5 を発売(前者は同年11月発売、後者は同年12月発売)[14]
  • 1979年
  • 1980年 米ドルビーラボラトリーズ、ドルビーCタイプ・ノイズリダクションを発表。日本では翌年、アイワ AD-FF3 が先行採用して発売。
  • 1981年 ソニーが業界初の録音/再生兼用レーザーアモルファスヘッド(LA ヘッド)を搭載した TC-FX77 を発売。
  • 1990年 米ドルビーラボラトリーズ、ドルビーSタイプ・ノイズリダクションを発表。日本では翌年、アイワ XK-S9000 が先行採用して発売。
  • 1996年 パイオニアが業界初のデッキ内部での信号処理のデジタル化(ただし、録音・再生自体は当然、デジタルではない)を実現したデジタル・プロセッシングシステムを搭載したツイン録再オートリバースタイプのコンパクトカセットデッキ T-WD5R を発売。また翌年にはこちらも業界初となるデジタル・プロセッシングシステムを搭載した録音/再生コンビネーション3ヘッド・シングルキャプスタン搭載・片面録再シングルデッキタイプのコンパクトカセットデッキ T-D7も同社から発売された。

使用上の注意点

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コンパクトカセットのレコーダーの使用上の注意点は以下の通り。

湿式ヘッドクリーナー。穴にクリーニング液を数滴ほど垂らして録音機の場合は録音にして使う。右のクリーナーはカーオーディオにも対応。
定期的な清掃

ヘッドやキャプスタン、ピンチローラは汚れやすいため、約10時間ごとを目安に清掃することが望ましく[15]、長時間清掃しないで使用すると録音や再生に悪影響を及ぼすばかりか、テープにも余計な磁気鉄粉やホコリを付着させる遠因になることがある。清掃はクリーニングカセットを使う方法のほか、無水アルコールやイソプロ液などの液体と綿棒を使い手作業で清掃できる機種も多い(取扱説明書の指示に従う。カーステレオでは困難である。)ヘッド近辺にはグリスが塗布された可動部品も多く、うっかり綿棒でグリスに触れ広げてしまうと、後でテープを汚したりレコーダーが故障する恐れがある。

なおクリーニングカセットには研磨剤入りクリーニングテープを使用した乾式とアルコールを使用する湿式があるが、乾式の場合、過度の連続使用はヘッドの摩耗を招くことがある。定期的なクリーニングには湿式が好ましい[注釈 11]

定期的な消磁

再生専用機および3ヘッド式のレコーダー(再生ヘッドが独立している)では長期間再生をすることにより再生ヘッドが帯磁し、高域が出にくくなったり、雑音が増すことがある。この場合、カセット方式やオープンリール用のディマグネタイザー(消磁器)を利用して消磁する必要がある。一方で2ヘッド式レコーダー(録再ヘッド兼用)の場合、帯磁しても新品のカセットを挿入し、録音することで消磁する(セルフディマグネタイズ)ことが可能である。

カセット装填前の巻たるみの除去

テープに巻きたるみがあると走行不良の原因になることがあるので、確認窓からの視認でたるみがあれば、あらかじめ六角鉛筆などで巻き上げてからデッキに装填する[15]

カセットデッキのキャプスタンに巻きつき、カセットテープが次々と引き出されて、最終的に引きちぎられて切断された状態。
起こりうる深刻な事態

上で説明した清掃を怠ったりテープの巻たるみの除去を忘れた場合のほか、結露、メカの故障、テープの消耗、ベーステープの薄い長時間テープを選択したことでも、カセットデッキのキャプスタンやピンチローラーなどの内部機構に巻きつき、テープが次々と引き出されて、最終的に引きちぎられて切断されることがある。キャプスタンなどの内部機構に巻きついた場合は、カセットデッキからカセットを取り出せなくなることも多い。また、カセットデッキからカセットを取り出せても、右の画像のようにテープが大量に引き出された状態となる。このように破損したテープでも、その部分をハサミで切り落とし、正常部分同士をスプライシングテープでつなぎ合わせることで再使用が可能だが、切断した部分の録音内容は消失する。このような状況が頻発する場合、その主な原因は、キャプスタン、ピンチローラー、アイドラー、磁気ヘッドなどの各部の汚れや経年変化による摩耗、あるいはキャプスタン、リール駆動用のゴムベルトの経年劣化である。

脚注

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注釈

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  1. ^ 再生のみ対応の機器は「レコーダー」ではなく「プレーヤー(再生専用機)」と分類され、たとえばカセットテープの場合ならカセットプレーヤーなどという。
  2. ^ 関西あたりでは、手を加える手を入れるという意味の「手入れ」に接尾辞の「こ」をつけた「ていれこ」という言葉が古くにあり、略した「てれこ」は歌舞伎で複数の筋を一幕ごとに交互に展開させることを言い、取り違えという意味にもなった。これがしばしばカタカナで「テレコ」と表記されるので、テープレコーダーの略語の「テレコ」とかなり紛らわしいが、偶然両者とも「テレコ」となっただけであり、両者は語源が全く別であり、全く無関係である。(参照: 語源由来辞典 - テレコ
  3. ^ テープの変形損傷をしばしば「わかめ」と形容する。この形容は磁気テープメーカー技術者にも使われるほど一般化したものだが[1]、古くは高温多湿環境下でのアセテートの加水分解による化学的要因での変形(カーリング[2]と呼ばれる)を形容したものであった[3]。アセテートの加水分解による変形は磁気テープに限ったものではないため、映画フイルムの劣化[4]、マイクロフイルムの劣化[5]も「わかめ」と形容される場合がある(加水分解は変形以外にも様々な劣化を引き起こすため、フイルム類では総称としてビネガーシンドロームとも呼ばれる)。この劣化を避けるため磁気テープのベースは次第にポリエチレンで置き換えられたが、その後も「わかめ」の語は走行異常による損傷を形容する語として使われ続けた[6]
  4. ^ 放送を聴いても生か録音か判断できず、総統の行動を秘匿するのに役立ったという。
  5. ^ その貴重な録音テープの一部は、第二次大戦終結後にテープレコーダーシステム共々ソビエト連邦に収奪され、ソ連の国営レコード会社メロディアからレコード化されて売り捌かれた。
  6. ^ 1979年のイラン革命に際してはこの方法を使い、ホメイニ師(当時イラン国外に亡命中)の音声を、国際電話経由でイラン国内の支持者に伝達した。(もっとも、秘話装置がその頃既に開発されており(秘話#歴史)、最重要な通話にはそれらが使われた。ここで述べている方法は時間軸方向の圧縮と、簡便な点が利点である)
  7. ^ 当時の業界人ではかなり一般的な用法となっていた。当時ポータブル機を使っていた人は現在でも「私はあの時、デンスケを担いで取材していました」などと "当時のポータブル・テープレコーダー" という意味で使う。
  8. ^ 小型のレコーダーには、ペンを持ったりキーボードを使うのはおっくうな場合に声でメモをとるという用途もある。夜間、眠りかけた時や睡眠の途中に目覚めた時に限って良いアイディアを思いつく人などは、枕元に音声レコーダーを置いておき音声メモをとるという利用のしかたをする。レコーダーの録音ボタンの位置さえ分かっていれば部屋が暗い状態でも音声メモがとれるというメリットがある。一方、作曲をするアーティストでは、ふと思いついたメロディを忘れないうちに記録するのがかなり難しく、五線紙やペンを用意している間に忘れてしまい悔しい思いをしているアーティストは多く、以前ならばマイクロカセット・レコーダー、近年ではICレコーダーを使い自分の鼻歌などですかさず記録するという方法にたどり着いた、などという談話は音楽関係の書籍や雑誌には時折掲載されている。
  9. ^ CDレコーダーMDレコーダーなども一時期使われた。
  10. ^ 一方でこれらデジタルレコーダーはファイルの管理領域が論理的・物理的に壊れると内容が事実上全て失われる点が短所である。
  11. ^ ただし、再生専用磁気ヘッドにDCCレコーダー用ヘッドの技術をそのまま応用した再生専用薄膜ヘッドを採用した松下電器産業(テクニクスブランド)が製造・販売したカセットデッキ「RS-AZ7」は例外的に湿式によるヘッドクリーニングは厳禁とされており、誤って湿式によるヘッドクリーニングやヘッド消磁を行うと最悪の場合、薄膜ヘッド内部の素子が破壊されて再生不可能となる場合がある。
  1. ^ 最大出力 1W、幅140mm×高さ60mm×奥行237mm、電池を含んで1.75kg、AC100V、単二×4あるいは充電式バッテリ(BP-9)で動くという製品で、24,800円だった。

出典

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  1. ^ 日比野信郎 (1985), 磁気記録材料用ベースフィルム, p. 24, https://dl.ndl.go.jp/pid/2241609/1/15 
  2. ^ ソニー (1964), “録音用語”, 放送教育 19 (1): 79, https://dl.ndl.go.jp/pid/2341236/1/40 
  3. ^ 小松元 (1956), “故障が起きたらこのコツで テープレコーダーの故障對策”, ラジオ科学 20 (3): 92, https://dl.ndl.go.jp/pid/3565771/1/49 
  4. ^ 須佐見成 (2000), “「瀧の白糸」復元作業”, 映画テレビ技術 571: 20, https://dl.ndl.go.jp/pid/4433352/1/11 
  5. ^ 国立国会図書館 主題情報部 新聞課 (2008), “使う人がいる 守る人がいる 第7回 マイクロ資料”, 国立国会図書館月報 568: 27, https://dl.ndl.go.jp/pid/1001060/1/1 
  6. ^ 坪井謙旺 (1968), “テープ再生に関する諸注意 メカニズム”, 中南米音楽 167: 138-139, https://dl.ndl.go.jp/pid/2267570/1/70 
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  10. ^ 全金属製真空管物語
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  15. ^ a b カセットテープの取り扱いについて”. オンキヨー. オンキヨー&パイオニア. 2021年3月21日閲覧。

関連項目

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