愛新覚羅氏
民族 | 女真族/ 満洲族 |
始祖 | ヌルハチ[1] |
発祥時期 | 万暦44 (1616)?[2] |
現相続人 | 金毓嶂 (14代目) |
名称表記 | |
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仮名 | アイシン・ギョロ (ハラ/氏) |
転写 | aisin gioro (hala) |
漢文 | 愛新覺羅 (氏) |
日本語読み | あいしんかくら(し) |
注音 | ㄞˋㄒㄧㄣ ㄐㄩㄝˊㄌㄨㄛˊ (ㄕˋ) |
ほ | 爱新觉罗 (氏) |
拼音 | àixīn juéluó (shì) |
アイシン・ギョロ・ハラ (愛新覚羅氏、あいしんかくらし[3]) は、建州女真が発祥とされる満姓 (満洲族の姓氏) の一つで、あまた存在するギョロ・ハラの一つ。
アイシンは満洲語で「金」の意 (「愛新」は漢文音訳)。アイシン・ギョロ・ハラも、アイシン・グルン (後金国) も、ともにヌルハチの代で成立したとされ、これらの金アイシンは、実際にはかつてワンヤン氏女真族が樹立した"金"王朝を指すとされる。[4]
嘗てはダイチン・グルン (大清国) の国姓とされたが、清朝滅亡後は同氏族の多くが漢姓として「金」に改称した。但し、「愛新覚羅氏」は現在も中華人民共和国、中華民国 (台湾) を中心に、そのほか日本にも存在する。
最後の皇帝・宣統帝溥儀とその同母弟・溥傑[5]には男子がなく、1994年に溥傑が死去してからは、その異母弟・溥任が皇位継承順位の一番となった。2015年の溥任の死後はその長子・金毓嶂が承継したが、「愛新覚羅」ではなく漢姓の金に改称している。従って、清朝 (および満洲帝国) が崩壊した今、金氏はアイシン・ギョロ氏の相続人ではあるが、当主ではない。
沿革
[編集]16世紀後半のヌルハチ (1559年生) の父祖一族は、デシク、リョチャン、ソオチャンガ、ギョチャンガ (ヌルハチ祖父)、ボオランガ、ボオシの合計六人の兄弟 (後に六祖ニングタ・ベイレと呼ばれる) と、22人の息子たちで構成される小規模な家族組織にすぎなかった。
ヌルハチは当初、単に覺羅氏ギョロ・ハラを名告ったとされる。それは、2000年代になって発見された史料中の、『滿洲實錄』から削除されたと思しき実録の原稿からも明らかで、そこではヌルハチがドンゴ (donggo) 部やフネヘ (hunehe) 部の者に対して「我らは同じギョロ・ハラ」と語っている。しかし、ヌルハチが後金アイシン・グルンを樹立し、汗ハンを自称し、女真全土を統一する過程の中で、ヌルハチ一族のうちに貴族意識が徐々に芽生え始めると、ほかの部族との差別を図ろうとする意識が生れた。その結果として生れたのがアイシン・ギョロであったとされる。[6]
清代になると、ニングタ・ベイレ (ギョチャンガの兄弟) の子孫[7]はギョロ・ハラと呼ばれて、アイシン・ギョロ・ハラとは区別され、直系のアイシン・ギョロ・ハラは黄帯子、傍系のギョロ・ハラは紅帯子とその服飾においても差別された。また、ヌルハチの父・タクシ (清顕祖) 以下の子孫を宗室ウクスンとし、それ以上の世代とも区別された。[8]
神話
[編集]『滿洲實錄』巻1には、アイシン・ギョロ・ハラの由来として次のような起源譚を記載している。
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長白山ゴルミン・シャンギャン・アリンの東北に位置するブクリ・アリン (布庫哩・山) の麓に、ブルフリという池があり、ある時、天から三人の仙女が降臨した。長女はエングレン、次女はジェングレン、三女はフェクレンといった。三人が池で沐浴し、岸にあがったとき、一羽のかち烏が飛来し、三女・フェクレンの衣の上に鮮やかな赤い木の実を落としていった。フェクレンはその木の実をいたく愛で、失すまいと口に咥えたまま衣を着始めたところ、そのまま呑み込んでしまった。忽ちお腹が大きく重くなり、困ったフェクレンは二人の姉にそのことを告げた。すると姉二人は「それも天の思し召し。重くて飛べないなら、軽くなってから昇っておいで」とにべもなく先に天へ帰ってしまった。
フェクレンはその後、男の子を一人産んだ。男の子は産まれ出でるやすぐに言葉を話し、あっという間に大きく成長した。フェクレンは大きくなった我が子に対し、「実はあなたは天が産ませた子。地上の争える国を鎮めんと、天がかち鳥に託した赤い木の実がまさしくあなた。その国に赴き、あなたが産まれ出た訣を詳しく語ってお聞かせなさい。この舟に乗って川をくだれば、そこがその国」と言い果てると、天に帰ってしまった。男の子は母にいわれた通り舟にのって川を下り、人々が暮らす集落の岸にあがると、柳の枝で腰かけを拵えてそこに坐った。
その頃、長白山ゴルミン・シャンギャン・アリンの東南にひろがるオモホイ・ビガン (鄂謨輝・野) には、オドリ・ヘチェン (鄂多理・城) と呼ばれる城があり、そこでは姓の異なる三つの氏族が覇権を争って、日ねもすがら殺し合っていた。ちょうど一人、水を汲みにきた者があり、男の子を見とめた。見た目も振る舞いもみるからに常人と異なるため、城に戻ると皆にそのことを告げ、争っている場合ではない、皆で行ってみてみようと促した。三つの氏族たちはそこで争いをひとまづやめ、連れ立って川縁まできてみると、なるほど果たして特別な雰囲気を放っている。不思議に思ってその素性を尋ねると、男の子は答えた。「我は天女フェクレンの子。姓はアイシン・ギョロ、名はブクリ・ヨンション。天は汝らの争いを鎮めるべく我を遣わせり。」さらに続けて自らの産まれ出た経緯を詳しく語ってきかせた為、三つの氏族たちはいたく驚き、地べたを歩かせるなどとは畏れ多いと、互いに腕を組み合って輿の形を作り、ブクリ・ヨンションを載せて城へ帰った。そして三氏族は争いをやめてブクリ・ヨンションを城主に戴き、ベリ・ゲゲという娘を娶らせて、新たな国をマンジュ (満洲) と呼んだ。これが清朝宗室・アイシン・ギョロ・ハラの起りである。
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さて、以上はあくまでも神話の域をでないため、もとより歴史的事実とは認められないが、[9]稻葉岩吉は自身の著書『清朝全史』(早稲田大学, 1914) において、この伝説は、実録を編纂した大臣どもが、当時女真社会に流布していた種々の伝説や神話を寄せ集めて創作したものではなかったかと疑問を呈している。その根拠として以下の点を挙げている。
- 仙女を三人とする伝説は、高句麗のチュモン (朱蒙) の伝説にもみられる。
- 三仙女が沐浴し、そこに鳥が飛来するという伝説は、中国最古 (史料上) の商 (殷) の伝説にもみられる。
- 三姓の抗争の伝説は、金史の中に類似の記載がみられる。
考証
[編集]『八旗滿洲氏族通譜』未収の謎
[編集]ギョロとつく姓氏にはアイシン・ギョロのほかに代表的なもので、
- イルゲン・ギョロ (irgen-, 伊爾根-):満洲文字 (無点圏) 発明者の一人であるガガイなど。
- シリン・ギョロ (sirin-, 西林-):『八旗滿洲氏族通譜』の編纂者の一人であるオルタイなど。
などがあり、これ以外にも多種多様なギョロ氏が存在する。稻葉 (上述) は同著書の中で、いくら国姓だからとはいえ、『八旗滿洲氏族通譜』にアイシン・ギョロが収録されず、さらにほかのギョロ氏との関係性なども一切言及されていないのは、素性に疑問を持たせると述べる。
父祖についての謎
[編集]「神話」でも紹介した通り、『滿洲實錄』巻1に拠れば、アイシン・ギョロ氏はブクリ・ヨンションをその始祖とする。
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- ブクリ・ヨンション (bukūri yongšon, 布庫哩・雍順):仙女・フェクレンの子。
- 不詳 (数世代)
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以上が『滿洲實錄』巻1で紐解かれるヌルハチ父祖の世系であるが、この内、ヌルハチから遡って、明朝や李氏朝鮮の史料と照合の取れる人物は精々がギョチャンガ (ヌルハチ祖父) までで、清朝史料で「覚昌安jiàochāngān」と漢字表記されるギョチャンガは、明朝史料で「教場jiàochǎng」などと表記され (参考までに普通話拼音を漢字の後ろに記す)、タクシは清朝史料で「塔克世tǎkèshì」、明朝史料で「塔失tǎshī」などと表されるが、フマン (同曽祖父) およびシベョチ・フィヤング (同高祖父) については該当する人物をみいだせない。
続いては明代史料にみえる建州左衛と建州右衛の世系。
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- 不詳
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以上の二つの家系をみくらべると、ファンチャからの数代は明朝側の記録中に比定できる人物を見出し得る。
- 「ファンチャfanca」と「凡察fánchá」
- 「メンテムmentem」と「猛哥帖木児měnggētiēmùér」
- 「チュンシャンcungšan」と「童倉tóngcāng/董山dǒngshān」
- 「トロtolo」と「脱羅tuōluó/土老tǔlǎo」
- 「トイモtoimo」と「脱原保tuōyuánbǎo」
しかし、またもシベョチ・フィヤングおよびフマンの二代に該当する人物は見出し得ない。惜しむらくは、明朝の史料は「脱羅」以下の世代について記録がすっぽり欠落していることだが、それを差し引いたとしても、続柄の不一致など噛み合わない点がいくつかみられることから、稻葉は、メンテムが実在したとしても、ヌルハチがその直系であると断言することは難しいと述べる。
著名人
[編集]歴史人物 (民国以降)
[編集]- 愛新覚羅溥儀:ラストエンペラーとして有名な、清朝最後の皇帝。
- 愛新覚羅溥傑:溥儀の弟。『流転の王妃』の作者・嵯峨浩 (愛新覚羅浩) はその妻。
- 愛新覚羅溥任:溥儀の弟。
- 愛新覚羅顯㺭 (日本名:川島芳子):日中戦争下で日本軍のスパイとして暗躍し、東洋のマタハリと称され、後に処刑された。
- 愛新覚羅顕琦:顯㺭の妹。刑務所や農村での強制労働に耐え、『清朝の王女に生れて』(中公文庫) を上梓した。
現代 (戦後)
[編集]- 愛新覚羅毓嶦:中華人民共和国の書道家。
- 愛新覚羅毓峨:中華人民共和国の画家。
- 愛新覚羅連経:中華人民共和国の山水画家。
- 愛新覚羅恒懿:アメリカ在住の画家。
- 愛新覚羅烏拉熙春 (日本名:吉本智慧子):満洲語研究者。夫は京都大学教授・吉本道雅。
- 愛新覚羅鴻潤 (漢名:金鴻潤):東京帝国大学医学部卒 (内科専攻・医学博士)、後に中国人民解放軍陸軍軍級部隊後方医院院長など。
- 愛新覚羅航 (日本名・田中純美):鴻潤の孫。医学博士。
- 愛新覚羅維:順治帝の子孫。[11]眼科医。東京大学医学博士。
- 愛新覚羅ゆうはん:作家、デザイナー、占い師・風水師。[12][13]
- 愛新覚羅啓星:女優。
脚注
[編集]- ^ 清朝の系図上はヌルハチ父・タクシが初代になっているが、タクシが生前にアイシン・ギョロを称したことはないとされる。また、『滿洲實錄』巻1には天女から生まれたブクリ・ヨンションなる人物がアイシン・ギョロを名告ったとあるが、固より神話に過ぎない。
- ^ 編輯前のテンプレには「1616年2月17日」とかなり具体的な時期をあげていたが、典拠不詳のため採用しなかった。1616年はアイシン・グルン (後金) が樹立された年。
- ^ 百科事典マイペディア 「愛新覚羅」の意味・わかりやすい解説.コトバンク
- ^ “愛新覚羅 あいしんかくら/アイシンギョロ”. 日本大百科全書 (ニッポニカ). 小学館
- ^ 溥儀の相続人として、溥傑は広く認められていた:
• Schmetzer, Uli, "Emperor-in-waiting recalls bygone age", Chicago Tribune, Oct. 25, 1992. "The heir to China`s throne [Pujie] lives in an old house with a courtyard in which the last chrysanthemums of fall sprout amid a heap of coal briquettes collected for the winter."
• "Pu Jie, 87, Dies, Ending Dynasty of the Manchus", New York Times, March 2, 1994. "If Japan had won the war, Pu Jie could have become Emperor of China."
• Song, Yuwu, Biographical Dictionary of the People’s Republic of China, 2014, McFarland and Co., p. 6. "The younger brother of Pu Yi (the Emperor Xuantong) Pu Jie was technically head of the Imperial Qing Dynasty from the death of his brother in 1967 until his own death in 1994." - ^ 増井, 寛也 (2010). 一、「同じハラの兄弟」とギョロ=ハラの構成. “ギョロ = ハラ Gioro hala 再考 ―特に外婚規制をてがかりに―”. 立命館文學 (619): 93 .
- ^ ヌルハチは、独立して一国の主となるまでに、ニングタ・ベイレ (大伯叔父) の子孫から迫害を受けた。
- ^ “ᡠᡴᠰᡠᠨ uksun”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 189 . "〔名〕① 族,家族,宗族。②宗室,即清显祖塔克世 (努尔哈赤之父) 的本文子孙为宗室,伯叔兄弟之支觉罗,宗室腰束带子,觉罗腰束红带子。"
- ^ “アイシンギョロ【愛新覚羅】(Aisin Gioro)”. ブリタニカ国際大百科事典. ブリタニカ・ジャパン
- ^ “部族七”. 滿洲源流考. 7. 四庫全書 . "明實録永樂二年置建州衛十年 (編者註釈:1412年) 置建州左衛宣德七年置建州右衛"
- ^ 安田峰俊 (2021年8月23日). “「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生””. 文春オンライン. 株式会社文藝春秋. 2021年11月15日閲覧。
- ^ YUHANプロフィール | 愛新覚羅ゆうはん(YUHAN)
- ^ 陶器の絵付け作家としての名義はヌルハチ以来の輩字を継承した「愛新覚羅燾晗」。
参照
[編集]史籍
[編集]- 編者不詳『滿洲實錄』四庫全書, 1781 (漢文) *中央研究院歴史語言研究所版
- 編者不詳『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳ (manju i yargiyan kooli:滿洲實錄)』四庫全書, 1781 (満文)
研究書
[編集]- 稻葉岩吉『清朝全史』早稲田大学出版部, 1914
Webサイト
[編集]- 栗林均「モンゴル諸語と満洲文語の資料検索システム」東北大学
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)