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六車卓也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
六車 卓也
基本情報
本名 六車 卓也
通称 Endless Fighter(エンドレス・ファイター)
階級 バンタム級
身長 166cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1961-01-16) 1961年1月16日(63歳)
出身地 大阪府大阪市
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 31
勝ち 26
KO勝ち 20
敗け 3
引き分け 2
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六車 卓也(むぐるま たくや、1961年1月16日 - )は、日本の元プロボクサー大阪府大阪市旭区出身[1][2]。元WBA世界バンタム級王者。大阪帝拳所属。スタミナとタフネスが身上の連打型の右ファイターで、「エンドレス・ファイター」の異名を持った[3]

来歴

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プロ入り前

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近大附属高校(在学中はラグビーに所属[3])、近畿大学理工学部卒業。

大学1年の冬休みに大阪帝拳ジムに入門し、アマチュアボクシング3戦2勝1敗を経てプロボクサーとなった[3]

フェザー級

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1981年4月9日、プロデビュー(2RKO勝ち)。

1981年12月7日、西日本フェザー級新人王獲得。同時に全日本新人王決定戦への出場権も得る。

1982年2月15日、杉谷満に判定勝で全日本フェザー級新人王獲得。

スーパーバンタム級

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その後も無敗で連勝を続け、1983年11月29日には日本スーパーバンタム級王者岩本弘行に4回終了TKO勝ちし、デビューから15連勝で日本スーパーバンタム級タイトルを獲得[3]

日本王座4度防衛後の1985年3月9日、日本王座を保持したままOPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者崔然甲韓国)に挑戦したが、12回判定負け(なお、崔とはその後、1986年8月21日にノンタイトル戦で再戦し、2回KO勝ちで雪辱を果たした)。その後、日本王者として防衛回数を7まで伸ばし、1986年12月に王座返上。

バンタム級

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1987年3月29日、ベルナルド・ピニャンゴ英語版が返上に伴いアサエル・モランパナマ)とWBA世界バンタム級王座決定戦を行い、5回TKO勝ち。27戦目で世界王者に輝く。

1987年5月24日、初防衛戦。1位の朴讃栄(韓国)と対戦し、11回1分26秒TKO負け。2ヵ月弱で世界王座を手放す。

1988年1月17日、世界再挑戦。前年10月に朴を降してWBA世界バンタム級王座を獲得したウィルフレド・バスケスプエルトリコ)に挑むが、フルラウンドの激闘の末、三者三様の引き分けで世界王座返り咲きならず(この試合を皮切りに、その後、国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗回数が「21」まで伸びる)。

スーパーバンタム級復帰

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1988年10月16日、2階級制覇を目指し、WBA世界スーパーバンタム級王者ファン・ホセ・エストラーダ英語版メキシコ)に挑むが、11回2分7秒TKO負けを喫し、この試合を最後に現役引退

引退後

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現役引退翌年の1989年にスポーツメーカーミズノに入社[4]し、営業で活動[5]、その後肝硬変を患い、ミズノを2013年に退社[4]したものの、2014年2月に3歳下の弟の肝臓の3分の2を移植する手術を受けて順調に回復している[5]

2012年度から芦屋大学客員教授[6]、2013年度から同大学特任教授に就任し[4][7][4]芦屋学園ボクシング部監督としても活動[8]、芦屋大学ではスポーツマネジメントなどを教えていた[5]

2018年5月から大阪帝拳のヘッドコーチ(HC)に就任した[9]

人物

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トランクスには「MUSHA」とプリントされていた。ムシャ(MUSHA)とは高校時代のラグビー部でのあだ名である。またプロボクサー時代の(MUSHA)は武者との意味もある。

関西ローカルの深夜番組「エンドレスナイト」にて番組をあげて六車応援大作戦を展開していたことから、エンドレスファイターと名づけられた。実際に世界戦では、エンドレスナイト製スポーツタオルをトレーナーやスタッフが使用している。

獲得タイトル

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脚注

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関連項目

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外部リンク

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前王者
岩本弘行
第15代日本スーパーバンタム級王者

1983年11月29日 - 1986年12月(返上)

空位
次タイトル獲得者
マーク堀越
空位
前タイトル保持者
ベルナルド・ピニャンゴ
WBA世界バンタム級王者

1987年3月29日 - 1987年5月24日

次王者
朴讃栄