尊道入道親王
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(尊道法親王から転送)
尊道入道親王 | |
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身位 | 親王 |
出生 |
正慶元年8月21日(1332年9月11日) |
死去 |
応永10年7月5日(1403年7月24日) 花園妙心院 |
父親 | 後伏見天皇 |
母親 | 正親町実明の女 |
役職 |
青蓮院第十八世門跡 天台座主 |
宗教 | 仏教 |
サイン |
尊道入道親王(そんどうにゅうどうしんのう、正慶元年8月21日[1]〈1332年9月11日〉 - 応永10年7月5日[2]〈1403年7月24日〉)は、青蓮院第十八世門跡。天台座主(第134世・138世・145世)。後伏見天皇の第11皇子。母は権大納言正親町実明の女[3]。初名は尊省[4]。尊道法親王とも。
略歴
[編集]暦応元年(1338年)12月14日、持明院殿での着袴に次いで尊円法親王の室に入り[5]、暦応3年(1340年)2月3日に妙香院を継承した[6]。暦応4年(1341年)7月24日に親王宣下を受け、尊道と改名[7]。
文和4年(1355年)11月6日に天台座主に補され[8]、以後三度天台座主に任じられた[3]。延文元(1356年)年8月28日、尊円法親王より青蓮院門跡を継承する[9]。
応永9年(1402年)2月27日、関白左大臣二条師良の息である道順に天台座主を譲り[10]、応永10年(1403年)7月5日、花園妙心院において入滅。享年72歳。
人物
[編集]- 当代随一の貴僧であり、公武の祈祷に尽力した。足利義詮以降、室町幕府との関係が強く、特に足利義満には気に入られ、度々義満のために祈祷を修した[11]。応永6年には、義満が建立した相国寺塔供養の導師を務めている[3]。
- 歌道と書道に秀でた[3]。
- 話が面白く、酒にもめっぽう強かったという[12]。尊道には、このような逸話が残っている。応永9年、尊道は再建された内裏で安鎮法を修したが、その際連日雨が降った。義満は正鎮法の際も雨が降るだろうと冷やかし、実際に正鎮法の日も雨が降った。義満は再度冷やかすため尊道のもとに使者を遣わしたが、尊道は「降雨で結構。秘密の法文がありますゆえ」と答える。それは何でしょうかと使者が尋ねると、おもむろに「雨フリテ地固マル」と答えたという[12][13]。
脚注
[編集]- ^ 「大日本史料総合データベース、正慶1年8月21日(13320080210) 1条」
- ^ 「大日本史料総合データベース、応永10年7月5日(14030070050) 1条」
- ^ a b c d 小川 2012, p. 138.
- ^ 「大日本史料総合データベース、暦応4年7月24日(13410070240) 1条」
- ^ 「大日本史料総合データベース、暦応1年12月14日(13380120140) 2条」
- ^ 「大日本史料総合データベース、暦応3年2月3日(13400020030) 1条」
- ^ 「大日本史料総合データベース、暦応4年7月24日(13410070240) 1条」
- ^ 「大日本史料総合データベース、文和4年11月6日(13550110060) 1条」
- ^ 「大日本史料総合データベース、延文1年8月28日(13560080280) 2条」
- ^ 「大日本史料総合データベース、応永9年2月27日(14020020270) 2条」
- ^ 小川 2012, pp. 138–139.
- ^ a b 小川 2012, p. 139.
- ^ 『吉田家日次記』応永9年12月14日条
参考文献
[編集]- 小川剛生『足利義満 : 公武に君臨した室町将軍』中央公論新社〈中公新書(2179)〉、2012年。ISBN 9784121021793 。