三浦淳寛
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名前 | ||||||
本名 | 三浦 淳宏 | |||||
愛称 | アツ | |||||
カタカナ | ミウラ アツヒロ | |||||
ラテン文字 | MIURA Atsuhiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1974年7月24日(50歳) | |||||
出身地 | 大分県大分市 | |||||
身長 | 175cm | |||||
体重 | 73kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1990-1992 | 国見高校 | |||||
1993 | 青山学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1994-1998 | 横浜フリューゲルス | 145 | (22) | |||
1999-2000 | 横浜F・マリノス | 55 | (7) | |||
2001-2004 | 東京ヴェルディ1969 | 79 | (10) | |||
2005-2007 | ヴィッセル神戸 | 76 | (21) | |||
2007-2010 | 横浜FC | 72 | (5) | |||
通算 | 427 | (65) | ||||
代表歴2 | ||||||
2000 | 日本U-23(OA) | 3 | (0) | |||
1999-2005 | 日本 | 25 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
2020-2022 | ヴィッセル神戸 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2011年1月10日現在。 2. 2005年5月22日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
三浦 淳寛(みうら あつひろ、本名および選手時代の登録名:三浦 淳宏〈読み同じ〉、1974年7月24日 - )は、埼玉県所沢市生まれ[1]、大分県大分市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。サムデイ所属。フリーキックの名手で、日本における無回転フリーキック、ブレ球の先駆者。妻は元U-21女子日本代表の大竹夕魅。長女がいる[2]。
来歴
[編集]プロ入りまで
[編集]埼玉県所沢市生まれで、西武ライオンズのファン[3]。子供の頃は野球をやっていてプロ野球選手を目指していた。ポジションは捕手。小学校1年生のときに大分県大分市に引っ越し、小学校3年生からサッカーを始める[1]。国見高校時代に背番号10を担い、攻撃的MFとして活躍。全国高校選手権で優勝2回、ベスト4が1回の実績を残した。国見高校卒業後、青山学院大学に入学するも、1994年、大学を中退し[1]、横浜フリューゲルスに入団した。
横浜フリューゲルス時代
[編集]ジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイールのブラジルトリオや、山口素弘、前園真聖、楢﨑正剛らと共にプレーした。
横浜F加入初年度の1994年は公式戦出場がなく、自ら志願してシーズンオフにイタリア・セリエBのコモへの留学を経験する[4][5]。入団当初は攻撃的MFだったが、2年目に左サイドにコンバート後に頭角を表し[4]、レギュラーに定着してからはジーニョ、前園とのコンビでサイドを切り崩していった。1996年と1997年1stステージには鹿島アントラーズと壮絶な優勝争いを演じた(1996年は3位、1997年1stステージは2位)。
1998年、レシャック新監督の下、攻撃的システム3-4-3を採用したフリューゲルスの中で、三浦は左ウイングを担った。 3-4-3スタイルを取ったチームは開幕戦の横浜ダービーで横浜マリノスを延長の末2-1で下すなど好スタートを切ったが、攻撃的スタイルの弊害から翌節から5連敗。その後7連勝するなどし1stステージは10勝7敗の成績を残した。 しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだったゲルト・エンゲルスが昇格し、フリューゲルスとして最後の天皇杯に臨み、優勝。合併が発表された10月29日以降、天皇杯優勝までリーグ戦を含めて(9試合)一度も負けることはなかった。天皇杯優勝後にチームの解散を嘆き号泣した。
横浜F・マリノス時代
[編集]1999年、フリューゲルスとの合併で誕生した横浜F・マリノスにスライド加入。2シーズン在籍し、2000シーズン1stステージ優勝に貢献した。
東京ヴェルディ1969時代
[編集]2001年、東京ヴェルディ1969に移籍。東京スタジアム(現:味の素スタジアム)のこけら落としとなったJリーグ開幕戦「東京ダービー」で直接フリーキックを“ブレ球”にて決め、スタジアムの第1号得点者となった。東京V移籍当初は中盤の右サイドであったが、左SBにコンバートされた。
2004年は、1stステージは出場停止だった1試合を除き14試合すべてに出場したが、相馬崇人の台頭もあり2ndステージは出番が激減し、11月には移籍の意思を表明していた[6][7]。
ヴィッセル神戸時代
[編集]2005年、新しいチームの柱を探していたヴィッセル神戸の誘いにより移籍する。開幕当初は本職の左サイドハーフとしてプレーしていたが、4月にエメルソン・レオンが新監督に就任すると、ポジションをより攻撃的なトップ下に移した[8][9]。7月に三浦知良に代わりチームキャプテンに就任[10]。しかし、シーズン中盤は足首の故障などで、欠場や出場時間を制限してのプレーを余儀なくされ、チームの順位は2度の監督交代も迷走に終わり、最下位を独走してシーズンは終了、J2に降格する。他チームへの移籍が噂されたが、「(J2降格について)自分に責任をすごく感じてたし、(チームを見捨ててJ1チームに移籍することは)このまま男として絶対にできなかった」とヴィッセル神戸残留を表明した。
2006年、横浜FC、柏レイソル、神戸の3強によるJ1昇格争いは3チームとも最終節まで勝ち点差2の状態で自動昇格を争った。2位で迎えた最終戦、勝てば自動昇格が決まるベガルタ仙台戦で三浦は退場し、チームも敗北。神戸は3位となり、J1・16位のアビスパ福岡とのJ1・J2入れ替え戦に回ることとなった。三浦は最終節の退場の影響で入れ替え戦の第1戦には出場できなかったが、入れ替え戦の結果、神戸が1年でのJ1復帰を達成した。その後、三浦は「生涯神戸」を誓った[11]。
2007年、J1復帰した開幕直後の3月11日、川崎戦で相手選手からスライディングを受け左足小指を骨折、全治1か月となり欠場が続く。その後チーム練習に復帰したが、監督の松田浩は三浦の復帰に慎重な姿勢を取った。6月3日にサテライトでの名古屋戦後(この試合でもベンチには入っていたが、三浦の出場はなかった)の囲み取材で、三浦が記者に監督批判(三浦本人はしていないと主張している)をしたと報じられた[12] その後、クラブハウスで松田との話し合いが持たれたが事態は好転せず[13]、10日間の謹慎処分を受け、キャプテンを辞任した[14]。6月26日に退団を表明した[15]。その後、「J1クラブへの移籍は認めない」という神戸側の意向[16] によりJ2のアビスパ福岡への移籍が有力視されていたが[17]、あくまでJ1クラブでのプレーを熱望した三浦は拒否した。
横浜FC時代
[編集]2007年8月12日、横浜FCへの移籍が発表される。ただし、移籍時の契約で、同年10月20日に行われた古巣の神戸戦には出場できなかった[18][19]。この試合で横浜FCは0-3と大敗しJ2に降格する。2008年はJ1昇格を目指すチームの中で左サイドバック、ボランチ、攻撃的MFとしてプレーした。2009年シーズンは序盤はレギュラーとしてほぼ全ての試合に出場していたが、6月に負傷し戦線を離脱。秋には復帰し第50節のコンサドーレ札幌戦では長距離の直接フリーキックを決めた。2010年、10月までの出場は2回、計15分の出場に留まった。同年11月、横浜FCから戦力外通告を受けた。
2011年4月4日、自身のブログで現役引退を発表。
日本代表
[編集]1997年、ワールドカップフランス大会アジア地区最終予選の壮行試合を兼ねたJOMO CUP「日本代表」対「Jリーグ外国籍選抜」に出場し日本代表デビューするも[20]、最終予選の代表メンバーからは漏れ、公式戦出場は持ち越しとなった。
1999年6月6日のキリンカップ・ペルー戦で国際Aマッチ初出場。6月29日に行われたコパ・アメリカ1999のペルー戦で直接フリーキックを決めて代表初ゴールをあげた[21]。
2000年には、楢﨑正剛、森岡隆三と共にオーバーエイジとしてシドニーオリンピックに出場し、1968年メキシコシティーオリンピック以来32年ぶりに決勝トーナメントに貢献。日本が優勝したAFCアジアカップ2000では大会途中に腰痛捻挫で帰国[22]。しかし主戦場としていた左サイドは代表一の人材過多なポジションで、トップ下からコンバートされた中村や小野がレギュラーを務め、スーパーサブにはJリーグで大ブレイク中に帰化した三都主が加わったこともあり、2002年日韓ワールドカップのメンバーには選ばれなかった。
2003年よりジーコジャパンに選出され、三都主アレサンドロのサブとして4バックの左SB(サイドバック)でプレーした。2004年アジアカップでは控えながら、ベテランとして藤田俊哉と共に献身的にチームを盛り上げ代表チームを結束させ、優勝に貢献した。
ドイツW杯・アジア予選でもサブ組ながらチームを盛り上げ、裏からジーコジャパンを献身的に支え続けた。特にチームの雰囲気が悪い中で迎えたアジア最終予選での大一番バーレーン戦前の合宿中に行われた選手間ミーティング(通称「アブダビの夜」[23])で、「みんな本当にW杯へ行きたいのか。おれは年齢的にも最後だし出たい」と熱く語りチームを結束させたとされる[24]。その結果ワールドカップ出場権獲得につなげたが、ドイツW杯本大会の日本代表メンバーには選出されなかった。結果的に2005年5月22日のキリンカップ・ペルー戦が最後の国際Aマッチ出場となった。
引退後
[編集]引退後は三浦 淳寛に改名し、サッカー解説者としても活動。宮澤ミシェル・福西崇史らが在籍しているサムデイと所属契約をした。2012年ロンドンオリンピックでは、ジャパンコンソーシアムの解説者として、長谷川健太・宮本恒靖・福西とともに男女サッカーの中継へ出演している。またフジテレビ系列「すぽると!」(2014年まで主として土曜)やテレビ東京系列「FOOT×BRAIN」などにも出演。2015年からはTBS系列「スーパーサッカー」にも出演。また、指導者として第2の人生を歩むべく、日本サッカー協会指導者ライセンス取得を目指していた。
2013年11月4日、ニッパツ三ツ沢球技場で引退試合を開催[25]。
指導者時代
[編集]2015年、Jリーグで監督を務めるために必要な日本サッカー協会公認のS級ライセンスを取得。
2018年2月より、ヴィッセル神戸のスポーツダイレクターに就任[26]。
2020年9月、トルステン・フィンクの後任としてヴィッセル神戸の監督に就任した[27]。就任後は3連勝スタートを切ったものの、その後が続かず、リーグ戦は29節から34節にかけて6連敗を喫してシーズンを終えた。ACLではグループリーグを突破。決勝トーナメントでは上海上港と水原三星を下したが、準決勝で蔚山現代FCに延長戦の末敗れ、ベスト4で敗退した。
2022年、ACLプレーオフは勝利し、本戦に進出するも、リーグ戦でクラブワースト記録となる7戦未勝利を記録。3月20日に契約解除が発表された[28]。
プレースタイル
[編集]プロでは主に左アウトサイドの選手であったが、小学生から大学生時代にかけて、センターフォワードやウイングをこなしたこともあり、右アウトサイド、左サイドバック、トップ下、ボランチ、フォワードと数多くのポジションをこなすことができる。右利きであるが、ディエゴ・マラドーナにあこがれて子供のころから左足も練習した[29]。 前述のようにフリーキックの名手である他、捕手出身ならではの強肩を生かしてのスローインも武器にしていた。
所属クラブ
[編集]- ユース経歴
- 1984年 - 1986年 明治北SSC(大分市立明治北小学校)
- 1987年 - 1989年 大分市立明野中学校
- 1990年 - 1992年 長崎県立国見高等学校
- 1993年 - 1994年 青山学院大学
- プロ経歴
- 1994年 - 1998年 横浜フリューゲルス
- 1999年 - 2000年 横浜F・マリノス
- 2001年 - 2004年 東京ヴェルディ1969
- 2005年 - 2007年8月 ヴィッセル神戸
- 2007年8月 - 2010年 横浜FC
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | 横浜F | - | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1995 | 51 | 6 | - | 2 | 1 | 53 | 7 | ||||
1996 | 30 | 3 | 14 | 0 | 2 | 0 | 46 | 3 | |||
1997 | 6 | 32 | 3 | 10 | 1 | 5 | 2 | 47 | 6 | ||
1998 | 32 | 10 | 3 | 2 | 5 | 0 | 40 | 12 | |||
1999 | 横浜FM | 9 | J1 | 29 | 2 | 6 | 0 | 3 | 0 | 38 | 2 |
2000 | 26 | 5 | 3 | 0 | 1 | 0 | 30 | 5 | |||
2001 | 東京V | 6 | 22 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 24 | 3 | |
2002 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | |||
2003 | 26 | 2 | 4 | 1 | 3 | 0 | 33 | 3 | |||
2004 | 23 | 4 | 0 | 0 | 1 | 0 | 24 | 4 | |||
2005 | 神戸 | 17 | 25 | 6 | 0 | 0 | 2 | 0 | 27 | 6 | |
2006 | J2 | 46 | 15 | - | 0 | 0 | 46 | 15 | |||
2007 | J1 | 5 | 0 | 1 | 0 | - | 6 | 0 | |||
横浜FC | 39 | 9 | 0 | - | 1 | 0 | 15 | 0 | |||
2008 | 17 | J2 | 37 | 2 | - | 2 | 0 | 39 | 2 | ||
2009 | 24 | 3 | - | 1 | 0 | 25 | 3 | ||||
2010 | 2 | 0 | - | 0 | 0 | 2 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 318 | 45 | 43 | 4 | 25 | 3 | 391 | 52 | |
日本 | J2 | 109 | 20 | - | 3 | 0 | 112 | 20 | |||
総通算 | 427 | 65 | 43 | 4 | 28 | 3 | 498 | 72 |
その他の公式戦
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2006年
- J1・J2入れ替え戦 1試合0得点
個人タイトル
[編集]- ナビスコカップ ニューヒーロー賞 (1997年)
- Jリーグオールスターサッカー MIP (2004年)[30]
- 功労選手賞 (2011年)
- Jリーグ月間最優秀監督賞(2021年7月, 10月)
日本代表歴
[編集]出場大会
[編集]- U-23日本代表
- 1996年 - 国際親善試合 - チュニジア戦
- 2000年 シドニーオリンピック (オーバーエイジ)
- 日本代表
- 1999年 コパ・アメリカ
- 2000年 アジアカップ
- 2001年 コンフェデレーションズカップ
- 2003年 東アジア選手権
- 2004年 アジアカップ
- 2005年 コンフェデレーションズカップ
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 25試合 1得点 (1999年 - 2005年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1999 | 5 | 1 |
2000 | 8 | 0 |
2001 | 3 | 0 |
2002 | 0 | 0 |
2003 | 1 | 0 |
2004 | 6 | 0 |
2005 | 2 | 0 |
通算 | 25 | 1 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1999年06月06日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | ペルー | △0-0 | フィリップ・トルシエ | キリンカップ |
2. | 1999年06月29日 | アスンシオン | ペルー | ●2-3 | コパ・アメリカ | ||
3. | 1999年07月02日 | アスンシオン | パラグアイ | ●0-4 | コパ・アメリカ | ||
4. | 1999年07月05日 | ペドロ・ファン・カバジェロ | ボリビア | △1-1 | コパ・アメリカ | ||
5. | 1999年09月08日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | イラン | △1-1 | キリンチャレンジ | |
6. | 2000年04月26日 | ソウル | 韓国 | ●0-1 | 国際親善試合 | ||
7. | 2000年06月04日 | カサブランカ | フランス | △2-2(PK2-4) | ハッサン2世杯 | ||
8. | 2000年06月06日 | カサブランカ | ジャマイカ | ○4-0 | ハッサン2世杯 | ||
9. | 2000年06月11日 | 宮城県 | 宮城スタジアム | スロバキア | △1-1 | キリンカップ | |
10. | 2000年06月18日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | ボリビア | ○2-0 | キリンカップ | |
11. | 2000年08月16日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | アラブ首長国連邦 | ○3-1 | キリンチャレンジ | |
12. | 2000年10月14日 | サイダ | サウジアラビア | ○4-1 | アジアカップ | ||
13. | 2000年10月20日 | ベイルート | カタール | △1-1 | アジアカップ | ||
14. | 2001年03月24日 | サンドニ | フランス | ●0-5 | 国際親善試合 | ||
15. | 2001年05月31日 | 新潟県 | 新潟スタジアム | カナダ | ○3-0 | コンフェデレーションカップ | |
16. | 2001年06月10日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | フランス | ●0-1 | コンフェデレーションカップ | |
17. | 2003年10月08日 | チュニス | チュニジア | ○1-0 | ジーコ | 国際親善試合 | |
18. | 2004年02月07日 | 茨城県 | 茨城県立カシマサッカースタジアム | マレーシア | ○4-0 | キリンチャレンジカップ | |
19. | 2004年04月25日 | ザラエジェルツェグ | ハンガリー | ●2-3 | 国際親善試合 | ||
20. | 2004年04月28日 | プラハ | チェコ | ○1-0 | 国際親善試合 | ||
21. | 2004年07月09日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | スロバキア | ○3-1 | キリンカップ | |
22. | 2004年11月17日 | 埼玉県 | 埼玉スタジアム2002 | シンガポール | ○1-0 | ワールドカップ予選 | |
23. | 2004年12月16日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | ドイツ | ●0-3 | キリンチャレンジカップ | |
24. | 2005年03月25日 | テヘラン | イラン | ●1-2 | ワールドカップ予選 | ||
25. | 2005年05月22日 | 新潟県 | 新潟スタジアム | ペルー | ●0-1 | キリンカップ |
得点
[編集]# | 開催日 | 開催地 | 会場 | 相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1999年06月29日 | アスンシオン | ペルー | ●2-3 | コパ・アメリカ |
出演
[編集]テレビ番組
[編集]著書
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 【スペシャルインタビュー Vol.26】ヴィッセル神戸:三浦淳宏選手 - ウェイバックマシン(2013年11月13日アーカイブ分) - J's GOAL
- ^ “三浦淳寛・神戸元監督の11歳長女由楽さんプロゴルファー目指す イニエスタ長女と同級生”. 日刊スポーツ (2022年7月5日). 2022年7月6日閲覧。
- ^ サッカー元日本代表・三浦淳宏さんへのインタビュー:スクスクのっぽくん
- ^ a b “元サッカー日本代表・三浦淳寛が語る「挫折に負けない“健康”な心の作り方」”. U-NOTE [ユーノート] (2016年12月5日). 2018年8月21日閲覧。
- ^ “好きファン対談!!”. 東京新聞ほっとWeb. 2018年8月21日閲覧。
- ^ 東京V三浦移籍志願、神戸が有力 - ウェイバックマシン(2005年1月16日アーカイブ分)nikkansports.com(2004年11月26日)
- ^ 三浦 移籍やむなし - ウェイバックマシン(2005年3月1日アーカイブ分)デイリースポーツonline(2004年11月29日)
- ^ “神戸三浦淳コンバート、レオン改革第1弾”. なにわWEB 大阪日刊スポーツ新聞社. (2005年4月27日). オリジナルの2007年5月18日時点におけるアーカイブ。 2018年8月21日閲覧。
- ^ 益田一弘 (2005年5月15日). “レオン神戸初白星!三浦淳移籍初弾/J1”. なにわWEB 大阪日刊スポーツ新聞社. オリジナルの2006年2月24日時点におけるアーカイブ。 2018年8月21日閲覧。
- ^ “【J1:第15節 神戸 vs 清水 プレビュー】新キャプテン・三浦淳宏を中心に、神戸は待望の白星を挙げられるか?!(05.07.08)”. J’s GOALニュース (J’s GOAL). (2005年7月8日) 2018年8月21日閲覧。
- ^ 移籍方向一転…アツが謝罪、残留へ - ウェイバックマシン(2007年8月27日アーカイブ分)デイリースポーツonline(2007年6月21日)
- ^ 「寂しかった」三浦アツ涙の監督批判 - ウェイバックマシン(2007年10月9日アーカイブ分)スポニチ Sponichi Annex(2007年6月4日)
- ^ 主将アツが無期限休養…最悪流出も - ウェイバックマシン(2007年7月11日アーカイブ分) - デイリースポーツonline(2007年6月8日)
- ^ 『ヴィッセル神戸MF三浦淳宏選手の処分について(07.06.12)』(プレスリリース)ヴィッセル神戸、2007年6月12日 。2018年8月21日閲覧。
- ^ アツ退団強行策、神戸に断りなく表明 - ウェイバックマシン(2007年10月10日アーカイブ分)nikkansports.com(2007年6月27日)
- ^ アツ移籍先J1は駄目、神戸が方針強調 - ウェイバックマシン(2007年10月10日アーカイブ分)nikkansports.com(2007年6月29日)
- ^ アツJ2福岡へ、近日中正式決定 - ウェイバックマシン(2007年9月20日アーカイブ分)nikkansports.com(2007年7月19日)
- ^ 異例の条件!アツ神戸戦出場禁止 - ウェイバックマシン(2007年10月18日アーカイブ分)デイリースポーツonline(2007年8月14日)
- ^ “横浜FC、最速降格回避へ悲壮”. ゲキサカ. (2007年10月20日) 2018年8月21日閲覧。
- ^ 代表TIMELINE | SAMURAI BLUE サッカー日本代表| 日本サッカー協会
- ^ 増島みどり (1999年6月29日). “~ 南米選手権パラグアイ99 現地レポート ~ 日本×ペルー”. MASUJIMA STADIUM. 2018年8月22日閲覧。
- ^ “アジアカップ 日本代表チーム選手離脱について”. FC JAPAN. (2000年10月25日) 2018年8月22日閲覧。
- ^ アブダビの夜 W杯へ激論 - ニッポン人脈記 asahi.com、2006年11月07日発行
- ^ “闘莉王が本田らに喝! 選手ら夜の大激論” (2010年6月4日). 2010年5月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月17日閲覧。
- ^ “主役が“ハットトリック”締め、元日本代表三浦淳宏が引退試合開催”. ゲキサカ. (2013年11月4日) 2018年8月22日閲覧。
- ^ 三浦淳寛氏 スポーツダイレクター就任のお知らせ ヴィッセル神戸
- ^ 『三浦 淳寛新監督就任およびトップチーム新体制発表のお知らせ』(プレスリリース)ヴィッセル神戸、2020年9月24日 。2020年9月24日閲覧。
- ^ “J1神戸 三浦監督と契約解除、7戦未勝利「志半ばですがチームを離れる形になり残念」”. デイリースポーツ online (2022年3月20日). 2022年3月20日閲覧。
- ^ 解説者の素顔「三浦淳寛編」 - ウェイバックマシン(2012年1月24日アーカイブ分) スカパー!
- ^ 『[ 2004JOMOオールスターサッカー ]試合結果と各表彰発表(04.07.03)』(プレスリリース)J’s GOAL、2004年7月3日 。2018年8月21日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 三浦淳寛 - Olympedia
- 三浦淳寛 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- 三浦淳寛 - National-Football-Teams.com
- 三浦淳寛 - Soccerway.com
- 三浦淳寛 - FootballDatabase.eu
- 三浦淳寛 - WorldFootball.net
- 三浦淳寛 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 三浦淳寛 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 三浦淳寛 - FIFA主催大会成績
- 三浦淳寛 - J.League Data Siteによる選手データ
- サムデイ公式プロフィール[リンク切れ]
- ダイヤモンドブログ - 公式ブログ
- 日本のサッカー選手
- サッカー日本代表選手
- 横浜フリューゲルスの選手
- 横浜F・マリノスの選手
- 東京ヴェルディ1969の選手
- ヴィッセル神戸の選手
- 横浜FCの選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ2005出場選手
- AFCアジアカップ日本代表選手
- AFCアジアカップ2000出場選手
- AFCアジアカップ2004出場選手
- オリンピックサッカー日本代表選手
- 2000年シドニーオリンピックサッカー出場選手
- コパ・アメリカ1999出場選手
- サッカー解説者
- 日本のサッカー指導者
- ヴィッセル神戸の監督
- バーニングプロダクション系列所属者
- 長崎県立国見高等学校出身の人物
- 青山学院大学体育会サッカー部の選手
- 埼玉県出身の人物
- 大分県出身の人物
- 1974年生
- 存命人物