イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (プロンスク公)
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イジャスラフ・ウラジミロヴィチ Изяслав Владимирович | |
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プロンスク公 | |
在位 | 1207年 |
死去 |
1217年 イサドィ |
家名 | リューリク家 |
父親 | プロンスク公ウラジーミル |
イジャスラフ・ウラジミロヴィチ(ロシア語: Изяслав Владимирович、? - 1217年)は、プロンスク公ウラジーミルの子である。プロンスク公:1207年。
生涯
[編集]イジャスラフの兄弟のグレプ、オレグはキエフ大公フセヴォロド3世に讒言し、おじのロマン(ru)、スヴャトスラフ(ru)、いとこのイングヴァリ(ru)、ユーリーを投獄した。プロンスク公ミハイルはチェルニゴフへ脱出したため、イジャスラフはプロンスクの防衛を担ったが果たせず、プロンスク公位にはオレグが就いた。
1208年から1209年にかけての冬に、イジャスラフとミハイルはウラジーミル大公国を侵略したが、モスクワ付近でユーリーの率いるウラジーミル・スズダリ公国軍に敗れた。
1217年、イジャスラフはイサドィ諸公会議[注 1]において殺害された。イジャスラフの家族・子孫に関しては不明である。
注釈
[編集]参考文献
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