コンテンツにスキップ

日劇ウエスタンカーニバル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日劇ウエスタンカーニバル(にちげきウエスタンカーニバル)は、1958年2月から1977年8月まで、日本劇場で開催されていた音楽フェスティバルである。 全57回公演(実際は56回)。

概要

[編集]

日本劇場を運営する東宝1958年2月8日(土曜日)から第1回を開催したものである[注釈 1]。観客動員数は初日だけで9,500人、1週間で45,000人を記録した[1]。この数字は、ドーム球場日本武道館といった大規模なコンサート会場が存在しない1950年代当時の日本[注釈 2]としては、異例の記録である。

この企画が当たったことで、以後も定期的に開催されるようになった。1950年代にはロカビリーブームを生み、1960年代後半にはグループ・サウンズ(以後GS)ブームが巻き起こった。

また、GS時代には、出演者のパフォーマンスに対する賞が設けられており、回ごとにそれを決定していた。GSにとって象徴的な行事となり、連日超満員となった。

GSブーム最盛期においては有楽町駅前から東京駅近くまで約1kmに渡って前売券を買う人々の行列が連なり周囲は騒然となった[2]

しかし、GSブームの終焉とともに客足も遠退き、1970年代は主にジャニーズ事務所スクールメイツのタレントをメインとしたアイドルショーとなっていった。例えば、キャンディーズの単独ショーも「ウエスタンカーニバル」として行われたことがある(1975年8月26日「日劇ウエスタン・カーニバル 〜キャンディーズ・ショー〜」等)。そして1977年8月の第57回[注釈 3]をもって幕を閉じた。

1981年1月、老朽化に伴う複合ビル計画により日本劇場の閉鎖・解体が決定したことを受け、1月22日より4日間、内田裕也プロデュースによる「サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル 〜 俺たちは走り続けている!」が開催され、ロカビリー時代のスターや、ザ・タイガースザ・スパイダースを始めとした人気GSの面々も再結成し出演。大きな話題となった。

2000年11月からは「想い出のウエスタンカーニバル」と銘打ち、主にロカビリー時代の出演者による同窓会的なコンサートが定期的に行われている。2008年12月25日にはウエスタンカーニバル開催50周年を記念し、閉館間近の新宿コマ劇場で「ウエスタンカーニバル・クリスマス同窓会50th」が開催された[3]

第1回開催まで

[編集]

1954年からウエスタンバンドが集まって、有楽町蚕糸会館6階の東京ヴィデオ・ホール[注釈 4]で「ウエスタンカーニバル」というイベントが開催されていた。1950年代半ばころになると入場できないファンも出るほどの盛況となり、「親衛隊」のような熱烈な女性ファンも付くようになっていた。その一方、ウエスタンバンドのメンバーたちは東京ヴィデオ・ホールの出演時以外は東京都内の小さなジャズ喫茶で細々と演奏を行っていた。

そうしたウエスタンバンドのパフォーマンスに注目したのが、渡辺プロを立ち上げて間もない頃の渡辺美佐であった。美佐はジャズの次の音楽ビジネスの中心になるものを模索していたが、たまたま美佐の実妹の曲直瀬信子がロカビリーのファンで、美佐は信子の紹介でジャズ喫茶や東京ヴィデオ・ホールでのウエスタンバンドのイベントに足を運んでおり、一つの試みとして「2月の暇な時期に若い子にウエスタンでもやらせたら」と思い立った。

だが、当時無名であったウエスタンのバンドを集めてのイベントに劇場側は「客を呼べるのか?」と懐疑的で、実際に浅草国際劇場には開催を断られていた。美佐は知人の演出家・山本紫朗のもとを訪ね、2人で日本劇場に企画を持ち込んだ。日劇も最初は渋ったが、観客動員が期待できないとされた2月の開催ということもあって承諾した。

一方、東京ヴィデオ・ホールでの「ウエスタンカーニバル」を実質的に取り仕切っていたスウィング・ウエストのリーダー・堀威夫も東京ヴィデオ・ホールやジャズ喫茶での観客の反応を肌で感じて、「東京ヴィデオ・ホールより大きい劇場で開催しても成功する」と確信し、より収容人員の多い日劇での「ウエスタンカーニバル」開催を思い立った。ただ、堀たちには日劇とのコネクションがなかったため、ジャズプレイヤーとして幾度か日劇の舞台に立っていた渡辺晋の元に相談に行った。ここで晋から自身の妻である美佐に話を持っていくように言われ、思惑の一致を見たことで美佐・山本・堀の3人が中心となって「第1回日劇ウエスタンカーニバル」の企画が進んでいった。

「日劇ウエスタンカーニバル」を開催するに当たり、山本は構成・演出を担当。出演者の選考、演奏曲目、出演順の決定、チケットなどの営業活動は全て堀が担当した(後述の「ロカビリー3人男」を「日劇ウエスタンカーニバル」に引っ張ってきたのも堀である)。また、美佐の妹・信子もファンとの横のつながりを生かして、親衛隊にテープ投げを依頼するなど制作サイドと観客の橋渡し役となった[注釈 5]

こうして開催された「第1回日劇ウエスタンカーニバル」は前述のような成功を収めた。

その後

[編集]

美佐はこのイベントの成功で「ロカビリーマダム」(「マダムロカビリー」とも)という称号を得て、一躍脚光を浴びることになった。夫である晋もこのイベントの成功を見て、1958年9月にジャズプレイヤーを引退し、美佐と立ち上げた渡辺プロの経営に本腰を入れるようになる。渡辺プロにとってはその後「ナベプロ帝国」と呼ばれる地位を築く足掛かりとなるイベントとなった。

一方、堀はこのイベントに関わったことが縁で、一時客分格で渡辺プロに身を置くことになったが、やがて「日劇ウエスタンカーニバル」でスターダムにのし上がった守屋浩を主演にした映画『檻の中の野郎たち』[注釈 6]を制作したことで美佐の怒りを買い、結果的に渡辺プロを去り、自身のプロダクションであるホリプロ創設に至っている。この時、守屋も堀と行動を共にし、ホリプロ所属となった一方、東京ヴィデオ・ホール時代から「ウエスタンカーニバル」で共に活動してきたグループの大半は「ウエスタンカーニバル」にとどまったため、堀と守屋だけが飛び出すかたちとなった。

こうした経緯も影響してか、その後スウィング・ウエストも守屋[注釈 7]も「日劇ウエスタンカーニバル」からは締め出され、さらにGS時代に移った後も、出演したグループは事実上渡辺プロもしくはその系列に所属するものに限られ、ホリプロ系列所属のグループは締め出されることになった[注釈 8]

堀は後に「『いいバンドを一つつくり上げていけばいいんだ』じゃあだめ、質を追求すると同時に、量もある程度追求しないとほんとうの意味の力にならない、ということを知った。」と当時を振り返っている。

主な出演者

[編集]

開催年月日

[編集]
  • 第1回 日劇ウエスタン・カーニバル (1958年2月8日 - 14日)
  • 第2回 日劇ウエスタン・カーニバル (1958年5月26日 - 6月1日)
  • 第3回 日劇ウエスタン・カーニバル (1958年8月26日 - 9月2日)
  • 第4回 日劇ウエスタン・カーニバル (1958年12月16日 - 22日)
  • 第5回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1959年1月20日 - 27日)
  • 第6回 日劇ウエスタン・カーニバル (1959年5月5日 - 15日)
  • 第7回 日劇ウエスタン・カーニバル (1959年8月25日 - 31日)
  • 第8回 日劇ウエスタン・カーニバル (1959年12月9日 - 15日)
  • 第9回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1960年1月22日 - 28日)
  • 第10回 日劇ウエスタン・カーニバル (1960年5月7日 - 15日)
  • 第11回 日劇ウエスタン・カーニバル (1960年8月25日 - 31日)
  • 第12回 (存在しない幻の回)[注釈 9]
  • 第13回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1961年1月16日 - 23日)
  • 第14回 日劇ウエスタン・カーニバル (1961年5月6日 - 14日)
  • 第15回 日劇ウエスタン・カーニバル (1961年8月28日 - 9月4日)
  • 第16回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1962年1月7日 - 14日)
  • 第17回 日劇ウエスタン・カーニバル (1962年5月)
  • 第18回 日劇ウエスタン・カーニバル (1962年8月)
  • 第19回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1963年1月14日 - 21日)
  • 第20回 日劇ウエスタン・カーニバル (1963年5月5日 - 12日)
  • 第21回 日劇ウエスタン・カーニバル (1963年9月2日 - 8日)
  • 第22回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1964年1月14日 - 21日)
  • 第23回 日劇ウエスタン・カーニバル (1964年5月5日 - 12日)
  • 第24回 日劇ウエスタン・カーニバル 〜 ペギー・マーチがやってきた (1964年8月26日 - 9月1日)
  • 第25回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1965年1月14日 - 21日)
  • 第26回 日劇ウエスタン・カーニバル (1965年5月5日 - 12日)
  • 第27回 日劇ウエスタン・カーニバル (1965年8月28日 - 9月3日)
  • 第28回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1966年1月15日 - 21日)
  • 第29回 日劇ウエスタン・カーニバル (1966年5月5日 - 12日)
  • 第30回 日劇ウエスタン・カーニバル (1966年8月)
  • 第31回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1967年1月15 - 22日)
  • 第32回 日劇ウエスタン・カーニバル (1967年5月5日 - 12日)
  • 第33回 日劇ウエスタン・カーニバル (1967年8月26日 - 9月1日)
  • 第34回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1968年1月15日- 22日)
  • 第35回 日劇ウエスタン・カーニバル (1968年5月4日- 10日)
  • 第36回 日劇ウエスタン・カーニバル (1968年8月26日- 9月2日)
  • 第37回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1969年1月14日- 21日)
  • 第38回 日劇ウエスタン・カーニバル (1969年5月5日- 12日)
  • 第39回 日劇ウエスタン・カーニバル (1969年8月25日- 9月1日)
  • 第40回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1970年1月15日 - 22日)
  • 第41回 日劇ウエスタン・カーニバル (1970年5月2日 - 8日)
  • 第42回 日劇ウエスタン・カーニバル (1970年8月25日 - 9月1日)
  • 第43回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1971年1月15日 - 22日)
  • 第44回 日劇ウエスタン・カーニバル 〜 みんなで踊ろう! (1971年4月23日 - 29日)
  • 第45回 日劇ウエスタン・カーニバル (1971年8月27日 - 9月2日)
  • 第46回 新春日劇ウエスタン・カーニバル (1972年1月15日 - 22日)
  • 第47回 日劇ウエスタン・カーニバル (1972年5月6日 - 12日)
  • 第48回 日劇ウエスタン・カーニバル (1972年8月26日 - )
  • 第49回 日劇ウエスタン・カーニバル (1973年5月)
    • 「フォーリーブス ショー」 (5月4日)
    • 「郷ひろみ ショー」 (5月5日 - 6日)
    • 「ヤング・アイドル ショー (西城秀樹伊丹幸雄草刈正雄)」 (5月7日 - 8日)
    • 「沢田研二 ショー」(5月9日 - 10日)
  • 第50回 日劇ウエスタン・カーニバル (1973年8月)
  • 第51回 日劇ウエスタン・カーニバル (1974年4月)
  • 第52回 日劇ウエスタン・カーニバル (1974年8月)
  • 第53回 日劇ウエスタン・カーニバル 〜 ばらとみかんとバイオリンと (1975年3月28日 - 31日)
  • 第54回 日劇ウエスタン・カーニバル (1975年8月)
    • 「キャンディーズ ショー」 (8月26日)
    • 「ジャニーズ・ファミリー・フェスティバル」 (8月27日)
  • 第55回 日劇ウエスタン・カーニバル (1976年3月24日 - 28日)
  • 第56回 日劇ウエスタン・カーニバル (1976年8月24日 - 28日)
  • 第57回 日劇ウエスタン・カーニバル (1977年8月)
  • サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル 〜 俺たちは走り続けている! (1981年1月22日 - 25日)
    内田裕也プロデュース。4日間で昼夜計8回公演。2度テレビ放映[注釈 10]され、後にカセット、CD化。
  • サヨナラ日劇FESTIVAL 〜 あゝ栄光の半世紀 (1981年1月28日 - 2月15日)

日劇終了後の公演

[編集]
  • 新宿NSビルX’masスペシャル ウエスタンカーニバルinNS・なつかしのアイドル大集合編(1987年12月19日、新宿NSビルイベントホール)
    林寛子伊藤咲子シェリー豊川誕あいざき進也伊丹幸雄出演。
  • 想い出のウエスタンカーニバル2000 (2000年11月、中野サンプラザ
    2000年以降定期開催。 2009年のみタイトルが「甦る青春ウエスタンカーニバル」。
  • ウエスタンカーニバル・クリスマス同窓会50th (2008年12月25日、新宿コマ劇場
    第1回目の日劇ウエスタン・カーニバルから50年記念として開催された。
  • MIN-ON ウエスタン・カーニバル ファイナル(2015年9月30日、ゆうぽうと[5][6]
    ゆうぽうとホール閉館を記念して一日限りの復活。

関連作品

[編集]
  • コミックス・アニメ・舞台「RAINBOW-二舎六房の七人-」 - 作中主要キャラクターの一人である混血児「横須賀ジョー」が歌手として実力を認められ、日劇ウエスタンカーニバルへの出場を果しかける話が登場。

参考文献

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ これを記念し、2月8日は「ロカビリーの日」と制定されている。
  2. ^ 武道館は1964年、東京ドームは1988年竣工。
  3. ^ 実際の公演回数は全56回だが、カウントミスによって57回公演したことになっている。
  4. ^ 小谷正一が1953年にラジオ・テレビ局向けに公開放送用の賃貸ホールとして開設した。客席数は約400席。「ビデオホール」とも通称されていた。近隣のよみうりホール1957年開設)と混同されることが多いが全くの別物である。
  5. ^ 山本は美佐にウエスタンを紹介したことと合わせ、信子を「ウエスタンカーニバルを始めた頃の一番の功労者」と評している。
  6. ^ 「三人ひろし」「ロカビリー3人男」のメンバーも出演していた。
  7. ^ ホリプロ移籍後はウエスタンから歌謡曲へ転向した。
  8. ^ ホリプロ内で独立稼動していたスパイダクション所属のザ・スパイダースザ・テンプターズなどを除く。
  9. ^ 1960年の11月26日から12月31日まで、日劇が場内改修のために休館となった。これにより、2年続いた年末公演は中止。本来であれば翌年1月の公演が第12回目に当たるが、カウントミスが発生し、翌年1月の公演が第13回目という扱いになってしまう。以後、実際の公演数に対し、公演タイトルにある「第○回」のカウント表記は、一つ多く数えられてしまっている。
  10. ^ 1981年1月30日と同年3月27日(双方とも金曜)に、フジテレビ系列の19:30 - 20:54で放送。企画制作は渡辺プロダクション、監修は塚田茂、プロデューサーは王東順が担当した。

出典

[編集]
  1. ^ 第1回日劇ウエスタンカーニバル 昭和のニュース(昭和毎日/毎日新聞社)
  2. ^ 熱狂GS図鑑 黒沢進著 徳間書店 1986年1月刊 67頁。
  3. ^ 「ウエスタンカーニバル・クリスマス同窓会50th」
  4. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、87頁。ISBN 9784309225043 
  5. ^ 公演詳細”. 民音. 2016年10月11日閲覧。
  6. ^ 日劇ウエスタン・カーニバルが1日限りの復活”. 日刊スポーツ (2015年9月30日). 2016年10月11日閲覧。

外部リンク

[編集]